そのに。

 今日は朝から忙しい。


 起きて侍女が来る前に顔を洗い、きちんと目が覚めてから昨夜あらかじめ用意されていたドレスを着る、前にズボンをはく。幸い貴族の普段着 (といってもドレス)は裾が長く、ふわりと広がっているためその下に何かを隠すのにはちょうどいい。足首まである長さのズボンの裾を何回か折っておけば、バレることはない。姿見で確認してみても違和感はなかった。

 身支度を自分一人でするのはこういう時に便利だ。お貴族サマのようになんでもかんでも世話されてたらこうはできない。

 ま、私もその貴族なんだけど。


 時間になり朝食をとった後『本日のご予定』を聞かされ、束の間の自由時間の間にドレスを脱ぎこっそり用意していた服を着る。自由時間といっても今日の見合いに行くための準備――私の全身を磨くための準備が整うまでの極々短い時間だ。こういう日は自由時間はないに等しい。手早く済まさなければせっかくの計画がおじゃんになってしまう。隠していた帽子とローブ、分けておいたお小遣いを引っ掴み、そっと屋敷を抜け出した。もちろん心配をかけないように一筆したためた紙を机に出してくるのも忘れない。


 屋敷を出た後は少し離れた町まで歩き、そこからは乗合馬車に乗って更に離れた町までやって来た。


 そうして時刻はお昼前。無事脱出成功した私は目的地に着いていた。


 ここまで見つからないようにと必死で、極度の緊張感が抜け切ったからか一息つくとお腹が空いてきてしまった。ちょうどお昼時の準備を始めた目の前の屋台に寄る。


「おばさん、これ一つくださいな」

「あいよ。五イーデね」


 イーデはこの国の通貨単位で、一イーデが一番安いお金だ。歩きながら食べれそうなパンを買って、屋台を離れる。


 大通りには花屋や飲み物屋、小物などを売っている屋台が通りを挟むようにして並んでいる。その中でもお昼時だからか食べ物屋から勢いのいい客寄せの声が飛んで、それに応えるかのようにしてどんどんと人が集まっている。どの店も他の店より客を呼び込むのに必死だ。それだけじゃなくあちこちから香ばしいような辛いような香辛料のいい香りが漂っていて、それが大通り中に広がっているような錯覚を起こす。

 これを食べ終わったら次、また次と手を出してしまいそうで、ここは危険だ。今まさに食事中だというのにお腹が鳴りそうになるんだから。


「うん、美味しい」


 初めのうちに買っておいてよかった。目移りばかりして変なものを買っていたらたまったもんじゃなかった。

 せっかくなのだ、美味しいものでお腹を満たしたい。

 お肉と野菜を挟んだ少し硬めのパンは後味を引く辛さのタレが味のバランスを整えていてとても美味しかい。これを選んだ私はさすがだ。今日は勘が冴えてる。


 腰掛に座ったり私の他にも歩きながら食べたりしている人たちを見ていたらこれぞ街のお昼時、という感じがして、だんだんと気分が上がってきた。

 街に降りる時はいつもはリリーやシャンタルが内緒で連れて行ったりしてくれていたのだが、それも屋敷から近場の街。一人で街に降りるのは今回が初めてで、こうして遠出をするのも初めてだ。

 友達と喋りながら屋台を見て回るのも楽しかったが、こうして一人で回るのも周りをゆっくり見回せる余裕があって、また別の楽しさがある。


 屋敷で出るような手軽に食べれなくて作法にも気をつかう食事より、作法なんて気にせずにこうして手軽に食べれてお腹を満たせる食事の方が私は好きだ。しかも外で食事だなんて、こうした機会じゃないとできない。お茶会はまた別だ。あれは軽食とかお菓子しか出ないから。


 普段は食べれないものを普段はできない環境で。

 それだけのことでいつもより美味しく感じるのだから不思議なものだ。


 たまに街に降りて食べて体験してるからより楽しく感じるのかもしれないが、私には貴族として着飾り社交に精を出すよりもこうして市井に混じって生活する方が性に合っている気がする。そりゃあ貴族には貴族の大変なことがあるように平民には平民の大変なことがあるのだろうけども。


 屋台の隙間にあったゴミ箱にパンの紙を捨てて手を叩きパンくずを落としていると「お姉ちゃんお姉ちゃん」と隣の屋台のおじさんから手招きされた。


「お姉ちゃんはどっから来たんだい?ここの人じゃあないだろう」

「そう。ここから少し南に行ったところ。少し遠出しようと思ってね」

「さては森目当てかな?最北端のこの街に来るやつは森んとこにある観光地目当てだろうからね」


 ジギルド王国最北端のこの街は隣国との国境に大きな森がある。空気の清涼さと森の手前にある季節ごとに違う花々が咲く満開の花畑を目当てに人々がよく訪れ、夏には避暑地として貴族に人気の街だ。だから貴族平民問わずここは人が溢れる場所なのだが、今はちょうど花が散る時期らしくあまり人が来ないのだとおじさんはため息をついた。


 途中、そんな場所で商売をしている人ならもしかしたら気づかれるかも、と思ったがどうやら杞憂に終わったようだ。でも確かにこの姿を見て貴族の令嬢だなんて思う人はいないかもしれない。


 今の私の格好はゆったりしたズボンにシャツとベスト。長めの黒髪は一纏めにして帽子にしまってある。こうすれば服装と相まって貴族だとは思われにくいのだと前回までの街歩きで学んだ。貴族、ましてやご令嬢は質素な男もののような服なんて着ないし、長く綺麗な髪を目立たせたいため髪を隠すなんてこともしないから。


 ホッとしていると「遠くから来て疲れたろう」と売れ残りだという果実汁をくれた。


「そう、実は花畑を見に来たんだけど閑散期だったんだ。それは残念」


 ………見たかったのになあ。


 うちは避暑地としてここを利用することはなかったから、周りの人たちから話を聞いて来てみたいと思っていた。なのにすでにほぼ散り終わったなんて。すでに花のない花畑に行くなんて虚しい。虚しすぎる。――次来るときはちゃんと調べてからこよう。


「ほれ、そんなぶすっとしてるもんじゃない」

「ぶすっとって……」


 ひどい。これでも女の子なんですけど。

 抗議するように膝の間に顔を埋めて唇を尖らせるとバシバシと叩かれて、背中が痛い。ついでにその笑い顔が恨めしい。


「なに、俺がいいところ教えてやるよ。せっかく来たのに空振りなんてかわいそうだしなあ」

「いいところ?」

「そ。特別だぞ?普通の観光客はまず知らないとこだ。ここの奴らくらいしか知らないし、知ってる奴も他所者に教えないからなあ」

「秘密の場所ってこと?いいの?でも」


 疑問にかぶせるようにおじさんが言う。


「教えたくないから教えないんだよ。でもお姉ちゃんは特別だ。なんか気に入ったからな」


 なんか気に入ったからな、って。軽いな。


 おじさんが教えてくれた場所は森の中にある開けた場所だった。観光地として有名な花畑を大きく迂回して森の中に入り少し奥に行くとあるのだという。朝には新鮮な香草や薬草を取りにいくため街の人たちが森に入りそこを憩いの場にしているそうなのだが、今の時間帯なら誰もいないだろうとのこと。

 内緒だぞ、とコソコソおじさんが言うのでなんだか悪いことをしてるわけじゃないのにそんなことをしてる気分になって、屋敷を抜け出した時と同様に胸がドキドキしてきた。


「せっかく来たんだから行ってこい。何もねえけどな」

「ありがとうおじさん。何もなくてもいいの、秘密の場所ってだけで楽しいものだし」


 そうか?と首を傾げるおじさんに頷き返し、改めて道を聞く。果実汁のお礼と目的地に着いたら広げるために店前にあった焼き菓子を買おうとすると、意外にもうまい口車に乗せられ、気がつけば大きな紙袋一つ分も商品を買わされた。

 きっちり馬車代ぶんを残してお金がなくなってる。


 商魂たくましいおじさんに最後また背中をバシバシ叩かれて、少し悔しい思いをしながらその場を離れて森へと向かう。


 途中例の花畑に立ち寄ってみた。花畑は広く、まだところどころまばらに花が咲いている。これが見頃の時期ならなるほど、さぞ圧巻だったろう。……時期が来たらシャンタルたちを誘ってみようかな。二人がここを避暑地として使ってるとは聞いたことがないし、基本遠出をしない二人だから多分来たことはないはず。シャンタルは分からないけれど、リリーはこういうのが好きだからきっと喜ぶ。


 その花畑を大きく迂回して、街の奥まで歩く。しばらく行った先にある花畑と街の境を区切る柵のはしからさらに進み、おじさんに教えてもらったとおり可愛らしい外観の小物屋の裏へ回る。店が大きくて前から全く見えなかったその裏にはよく見れば森の一部が人が通れるように切り開けられていた。

 なるほど、確かにここまでは観光客も立ち入らないだろうし、その奥にあるとなれば秘密の場所っぽい。人の出入りが多い街だからこそ余所者が入ってこない街の人だけの憩いの場が重宝されているのかも。


 ………できるだけ長居はしないようにしよう。このまま帰るのは嫌だし。


 入り口から続いている道は木がない以外は特に整備されているわけでもないようで周りと同じように草が茂っている。二、三人が通れるほどの空間はたとえここまで立ち入った人がいたとしてもここから先への通り道があるとは思わないだろう。道を教えてもらった私でさえ注意しないと迷ってしまいそう。


 道を確かめながらゆっくりと進み、だいぶ奥まったところまできた。上には葉が生い茂りそのせいで光が当たらずにとても肌寒く、ジメジメとしている。

 道なりに歩いて行き、しばらく行ったところで曲がり角があった。湿った土に足を取られぬよう慎重に曲がって…… 目の前に木があった。行き止まりのそこで左右後ろを確認しても木があるばかりで、今までのように人が通れるほどの空間はない。あるのは獣道のみ。


 ………道を間違えた?


 ちゃんと道なりに、きちんと確認しながら移動してきたのに立ち止まりときては落ち込んでしまう。しかし幸いここまでは一本道で、戻ろうと思えば迷わず戻れるために慌てることはない。

 道が分からないのなら無闇に先へ進むのは危険だ。一旦戻ろうとしたところで、ふと、横から奥が覗けた。


「………あ」


 今までと違い、日の差し込む開けた場所だった。目の前に並ぶ木は道を間違えたからあったのではなく、これを隠すためにあったのだ。


 明るいそこは簡素な広場のようになっていて、木を机で見立てたらしきものと、それを囲むようにして切り株を用いた腰掛け、そこから離れた場所にもポツポツと一人がけの椅子がある。数自体は少ないが、それが余計に場を広く見せていた。


 ここが、おじさんの言っていた場所。


「―――だれ」


 誰もいないものだと思っていたからその声に驚いてしまい、痛いほどに心臓が跳ねた。


 どこから声が、と横を向いたところで斜め前に人が立っているのに気がつく。木が邪魔をしてさっきまでは分からなかった場所に人がいた。


「この辺じゃ見かけない顔だね。お客さんかな」


 ここにいるということは街の人だろうか。

 日の当たるそこに立っていた男は言って笑う。

 背がこちらより頭ひとつ分は高く、多分歳上。艶やかな長い髪は私とは違う真っ黒なもの。瞳も同じく真っ黒で、そのせいか白い肌がより一層際立っている。中性的なその顔は、並の美しさでは敵わない、二とない美貌。


 これは、女がほっとかないな。―――そこでふと思い出すのは今日逃げてきた理由の一つ。相手の顔を見たことはないが、果たしてこの人と彼と、どちらがより綺麗な顔をしているのか。見たこともないくせになぜかこちらの方が優れているかも、などと失礼にも思ってしまえた。


「――お邪魔してしまいましたか、すみません。仰るとおり余所者ではあるんですけど、教えてもらったというか、その」

「構わないよ。怪しんでるわけではないから安心して。勝手に入ってきたわけでもなさそうだしね」


 男は手を顔の前で振って、こっちこそ驚かせたみたいで、と逆に謝られてしまった。

 けれど人がいないこと前提に入ってきた私としては大変いたたまれないわけで、こちらこそ本当邪魔してすみませんでした、だ。無事到着できたらしいものの、これは帰らねばならない。何もしないで帰りたくないというだけであって、休憩している人の邪魔をしたくて来たわけではないのだから。一番の理由は街の人がいるのでは気まずい、というのものなのだが。


「いえ、本当すみませんでした。物見たさに来ただけなのでもう帰りますから」

「気にすることはない、せっかくだし休んでいくといい。森の中は肌寒かったろう?ここならば日も当たるし、温まれるよ。――ああでも私がいては気まずいかな」


 黙っているとこのまま気を使わせて去ってしまいそうな雰囲気で、急いで首を横に振ると「ならほらおいで」と手招きされた。

 う、誘い方が妙にうまい。近寄ろうとはせずあくまでも手招き誘うのはこちらに警戒を持たせないためだろう。ここまで言わせては固辞するのも失礼に思えてくる。


『いいかいアタリー、周りに人がいない場合決して男と一対一になろうとしてはいけないよ。誘われても必ず断るんだ。それでも相手が無理を言うなら大声をあげて、声が聞こえる範囲でないなら逃げるんだ。これだけは自分と約束しておくれ』


 その時、唐突に過保護な友人の言葉がよみがえった。

 あれは確か初めて街に連れて行ってもらった時約束させられたことだ。リリーは『アタリーは子供かっ!』と横で笑っていたが、シャンタルは妙に真剣だった。その迫力は有無を言わせないほど。

 それを守るならここは逃げないといけないところなのだが……。


「ん、どうかした?」


 首を傾げる彼は優しそうで、こちらに何かするとはとても思えないが、この状況に私が警戒するのは致し方ないだろう。さっと見た限り彼はナイフの一つも持っていなく、着の身着のままだ。客観的な状況を分かっているのかジロジロと不躾な視線を向けられても彼は文句の一つも言わなかった。


 それに紙袋の中身を消費しないままに帰るわけにもいかない。持って帰っても食べさせてはもらえないだろうし、そもそも乗合馬車は飲食禁止で、今食べなければあとは捨てるだけになってしまう。が、第一食事を終えたばかりの女が一人で食べ切れる量でもない。

 つまり、もったいない。

 ならこの人に事情を話して一緒に消費してもらうかもらってもらうかするなりしてしまえばいいのでは?


 シャンタルかお菓子か、グラグラ揺れた末に、お菓子の誘惑には勝てなかった。

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