おわり。

 黒い髪に金の瞳。男とは思えないほど綺麗な白い肌。顔は改めて言うべくもなく綺麗に整い、まるで神に愛されているかのよう。スラリとした長身も合わさり、ただその場にいるだけで人の目をさらってゆく。


 ………ハッ。


 過去に聞いたシャルル・アデル公爵令息の噂を記憶から掘り出し、鼻で笑ってしまった。



 あの日、逃げ出した結果帰ってきた私を待っていたのは想像通りの説教だった。

 両親ともに放任主義なため彼らがあまり私のやることに口を出すことはないが、もちろん親として怒る時は怒る。父は注意するだけの優しい怒り方だが、怖いのは母だ。普段滅多に怒られないため、一度怒り出すとそれはもう恐ろしい。特に約束を反故にしたり嘘をついたりするのを嫌うからあの日の私の行動は母の逆鱗に触れたらしく、その怒りようは尋常じゃなかった。なんとか父が母を宥めたくれたのでことなきを得たが、本当にあれは怖かった。


 ちなみに見合いは私の「体調不良」のため延期になった。次は一週間後だそう。


 すでに五日が経っているが私の中に妙案は浮かばず、けれど今度は逃げるつもりがない。


『事情も君のこともよく知るわけじゃないからなにを勝手なことを、と言われるかもしれないけど私はきちんと話し合うことも必要だと思う』


『親御さんとじゃなくて相手の方とね。もしかしたら事情を話すことで憂いがなくなるかもしれない。相手も実はこの話に乗り気じゃないかもしれない。もちろんその反対もあり得るだろうけど、分かることも少なからずあると私は思うんだ』


 今思い返してもまったくもってお兄さんの言う通りだ。向き合って見えてくるものもあるだろう。そりゃ何もかも思い通りにはいかないだろうが、向き合うことで新しい方向性が見えてくるかもしれない。

 第一また逃げ出してしまってはそれこそ子供のすること、だ。


 まずは相手がどんな人かを知るため噂を記憶から掘り出していたのだが、それはもうでてくる出てくる美辞麗句の数々。うんざりするほどだ。容姿に関しての情報をまとめるだけで一苦労なんて。


 そうして改めてまとめた結果、思ったよりも彼は目立つ人物らしい。思わず鼻で笑ってしまうほどに。


 黒髪の美形でお兄さんを思い出したが、いやいやないないと首を振る。身分を聞いたわけではないから分からないが、少なくとも見覚えはない。となると貴族の線は薄い。それに彼の瞳は黒かった。それだけはないだろう。


 ………相手がお兄さんだったら良かったのに。きちんと事情を話せば断るのが楽そうだ。


 好きな人と結婚したいとか相手に好きになってほしいとか、そんなことは望まないからただただ普通の人がいい。女性に優しいという点は買うけれど未婚既婚年齢問わず来るもの拒まずな人は遠慮したい。


 一度このことを考え出すと悪い方悪い方へと向かってしまい、ため息しか出ない。逃げ出したくてたまらなくなるので、行動に移してしまう前に考えるのをやめた。





  ***********



 朝から風呂に放られ、全身を磨き着飾られた頃にはもうくたくただった。ドレスがパーティー用のキラキラヒラヒラじゃないだけマシと思えばいいのか。


 同じ轍は踏まないとばかりに私を監視していた母は私がされるがままと知るやいたく満足そうで、ご機嫌だった。てっきり二人も一緒に行くのだとばかり思っていたが違ったようで、馬車に詰め込まれた私にそれはもういい笑顔で手を振り見送ってくれた。


 馬車に揺られながら考えるのは今日相手と会ってからの流れだ。


 まずは挨拶を無難に済ませ、適度に場が温まったところで本題に。とはいえいきなり「私はこの縁談をなかったことにしたいのですが」などとは言えない。それとなーく相手の本心を探り彼があまり乗り気でないようなら本音を明かす。そうじゃないならなんとかして諦めてもらう。


 一週間でこの縁談について出来る限り調べた結果、政治が絡んだ話ではないことが分かった。多分親同士の繋がりで「どっちもいい歳なのに相手がいないんだしどう?」とでも軽ーく決まったのだろう。そうして話が持ち上がるのはよくある話で、けれどこのご時世それが本決まりになるのは珍しい。しかしそれ以外に考えられる理由はなく、また彼が社交界でご令嬢にモテモテなのは誰でも知っていることなのであのア……父のことだ、『アタリーもそんな相手なら喜ぶだろう』とでも考えて話を進めたに違いない。

 私を思ってのことだとしてもそんな軽く子供の相手を決めるんじゃない!とは思ってしまうわけでして。……ま、今更だ。決まってしまったことは仕方ない。


 それに、やりようはいくらでもある。政略婚がまだあるとはいえ基本的には恋愛結婚が尊ばれるのだ、いざとなれば周りの同情を買えばいい。


「でも、多分あっちも乗り気じゃない」


 これはほぼ確信している。

 興味がなかったので全部が全部知ってるわけではないが、彼が今までに特定の誰かを作ったことはない。もしそうだったとしたら噂が私の耳に届かないはずがない。腐っても公爵令嬢だ。普通の貴族よりは情報が耳に入る立場にいる。


 女関係での大事もないようだし、噂が一人歩きしたり、特定の誰かを作らないよう上手く立ち回れてる。平等に接しているといえば聞こえはいいが、その気がないとも捉えられる。だからこそ踏み込んだお付き合いではなくどこか一線を引いた付き合い方をしているのだろう。変な期待を持たせないためにも。


 そんな訳で……なんて勿体ぶってはみたものの、実を言うと確信に至った理由はもっと単純なものだ。


 一昨日出席した夜会でさりげなく彼に熱を上げているご令嬢に聞いてみたが、彼が身を固める決意をしたという情報はなかった。

 その令嬢の言葉を信じるならつい昨日も彼と彼女は会ってたみたいだし、暴露もなにも次、その次と女の子たちとの約束はすでにできているよう。縁談が持ち上がったにも関わらず。決意をしたなら普通そんなことはしない。前もって決めていた約束ならまあ仕方ないだろうが、縁談が決まった後に約束を取り付けてるんじゃ彼にとっても望んでないことは明白。


 裏でそれを考えていないとも言い切れないが、私を形だけの妻に据えて女遊びにふける輩にも見えない。もしそんなことをした日にはいくら顔がよかろうと女の子たちの方から去っていくのは目に見えている。全員が全員そうだとは言わないが、世間体と今までの行動も合わさって好んで近寄ろうとはしなくなるだろう。

顔だけでなくその性格も相まっての人気なのだから。


 そんなこんなで彼が乗り気とは到底思えず大分気楽に構えてはいるが、一番怖いのはあちらの気が変わったりしないか、だ。私の見た目はまあそれほど悪くはないと思う。ただ、それほど、だ。可愛いわけでも美人なわけでもないよくいえば平凡で、悪くいえば特徴のない顔。

シャンタルたちはそんなことないというが、鏡を見てから言って欲しいと常々思う。

平凡顔が美人に綺麗と言われても嬉しくはない。虚しくなるだけだ。

そんなわけで私の見た目で気が変わるとは思えないが、思ってもないことで彼が乗り気になる場合もある。実はそろそろ結婚も考えてたしいい機会だ、親の顔を立てる意味でも乗ってしまおうか、とか。

 そういう私に関係しない心変わりが一番怖い。


 ちなみに彼が私の考えから外れた軽い男などではなく、万が一、億が一に乗り気だったとしても結婚するつもりは毛頭ない。

 調べた結果というのももちろんあるが、たとえ彼が結婚後は女性との交友を控えるとしても彼の側にいては他所から厄介ごとがやってくる気がする。

 本人たちがどう思おうと周りがそれを酌んでくれるとは限らないから。


 まあ、どちらにしても可能性は限りなく低いけど。


 こういう相手はよほどのことがなければ自分を曲げたりしないものだし。


 ガタゴトと、車輪の音が聞こえる。音は聞こえるが、中が揺れることは決してない乗り心地の良い馬車。一週間前に乗った乗合馬車とはまるで違う。それもそのはず、これはレインワーズ家一の高級馬車だ。比べるべくもないその馬車に乗りながらも、風を生身で感じられるあっちのほうが私は好きだ。


 車窓から覗けば少し遠くに大きな屋敷が見えてきた。あれがアデル公爵家だろう。

 じわり、と少しの緊張がせり上がってくる。それでも、逃げようとは思わなかった。


 ――きっと、こうして冷静に考えられるのはお兄さんの存在あってのものだ。

 ああして話すこともなければ冷静に考え、たどり着けるものにもたどり着けなかっただろう。彼には感謝しかない。

 もし今回のこれがうまくいったなら、私はもう一度あの場所に行こうと決めている。

 会えるかは分からないけど、名前も知らない彼にもう一度会おうとするなら会ったあの場所に行くしか手はない。権力を使って探す気にはなれない。自分の足で会いにいかなくては。


 息を吸い、吐く。

 両手で頰を叩けば乾いた音が響いた。


『またね』


 その言葉が何よりも今の私を勇気づけてくれる。


「―――よしっ」


 怖気付いてる場合ではない。女アタリー、ここで踏ん張らねば女が廃る。


 車輪の音は次第にゆっくりになっていき、やがて止まる。外から扉が開き、差し出された手を頼り地に足をつければ侍女と侍従、執事らしき人たちが十数人は並び揃って頭を下げていた。


 自分に喝を入れたとはいえ緊張がなくなるわけでない。夜会や茶会はもう慣れたものだが、こういったものはまた別だ。ともすれば社交界デビューの時より緊張しているんじゃなかろうか。

 それを決して悟られぬように必死で、案内してくれた侍女との会話が若干疎かになってしまった。それでもなんとか聞きかじったところによると、今日の顔合わせは当人たちだけで行われるらしく当主への挨拶は必要ないんだそう。ああ、だから二人はついて来なかったのか、と納得してからきちんと説明してよ、と両親を恨めしくも思った。


 屋敷に入り廊下を少し歩いたところで一つの扉が見えた。案内の侍女はその扉の前で止まり、再び頭を下げた。


「すでにシャルル様はお待ちにございます。どうぞごゆるりと御歓談をお楽しみくださいませ」


 目配せに頷くと、ゆっくりと扉を開けて中へと促された。


 広い室内の中央には二、三人は座れそうな腰掛けが二つ、机を挟み向き合うように置かれている。その奥、窓際に彼が一人で立っていた。私の立ち位置からでは顔が見えず、しかしその背中に嫌な予感がする。


 だって、見覚えがある。


 艶やかな長い黒髪はゆるく一まとめにして背に流れている。身長は高く、背筋が凛と伸び、立ち姿がとても綺麗だ。違うのは髪を纏めていることと、服装。シャツにベストというありきたりな格好ではなく、今は白地に金の刺繍が入った上等な上着を羽織っている。


「やあいらっしゃい。座るといいよ」


 カタン、と何かを置く音がして振り向く彼に、喜ぶべきか否か。


「お兄さん………」

「久しぶりだね。案外再会が早いのも困りものだ」


 そうして笑った彼は、やっぱり綺麗だった。瞳の色だけがあの日と違うだけで。


 彼だったら良かったのに、とは思ったが実際にそうだったとなると些か困ってしまう。心の準備が的な意味で。


 湯気のたつ紅茶のカップをお兄さん手ずから机に置き、あの時のように手招きで誘われる。室内には私と彼以外に誰もいない。椅子に座れば机横のワゴンからお菓子を差し出される。そうして机の上が華やかになり、ようやくお兄さんも対面の椅子へと腰掛けた。


 なにを話すべきか。こんな状況じゃなかったら自然と話せていたのだろうけど、縁談の相手がお兄さんという予想外の事実が発覚し、正直反応に困っている。

 無言は気まずい。なにか話題を、と考えていたら「改めて」とお兄さんが切り出した。


「私はシャルル・アデルという。この前会ったのはよく似た別人なんかじゃないから安心して。これからよろしくね?」


 場をほぐすためだろうか。その冗談に思わず笑ってしまった。


「アタリー、私はアタリー・レインワーズ。久しぶりお兄さん」


 名乗っていなかった私たちは改めて自己紹介をする。初対面は森の中で自己紹介はこんな豪華な屋敷の中でだなんて、少し変な感じだ。


「ねえ、なんで目の色が違うの?この前は黒だったよね」


 一度話し出すと今は立場が互いに違うというのにあの日のように接してしまう。彼はそれを咎めることなく「ああこれ?」とこの前と同じように気楽に応じる。


「この前言ったろう?私は魔法が使えるんだよ。瞳の色を変えるくらい簡単だよ」


 ス、っと金色が黒に変わる。あの日と全く同じ深い黒色。

 やっぱり普通じゃないじゃない。シャルル・アデルは国でも数少ない優れた魔法使いだ。簡単だよ、なんて言ってはいるがきっと彼くらいじゃないとそんなことできない。相変わらずなんでもないことのように魔法を使う彼にちょっと呆れてしまった。


 ――それにしても。

 お兄さんの顔をじっと見つめる。首を傾げるが彼はなにも言わずにカップに口をつけた。それを見てもこうしてジロジロ見られるのに慣れているのが分かる。この顔立ちだ、騒がれるなという方が無理な話だろう。

 でも、社交界で噂のシャルル・アデルとお兄さんが私の中では一致しない。確かに綺麗で格好いいのはそうだが、そうじゃなくて、あの日話したお兄さんは紳士的で誠実な人という印象だけど、シャルル・アデルといえば来るもの拒まず去るもの追わずな私の中では軽薄な印象の持ち主だ。……これは聞いてもいいのか?


「………社交界では女性なら誰とでも親しいの?」


 私としては意を決して聞いたのだが、瞬きを何度かしてこちらを見る彼はまるで予想外なことを言われたといわんばかりだ。


「――親しい、というか、誘われたら応じるだけだよ。こちらから誘ってるわけではないし、君の前で言うのもなんだけど流石に肉体関係は持たないしね。というか害がないなら断る理由もないだろう?」


 なんでもないことのように言う彼に唖然とする。私の中で何かが崩れていく音がした。

 いや、私が勝手に理想を抱いてただけだからお兄さんはなにも悪くはないけど、印象がガラリと変わるというか、その、……ええー……。


 そこでふと思い出した。そういえばあの日――私が見合いから逃げ出した日。あの日私に見合いの予定があったのならその相手のお兄さんにも同じ予定が入っていたわけで、なのになぜ私たちはあそこで出逢ったのか。

 まさかとは思うがお兄さんももしかして。


「見合いが嫌だった?」

「え?」

「だってあの日お兄さんはあそこにいたでしょう?なんでなのかなって……」


 当たっていたなら、更に事は順調に進む。期待を込めて聞いてみると「まだ『お兄さん』呼びかあ」と苦笑して。


「うん、嫌だったね。だから君と同じで逃げたんだ」


 思わず両拳を握りしめていた。やった!それならこの縁談、なんの問題もなく破談にできるじゃないっ!意外なお兄さんの一面を気にするよりも断然その喜びが驚きを上回る。


「じゃあ!お兄さんに話したよね?私も嫌で逃げたって!思わず家を飛び出したって嘘をついたのはごめんなさい。でも嫌だから逃げてきたっていうのは本当なの!お兄さんも私と同じ気持ちなんでしょう?ならこの話は――」

「なかったことには出来ないかな」

「…………へ」

「最初に言ったろう、『これからよろしくね』って。聞いていたかいアタリー?」

「……え……だって、お兄さん嫌だったからって」


 彼が首を傾げると、つられるようにその長い髪がサラサラと揺れる。私はありえない今からまるで目を背けるかのように、そこに目が惹きつけられる。


「だ・っ・た・と言っただろう。――君に相手と向き合うよう言っておいてすまなくは思ってるけどね」


 嫌だ、その続きは聞きたくない。耳を塞ごうとしても伸びてきた手に腕を掴まれる。

 声を防ぐことが敵わず距離が近くなり、すぐ目の前でお兄さんはにこりと笑う。


「今の私はこの縁談を断らないよ」


 その綺麗な顔が今は悪魔に見えた。

 お兄さんから距離をとるように背もたれに寄りかかるも、隣へと移動してきた彼がそれを許してくれない。


「う、うそだ……」

「残念だけど私は君に一度たりとも嘘をついた覚えはないよ。これからはどうか分からないけど」

「………」

「どうしてって顔してるね。そうだな、私も君じゃなければ断っていただろうね。強いて言うなら気に入ったってことだよ」


 この前この人を怖いと感じたのは気のせいではなかったのだ。あの時きちんと自分の直感を信じていたなら今のこの事態は果たして変わっていただろうか。


そこで笑顔を消したお兄さんはため息を吐く。


「知ってると思うけど大抵の子たちはこの顔に寄ってくるんだ。けど君はそうじゃないだろう?別段気にしてる素振りはない。私に気に入られようともしていない」


 それはそうだ。お兄さんをいい人だと思っていたけど取り入ろうとかは考えなかった。だってそもそも私は男の人が苦手だ。主に中身が。だから見た目はあまり気にしていない。


「それなら楽だろうな、と思ってね」


 ――楽?

 眉をしかめる私に気がついた彼はまた笑った。けれど今度はあの優しい笑い方じゃなくて、少し意地の悪い笑み。不思議とその笑い方も似合っていると思ってしまった。

多分露見した性格の悪さが滲み出てるからだ。


「君の事情をよく知るわけでもないのに、この話をなかったことにしたいという気持ちを無碍にするのは些か良心が痛みはするよ?」


 嘘つけ、と思っていたのが顔に出たのか「でもこちらにも事情があるんでね」といい笑顔で反撃された。


「実は、こんなご時世だというのに私との結婚を望む人からの縁談は減らなくてね。そろそろ親に望まない結婚を強いられそうなんだ。けど恋愛結婚が出来る世の中だからこそ自分にとって特別な相手を迎えたいじゃないか」


 その言葉に更に眉間にシワが寄るのを抑えられない。紳士で誠実な人だという印象が更に崩れた。


 だって彼は。


「笑顔で嘘つくのやめてくれない?お兄さんみたいな人が恋愛婚か政略婚かにこだわるとは思えないんだけど」

「へえ?これで浪漫主義者かもしれないよ」

「それならなんで今までいい人を見つけようと必死にならなかったのよ。明らかに不特定多数と遊んでたじゃない。浪漫主義者が聞いて呆れるわ」


 けっ、と吐き捨てれば彼は見開いた目をパチパチとさせ、「意外と口が悪いんだね」と面白そうに言った。こんな奴に取り繕うなんて労力の無駄すぎる。そっちが本性現したならこっちもそれで対抗するまでだ。


「理由は知らないけど結婚する気がないんでしょう」

「いい人が見つかればする気はあるよ」

「ハッ、どうだか。それで無理やり結婚させられる前に丁度よくお兄さんに靡なびくでも媚びるでもない私が出てきたってわけだ。隠れ蓑として最適よねえ。下手に本気になられても後々困るもの。そりゃ断る理由もないわ」


 お兄さんはただ笑うだけだ。否定も肯定もしない。けれど本気だ。本気で彼は諦める気がない。ここに来ていざとなれば周りの同情を買うなんて考えがいかに軽薄だったかを思い知らされた。 


 ――アタリーよ、下手にそんな真似してみろ。

 この男のことだ、揚げ足をとられていいようにことを運ばれて終わる。


 でも、だからといって私だってここで諦めるわけにはいかない。

 結婚しないという願望は諦めた。だったら、これくらい諦めなくたっていいじゃないか。


 全ては平穏で平凡な普通の幸せのために。


「私は絶対にいや。お兄さんと結婚だけはしない」

「結婚したら君一筋になるよ?流石に奥さんを置いて遊び歩いたりはしないさ」

「それでも、よ。厄介ごとはどこから来るか分からないじゃない、特にお兄さんの場合は。私はもっと無難な人とがいい。お兄さんは私が一番嫌いな男って感じだもの」

「それでも私は君と結婚する気でいるよ。こんな機会を逃すほど阿呆でも馬鹿でもない」


 それに一つ勘違いをしている、と呟いた。雰囲気が変わった気がしてお兄さんを見ると、今まで通りの柔らかで優しげな笑顔だというのにその瞳はどこか真剣で、知らずごくりと喉がなった。


「正すつもりは今はないけどね」

「……はあ?」


 がらりとまた雰囲気が変わって、その言葉に間の抜けた声が出る。

 正すつもりはないって、なら言うなよややこしい、と若干苛つきはしたもののここで怒っては相手の思う壺だと怒りを飲み込む。


「とにかく、私からは断らせてもらうわ」

「すでに従姉妹を養子に迎える準備をしてるのに?」

「ぐぅ……」


 調べてやがったか。


「なら仮の婚約というのはどうかな。もちろん婚約候補止まりでもいい、世間に発表もしない。この縁談を持ってきた親には『お互いを知るために時間が欲しい』とでも言えば了承してくれるんじゃないかな。婚約するのはひとまず互いを知ってから。その間に君が他に相手を見つけるようなら僕は身をひこう」

「……周りの期待が重くなるだけじゃない」

「そうかもね。でも私に断る意思がないのだし、君一人が反対したところで今更覆るかなあ」


 どっちに転んでも詰みじゃない。そのうちなあなあで結婚まで持ってかれるに決まってる。

 それが分からないはずもないのにニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべるお兄さんが憎らしい。


 それでも現状この案以外に縁談が進むのを避ける道はないわけで。――ああもうっ、何でこんなことにっ。あんなにあったお兄さんへの感謝の念はどこへやらだ。今はあそこで出逢ったことに後悔しか湧かない。


 頷くにも頷けず、頭を抱えたままの私に何を思ったのかしばらくしてお兄さんはその手を私の頭に乗せた。


「仕方ないなあ、じゃあこうしよう。時間をあげるよ」

「……時間?」

「二週間。その間に私に一泡吹かせることができたなら諦めてあげる。この縁談が破談になるような私に不利のある噂を流すもよし、賭け事を持ち込むもよし。まあ賭け事を持ち込むなら君が勝たないと意味はないけど、手段は問わないよ。言った通り汚い手を使ってくれても構わない。どうだい、それならいいだろう?その間はこの話が進まないよう協力してあげる」


 それはまさに願ってもない提案だ。どうする?と問うお兄さんも答えは分かってるだろうに、それでも私が彼に一泡吹かせることはないと踏んでいるのか余裕の笑みだ。


「――やるに決まってる」

「だろうね。君が私にそんなことできるとは思えないけど」


 その言葉が私の何かに火をつけた。

 今はまだ策はない。けれどここまで言われては引き下がるわけにもいかない。……それに乗るしかないともいう。


 確かに彼は私が思っていたようなダメな奴ではない。見境がないと思っていたがそれは話を聞いてみれば違うことが分かったし、本人が言ったように断る理由がないから遊び歩いてたなら結婚してしまえば断る理由ができ遊び歩かなくなるのは理解できる。けれど、そうするとまた新しく問題が浮上する。『それに周りは納得するだろうか』だ。今まで優しくしてくれた彼が突然振り向かなくなってしまった。「突然」というところに裏があると思う人はいるだろうし、何よりその不満がどこへ向かうかといえば私しかいない。

 これまで無難に社交界を乗り切ってきたのに女のドロドロとした泥沼に引き摺り込まれるなんぞごめんだ。


 つまり何がどうあれ私から結婚しないという気はなくならないわけで。


「せいぜい後悔すればいいわ、私にこれを持ちかけたことをね」

「さあどうだろう、私は一度だって負けたことはないんだ。……勝てるといいね」


 私には優しくて誠実でそこそこ頭の働く相手を見つけなければいけないという目標がある。さっさとこんな縁談は破棄しなければ。


 新たに決意を固めてその整った顔を睨みつければ、彼はあいも変わらず優しげで楽しそうな笑みを浮かべるばかりだった。


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