そのさん。

 そこは踏み入ると、空気が変わったようだった。さっきまでの薄暗く青臭いところと同じ森だとは思えないほどに明るく暖かく、風も通るからジメジメとした空気が溜まっておらず爽やかで居心地がいい。何より歩いてもクチャ、とかヌチャ、といった不快な音がしない。靴底には湿った泥がついており、後ろには泥でできた足跡が続いている。


「君はどこから来たのかな?ここの人ではなさそうだし大方観光に来た、と、普通なら思うんだけど、でもこの時期観光客は来ないからなあ」


 椅子をポンポンと叩き座るよう招かれる。応じると一つ間を開けて彼も隣に座った。

 日の下で見てもやっぱり美形は美形に変わりない。面食いなリリーは彼を見ればさぞ喜ぶことだろう。風に揺れる黒髪は手入れでもしてるのかサラサラで乱れがなく、綺麗な光の輪っかができている。


「お兄さん髪すごい綺麗だね、何か手入れしてるの?」

「あれ、聞いてなかったかな」


 それよりも気になったことが口をついていた。あ、と押さえた時にはもう遅く、彼は苦笑して「特になにも」と答えた。彼が髪に手を差し入れて指で梳いても風に吹かれて乱れてるはずなのに引っかかる気配がない。すごい。これを見たらくせ毛じゃなくても女の子はみんな羨みそうだ。ああでも顔に目がいって髪なんてさほど気にもしないか。


「男はよほどじゃなきゃ手入れなんてしないよ。で、君はどうしてここまで?」

「観光のつもりだったんだけど、花の時期じゃなかったみたいで、どうしようかなと考えてたらここを教えてもらったの」

「なにもないのに?」

「秘密の場所ってだけでワクワクする」


 不思議そうに返されて、断言する。秘密の場所って、こう、心をくすぐる響きで好き。

 するとお兄さんは口元に手を当てて笑い「ああでも確かにね」と賛同してくれた。


 やっぱり悪い人ではなさそうだ。顔がそこらにはいないほど整っているからといって傲慢ではなさそうだし、性格は温和で優しそう。雰囲気からして柔らかくて、悪巧みとは正反対の場所にいる人みたい。

 ここで普通の女の子ならお兄さんに媚びたり恥ずかしくて会話できなかったりするんだろう美形っぷりだが、私にとってはそんなことどうでもよかった。顔が良かろうが中身がダメダメな奴なんて山ほどいる。顔で何が判断できるというのか。判断できるのは美醜と被った猫くらいなもの。反面お兄さんは少し話しただけではあるが聞き上手そうで、滅多なことでは怒らなそう。なにより、あいつらとは似ても似つかない。

 もちろん相手のことは全く知らないし少しの印象で判断しただけだから全部が全部当たってるわけではないだろうけど、全てが間違っているわけでもないだろう。つまり、全く信用できない人ではない。このまま一緒にいても問題はなさそう。


「あの、これ実は買いすぎて……お兄さんにもらって欲しいんだ。持ち帰るのは出来そうになくて、でも今お昼食べたばかりだから一人で食べきれなさそうなの。捨てるのももったいないないから」


 そうして押し付けると、相手は一瞬キョトンとしたもののすぐに押し返される。流石にこんなにはもらえない、と。ええ、と不満を前面に出せば少しためらった後に。


「いくらかは食べれそう?」


 と聞かれた。


 お腹の空腹度を計りながら頷く。さっきのパンはそこまで量が多かったわけではないから入るっちゃ入る。もちろん全部は無理だけど。


「なら一緒に食べてもいいかな。実はお昼を食べてなくてね」


 お腹空いてたんだ、と笑うお兄さんは中身までカッコよかった。


 木の机にハンカチを敷いて袋の中身を出す。焼き菓子からあまり日持ちしなさそうな小さい生菓子、甘そうなものから甘さが控えめなものまで種類は様々で、やっぱり一人じゃ食べきれないくらいたくさん入ってた。

 お兄さんはその中からあまり甘くなさそうなものを選んで食べていく。その選別を見ていると甘いものがあまり得意じゃなさそうで、申し訳ない気持ちになる。それに気が付いたような彼に「昨日甘いものを食べ過ぎてて、ちょっとね」と言わせてしまい、ますます申し訳が立たない。せめてとびきり甘そうなものを私が先に食べていくことにした。

 幸いお兄さんが苦手そうなのはそこまで多くない。……う、飲み物も買ってくればよかった。


 お兄さんから花畑はいつの時期が見頃なのか、季節によってどんな花が咲くのかを教えてもらった。次来る時は参考にしようと、一言一句漏らさず頭に叩き込む。初めに持った印象通り私が話し出すと彼は頷いたり相槌を打ってくれたりととても聞き上手で、そして話上手でもあった。話題が尽きる頃になるとうまく話を転換させてくれたり、いくつか話を持ち出して私が興味をもったものを深く掘り下げる。間の置き方や抑揚の付けかたも絶妙で、飽きることがなく気がつけば時間が経っていたほど。

 そうしてお菓子の量もあと少しとなった時、「ああそうだ」とお兄さんは呟き。


「お礼にいいことを教えてあげるよ」


 すでに甘そうなものを片付け食休みしていた私の隣に彼は移動した。手近なところから長い木の枝を拾ってくると、地面に何やら図のようなものを描き始める。


 少し横に長いひし形のような丸の縦横四箇所にそれぞれ丸で印をつけると、上から東西南北と文字を書く。最後、中央に長方形とその上に三角を描き、長方形の中に『王城』と書き入れて手を止めた。


「これがジギルド王国の地図だと思ってね。で、今いるのはここ」


 上の丸を木の枝で指し示す。


「この四箇所それぞれは有名な観光地だ。これはジギルドの民なら誰でも知ってる話だね。どこに何があるかは知ってるかい?」

「ここ最北端には花畑。反対、南には湖。東に麦畑で西に丘でしょ?」

「そう。でもここの花畑は今回はちょっと違う。だから外して、そしてここに入るのは森、つまり今いるここのこと。花畑を森に置き換えて、この森と湖、麦畑に丘の四つが話の肝だ」


 花畑と書いた文字をバツ印で消し、隣に『森』と書いて更に右からそれらを書き入れていく。


「まあ花畑のすぐ裏がこの森だから花畑というのも大雑把に言えば間違いでもないんだけどね」

「その四つが何かあるの?」


 大仰に、遠回しに説明するお兄さんにだんだんじれったくなってきて、今にも肩を揺らしそうな私に彼は苦笑すると。


「今更だけどお礼になるかは分からないんだけどね。本当大したことじゃないんだ。ただ、魔法使いの中でも極々一部しか知らない秘密の呼び方がここには付いているんだってだけで」


 内緒だよ、と横目で見られ頷く。

「精霊の都」とぽつりと呟いた。


「この四つは『精霊の都』と呼ばれているんだ」


 精霊。…………精霊?

 普段聞かない単語だからか意味がちょっと分からない。でもどこかで聞いた覚えがある……ようなないような。


 思い出そうとしている私になにを勘違いしたのか「こんな話ではつまらなかったかな。もったいぶった上にくだらない話でごめんね」と困ったような笑みでお兄さんに謝られた。そんなことはない。否定すればそう?と首を傾げながらも彼はまだ疑ってそうだ。

 私からしたらこの四つがそんな呼ばれ方をしてるなんて、『精霊』の意味はちょっとよく分からないけど意外だった。だって多分動物でもなければ人間でもないよね。人名の響きとしてはなんだか違う気がするし。この四つがそう呼ばれるのには共通点でもあるのか。考えれば考えるほど分からないことが増える。


「つまらないとかそういうんじゃなくって、その『精霊』って単語がなんなのかちょっと分からなかったから」


 きちんと何に悩んでいるかを説明すれば「……あ。そうか、聞き慣れないか」と納得してくれた。


「精霊というのは御伽話とか伝説とかにしか出てこないものだよ。魔法を習う者ならよく聞く単語なんだけどね。……精霊とは人に不思議な力を授けた生き物だと言われてる。だからその姿は魔法の力そのもので構成されていて、人や動物とはまた違った生き物だったらしい。文献によると昔は普通に見られていたそうなんだけど、今はいないみたいで、だから信じてる人はあまりいないかな」


 なんてことのないような彼の言葉はしかし、精霊がどうとか以上の事実を含んでいるではないか。だって話の流れからするに。


「――お兄さんって魔法使えたの?」


 疑問に応えるかのようにふわり、と彼が上向きにした掌の上に突然現れた雪の結晶が舞う。そしてそれはしんしんと降り積もっていき、数秒と経たず丸い玉ができ、そして雪の塊だったそれは一瞬で氷の兎に変化する。目にあたる部分にはチラチラと赤くとても小さな炎が灯っていて、それなのに溶ける気配は全くといっていいほどない。


「おおー」


 思わず拍手した。こんな魔法は初めて見る。私が目にしたことがあるのは一部分に水を降らせるとか、暖炉に火をつけるとか、そんなもっと単純なものしかない。


 彼は私の手を取り兎を置く。触っても全く冷たさを感じないことに驚いた。日の光が当たって表れる氷特有のキラキラとした輝きはすごく綺麗で、でも少し眩しい。

 溶けないのをいいことにしばらく光にかざしたり手で庇を作ったりしながら眺めていたら突然目の炎が兎の全身に回り、驚いて手を離すとあっという間にまた氷の結晶に戻っていた。地面に落ちる前に今度は溶けて消えていく。

 手に炎が触れたはずなのに氷と同じく熱さは感じず、火が当たったような痕跡もなかった。


「気に入ってくれたなら良かった」

「こんなすごい魔法が使える人初めて見た。ひょっとしてお兄さんってすごい人?」

「いや、普通の人」


 私が知らないだけでこれが普通―――なわけないか。


 知り合いに魔法使いはいるけれどその誰も彼もがこんな精巧な物を作ることができるなんて聞いたことない。まあ、私が知らないだけでこれが普通という可能性もありえるけど、そうだとしてもお兄さんが普通の人には見えないけど。主に見た目とか、見た目とか。

 失礼なことを考えているのを察したのか、ジトっとした目を向けられてしまった。


「えーと、精霊の都っていう呼び方を一部しか知らないのはそのせい?」


 その目から逃げるように慌てて話を戻した。

 私にもいえることだが魔法が使えないならわざわざ習う意味はなく、使えない人は極々一般的な知識しか身につかないからその『精霊』に関しての知識はない。一般人と魔法使いでは身に付ける教養から別なのだ。だからその呼び方も一般的ではなく、魔法使いしか知らないのだろう。その考えは合っていたようで、その通り、とお兄さんは答えた。

 しかし疑問は残る。何故魔法使いの中でも一部しかこの呼び名を知らないのか、ということだが、聞いてもはぐらかされてしまった。それは教えられないということか。


「この四つはどこか幻想的で、精霊が好んで住んでるとされているから『精霊の都』というんだ。――これについては諸説あるけどね」


 学んだってこの先魔法を使えることはないけれど、知識として覚えておくのもいいかもしれない。奥が深いし、なにより面白い。


 お兄さんは机に残った焼き菓子最後の一枚を口に入れ、飲み込む。


「ごちそうさま、美味しかったよ」

「こちらこそ付き合ってくれた上にそんな話までしてくれてありがとうございました」

「いえいえどういたしまして」


 てっきり帰ってしまうのかと思ったが、立ち上がった彼はじっとこちらを見たまま動かない。どうしたのかと思いつつなんとなく声をかけるのを躊躇われ、そのまま長いような短いような時間が過ぎ「君は」と彼が最初に口を開いた。


「君はどうして今日ここへ来たのかな」

「どうして、って……」

「うん、観光しに来たって言ってたけどそれにしてもなんで今日なのかと思ってね。時期かどうかを知らないんだからこの街の近くに住んでるって訳ではなさそうだし、下調べをしてないってことはそれを思いつく暇がないくらい急に決まったってことだと思うんだ」


 彼はあいも変わらず笑みを浮かべていたけれど、どうしてか彼が今までの優しいお兄さんと同じには見えなかった。私を見下ろしているせいで顔に影が差し、瞳の色が更に濃く見える。


「少し踏み入り過ぎかな。外れてたらごめんね、でも気になってしかたなかったんだ」


 そうして苦笑いしたお兄さんはついさっきまでのお兄さんで、ホッとした。


 さっきのお兄さんの雰囲気は正直怖かった。――だってあれは私の苦手な貴族特有の探りを入れる雰囲気そっくりだった。


「なんだか悩んでいるように見えてね、相談することで気が楽になることもあるから。それが名前も出身も全く知らない他人だったら後腐れもないし、余計に話しやすいんじゃないかなって」


 ふとその場にしゃがみこんで私を見上げるお兄さんはやっぱり優しそうで、怖いくらい綺麗だ。安心させるように微笑む彼にはさっきまでの怖さはどこにもない。

 ……やっぱり気のせいだったのだろう。なんでもかんでも悪い方へ考えて結びつけるのは悪い癖だ。


 多分お兄さんが考えてるような悩みとは正反対のものだろうけれど、悩んでいるのは確かにその通りだ。少しの間一緒にいて話をしたというだけで、言ってしまえば私たちはお互い他人の域を出ない。でも、彼の言うようにそんな人にだからこそ話しやすいのではないか。

 何よりお兄さんのことだ。馬鹿にするでもなくきちんと真摯に聞いてくれるはず。


「……その、重く受け止めないでほしいんだけど」

「うん、どうしたのかな」

「見合いが嫌で逃げてきたの」


 ぴしり、とお兄さんが固まった。笑顔が凍りついている。やっぱり見合いは意外だったか。

 とはいえ全部が全部話すわけではない。嘘半分本音半分といったところだ。


「勝手に親が決めていて、近いうちに見合いがあるって言われて咄嗟に家を出てきたというか」

「あ、ああ、近いうちに、か」


 なんでそこに反応するのか。

「気にしないで」と続きを促された。


「私その見合いを何とか破談にしたいの。親に言っても無理なのは分かりきっているしね。でもいい案が浮かばなくて困ってるところ」

「そっか……。見合いが嫌な理由までは分からないけど、普通はそうだよねえ」


 うんうんと何故か一人で納得している彼は見合いに思うところでもあるのかもしれない。彼のことだ、その顔のせいで望まぬ縁談話をもちかけられたことが何度もあるのかも。かわいそうに。


「腕を折ろうとも思ったんだけど、それは事情があって辞めなきゃならなくて」

「それは事情がなくても辞めた方がいいね。女の子なんだからしちゃダメだよそんなこと」


 顔をしかめて厳しい声で注意された。うん、普通の反応だよなあ。やっぱりその考えに至った私は相当焦ってたんだな。


「お兄さんはどうしたらいいと思う?わざと相手の前で恥をかく案もあるにはあるけど、相手方の親もいるのにそんなことする勇気はなくて」


 それを聞いたお兄さんは目をかすかに見開いた。何に驚いたのか瞬きを何度か繰り返し、キョトンとさも不思議そうな表情をしている。その反応に私も驚いてしまう。それからお兄さんは視線をどこへともなく彷徨わせ、やがてすまなさそうに切り出した。


「私としてもあまりいい案は浮かばないかな」


 予想はしてた。詳しく説明したわけでもないんだから思いつけというのも無理な話で、落ち込みはしない。それなのにあまりにも申し訳なさそうにされるから気にしないでくれ、と顔の前で手を振ってみせた。逆に私の方が申し訳ない。

 真摯に向き合ってくれた人に対してこんなふうに隠し事をしたり嘘をついたりするのは心が痛い。


 するとお兄さんは「ただ」と呟く。


「事情も君のこともよく知るわけじゃないからなにを勝手なことを、と言われるかもしれないけど私はきちんと話し合うことも必要だと思う」

「話し合う?」

「親御さんとじゃなくて相手の方とね。もしかしたら事情を話すことで憂いがなくなるかもしれない。相手も実はこの話に乗り気じゃないかもしれない。もちろんその反対もあり得るだろうけど、分かることも少なからずあると私は思うんだ」

「………」


 諭すでも説得するでもなくあくまで自分の意見として話すその言葉はストン、と胸に落ちてきた。お兄さんの言葉は大人の人の言葉で、やっぱり自分はまだ子供なのだな、と恥ずかしく思うと同時にああ相談して良かったとも思えた。


「お兄さんは大人だね」

「『偉そうに説教する大人』ぶってるだけかもしれないよ」


 思わず吹き出した。ここで冗談を言われるとは考えず油断していたせいと、その言葉があまりにもお兄さんに似合わなくて。

 私が一頻り笑って落ち着くのをみてとり立ち上がったお兄さんは今度こそ帰るようだ。時計を見れば私もそろそろ帰りの馬車が出る頃で、つられて立ち上がる。帰るのかと聞かれて返事をすればお兄さんは空になったゴミを入れてある紙袋を手に取った。私が、と手を伸ばすも遮られてしまう。


「それじゃあね。また会えるといいな」


 手を振るお兄さんに私も、と言おうとして、けれど瞬きの後目の前にお兄さんはいなかった。それどころか景色すら変わっていて、自分が花畑の手前にいるのだと遅れて気がついた。周りを見回しても、お兄さんはどこにもいない。


「……やっぱり普通じゃない」


 普通の人はこんな一瞬で人を移動させることなんてできるわけがない。


 返事をしてくれる人はいなくて、それは虚しく響いた。

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