勝負の行方 そのろく。
ここのところ、「何かいいことでもありました?」と聞かれることが増えたと思う。
そんなに顔に出てるのかな、と心配になる一方で、ええ、ええ、いいことがありましたとも!と自慢して歩きたい気持ちでもある。
まだ私が女公爵の立場を失ったことは公表されず、相変わらず地位と名声目当てに寄ってくる輩は後を絶たなかったが、いつもの何十倍も大らかな気持ちで対応できたと思う。むしろ機嫌が良すぎて夜会で会ったリリーから「キモい」と言われてしまったが、気にならないし、気にしない。今の私は誰より心が広い。
もう何もかもがキラキラと輝いて見える。
万一にも私が負ける余地のない勝負とは言えない勝負。
卑怯な手とは分かっていたが、それを上回るほどに奴が負けを認めた表情を思うだけで喜びが満ち満ちてくるというもの。汚い手がなんだ。勝負と断言できない勝負だろうと、こういうのは勝ったもんがち。過程ではなく、結果が全て。
心が浮き立つと、日にちが過ぎるのは早い早い。
あっという間に私は一週間を終え、また最北端のこの街にやって来ていた。
「…………」
「…………」
一週間前と同じように森の入り口の木に泰然と寄りかかっていたアデルは私の顔を見るなり目を細めた。おそらく私を待つ間の時間潰しに読んでいたのだろう本を鼻に立てかけ、黒い目だけが前髪と本の隙間から覗いている。
「何かいいことでもあったのかい?と、聞いた方がいいのかな。……大体予想はつくけれど」
どこか観察するような雰囲気を感じさせる視線そのままに問うてくるアデル。
うまく隠せてたと思ったんだけど。
両手で頬に触れて、確かに口角がニヤニヤと隠しきれずに笑っていたことに愕然とする。うわ、恥ずかしい。
「……そんなに分かりやすかった?」
「端的に言って気持ち悪いほどに」
言い方っ!他になんかなかったのかっ!
地団駄を踏みたい衝動をなんとか耐え、腕を組み睨みつける事で抗議の意とする。それを受けてなお奴は目を細めたまま質問に答えてあげただけだよ、とのうのうと宣い、
「早とちりはどうかと思うけど――まあいいか」
口元を覆うようにしていた本をどかし、流し目のままパタン、と閉じた。
その際目に入った表紙には意外や意外。隅に細かな筆遣いの装飾が施された、最近流行りの小説の題名が飾られているではないか。
女性が好みそうな意匠の表紙に、令嬢の好みど真ん中な内容の小説。それがいかに中性的で、ともすればその顔立ちが少々女性的であるとはいえ社交界で令嬢たちの人気をさらう公爵家子息、シャルル・アデルの手の中にあるのには違和感を抱かずにいられない。
いや、まあ人の趣味嗜好は千差万別で、一般的に令嬢の読み物とされる物を好む男性がいるというのは知識として知っているし、無論その逆も然り。
そう、もう一度言うが好みは人それぞれで多種多様。だからそれをどうこう言うつもりはない。……ない、が、女性の注目を我が物とする彼と、その手の中の本。
違和感が生じるのも致し方ないとも言える。
あくまで本を閉じるのを目で追った、という態で表紙に目を留めたのは一瞬だけだったが、奴はめざとくそれに気付いた様子で「ああ」と呟き、手の中の本を掲げる。
「これは友人のものだよ。なんでも彼女の愛読書らしくてね、勧められたんだ。最近の令嬢たちの流行りのようで社交場でもよくこの話題が飛び交っているし、この機会にと思って借り受けたんだ」
特に隠そうとも焦りもせず、アデルはほら、と私に装丁がよく見えるように本を持ち直す。緑地に金糸が刺繍され、二色で統一された装丁。以前私も付き合いで一度目を通したが、質素で重厚感漂う表紙とは裏腹にその中身はなんとも可愛げで、終始重厚感とは正反対の内容だったと記憶している。
ちなみに貸してくれたのはリリーだ。
私が読もうと思ったのがちょうど人気がで始めた頃と被ってしまい、手に入らなかったところそれなら、とリリーが快く貸し出してくれた。
彼女の中では読み終わったら一緒に本の感想で盛り上がれる、という小さな打算があったらしいが、いざ開いてみると私の趣味ではなかったのか中々内容が頭に入ってこず、結局流し読みで終えてしまった。ぼんやり全体像しか理解し終えなかった私に、リリーは布教が成功しなかった、とすごく落ち込んでたっけ。
「――ただ、あまり私の好みとは言い難いかな」
「私も趣味に合わなかったからちゃんとは読んでないわ」
苦笑するアデルにだろうな、と内心頷く。うだうだどうのこうのと考えていたが、そもそも乙女感満載な内容にアデルか関心を寄せるとは思えない。
そしてこの類の小説には私も興味がない。
アデルは本を腰に提げていた鞄に仕舞うと、さて、と体を起こし、寄りかかり木と触れ合っていた部分を叩き払いながら、
「お腹、空かない?」
「…………は?」
唐突にそう言った。
*************
お腹が空いてるか空いてないかで言えば、今にもお腹の大合唱が始まりそうなほどに空いている。
私は一日三食きっちり食べる派だ。だからか時偶抜いた時の反動は恐ろしく、今感じているのが空腹感なのか吐き気なのか分からなくなるほど。そしてそんな気持ち悪さに悩む間もいつお腹が鳴り出してしまうかひやひやし、一向に気が抜けない。
もしこいつの前で鳴ってしまったらひやひやどころではないというのに、食べていたら乗り合い馬車の出発時刻に遅れてしまうからと、結局今日は朝食を抜いて来てしまった。
つまり、現状私はお腹が空きすぎている。
だというのに意味のない意地っ張りな部分が「空いてない」と即答させてしまうのだから、ほとほと私の中の意地っ張りには呆れてしまう。
これくらい素直に認めればいいのに。
これでお腹が鳴ったらどうするつもりだったんだ私。
そんな意地を張った我慢強さも、目の前に香草の香り溢れるお肉と、まだ新鮮さを保つ野菜が挟まれたパンを差し出されればあっという間に瓦解していく。
じゅるり、とよだれが垂れかけた。
今すぐにでも手を伸ばしそうになるのをありったけの理性で抑えて、垂れそうになるよだれも飲み込んで、お腹の合唱を腹筋に力を入れて根性で耐えて。
それを差し出すアデルを見上げる。
「食べないの?これ、美味しいけど」
場所を移した広場にて。
お腹が空いてないと嘯いたにも関わらず腕を引かれ、私は現在大通りから外れた憩いの場でベンチに腰掛けていた。
すぐそこにある屋台で昼食を調達してきたアデルは中々受け取らない私に首を傾げ、そう言う。
私だって今すぐにでも手を伸ばしてかぶりつきたいさっ!でもこの強情な部分が素直にそうさせてくれないのよっ。
受け取る代わりに、言う必要のない言葉を口が話しだす。
「……貴方、私のこと貴族令嬢と思ってないわよね」
「そうかい?――ああでも、普通で一般的な令嬢とは思ってないかもしれないね。なんというか……ちょっとずれてるかな?と思ってるよ」
ずれてる。うん、まあ当たってるわね。
だって普通で一般的な令嬢ならお茶会でもないのに外で、しかも手掴みで料理を食べたりしないだろうし、そもそも乗合馬車なんか乗ったり、一人で郊外の街まで来たりしない。
それに、
「で、食べるの、食べないの」
こうしてアデルが一般人として紛れることを良しとはしないだろう。多分こんな場面を見たらその簡素な衣装に眉を潜めるか、苦言を呈すかのどちらかだ。
ずいっと目の前に押し出され、より強烈に顔にぶつかってくる香草の香り。間近でそれを嗅いでしまったことで、私の天秤はあっけなく空腹に傾いた。
陥落したらあとは早い。素直がどうこう、意地がどうこうなんて考えは吹っ飛び、兎にも角にも一刻も早く飢えを満たそうと「ありがとう」と礼を言いながら腕を伸ばして――、
スカッ、と。
腕が空ぶった。
掴む寸前、それが上に持ち上げられたことで。それはもう見事に。虚しく。
「…………」
「――ふっ、ふは……。冗談だよ、冗談。くっ……」
ぽん、と私の空ぶった手にパンを置いて、何がツボに入ったのかアデルは声を堪えるようにして笑う。
それを見て、パンを見て、またアデルに目を向けて、
「――――っ!!」
揶揄われたのだと、一拍置いて理解した。
一気に顔が熱くなり、湧き上がる怒りの衝動のままその足元目掛けて踵落としを仕掛ける。が、一歩後ろに下がることで易々と回避されてしまった。当たらないだろうと頭で理解していながらの攻撃だったが、実際に当たらないとなると頭にくる。
食べ物を持っていることもありそれ以上なにかを仕掛けることもできず、せめてもの抵抗にと睨みつけてやれば、奴は耐えきれないとばかりに笑い声を上げ始めた。
「あははっ、そんな、必死にならないでほし……っ、ふっ、くく、何その目っ――もっ、餌取り上げられた犬みたっ、はははっ!」
「犬!?言うに事欠いて犬!?」
「あれ、見たことない――?ふっ、王宮にいる、王女殿下、の、ペット。あの子もよく、そういう目をするんだよ」
まだ収まらないのかアデルは目に涙を堪え、薄ら頬に朱が差している。その目はまるで本当にペットを可愛がる目つきで、もう怒ればいいのか悲しめばいいのか分からない。喜ぶのが間違いだということだけは分かっているが。
はあ、と息を全て吐き出して、新鮮なものと入れ替える。
これは油断した私が悪い。
警戒もせずなにを呑気にしているの、この阿呆。こいつがこういうことする奴だってのは分かってたはずなのに。
なんでそんな簡単に気を抜いて――ああ、そうだ。これは空腹のせいだ。
あまりにもひどい空腹時には集中力が低下するのだと、以前読んだ本に書いてあった。あと無駄に苛々してしまうのも。
「あ、食べるんだ」
楽しげに笑うアデルを睨みつつ、まだほんのり温かいパンにかぶりつく。甘めに味付けされたお肉と野菜、味のバランスが非常に良い品だ。
一応お礼は言った。ので、黙々と食べ進めていく。
そんな私の隣にアデルは腰掛け、同じように黙って食事を開始。
その様子を横目に見て、決して優雅とはいえない食事の仕方ですら様になっているその姿にまた深々とため息を吐きたい気分になった。
それはなにをしていても絵になる嫌味なところと、皮肉なほど手足が長いところ、そしてこいつの隣にいることで周囲(というか主に女性)からの熱い視線のとばっちりが原因だ。
こいつは夜会でだろうと街でだろうと人の目を惹きつける男らしい。
おかげでなんて居心地の悪いこと。
次から次へとぐっさぐっさ視線が体に突き刺さってくるを
……多分、ここが貴族社会の中でないだけまだマシなんだろう。…………そう思うことにしとこう。
――でも。
最後の一欠片を口へと放り込み、こっちよりも遅く食べ始めたというのに私よりも先にさっさと食べ終わり、飲み物を買っているアデルの背を見ながら思う。
――貴族だろうと貴族でなかろうと、女は怖い。
私は食事中にまた一つ、生きていく上で大切なことを学んだ気がした。
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