第16話 先生と先生

 何だか心臓がばくばくしている。さくら先生に会える嬉しさ、演奏することへの緊張。それを押しつぶすような黒い不安。


 小学生時代の担任だった寺田てらだ先生がこの境内のどこかにいるかもしれない。もし見つかったら、昔みたいに怒られるんだろうか。想像しただけで、胃をぎゅっとつかまれたような感覚になる。


 もう私だって中学生だし、寺田先生は過去の人のはず。だから会ったとしても挨拶ぐらいで終わる。そうに決まってる。


 だけどそんな風に自分に言い聞かせても、昔の嫌な思い出ばかり浮かんでは消えて⋯⋯。


「ひなた、どうかした?」


 戻って来たお姉ちゃんに顔を覗き込まれる。


「ううん。何でもないよ」


「本当に? 同級生の子に嫌なことでも言われた?」


「全ー然! そんなことないよ。やっぱり、演奏のこと考えてたら緊張してきちゃって⋯⋯」


「ひなたは緊張しいだなぁ。まぁ、大好きな人前でいいところを見せようと思ったら、誰でも緊張するか。気分転換に何かゲームでもしない? 鳥居の方にスーパーボール掬いの屋台があったはず!」


 お姉ちゃんに手を引かれて、さっき歩いて来た道を戻る。目に入るりんご飴の屋台、お好み焼きの屋台、水飴の屋台、お面の屋台。それらがどこか、幻のような、遠くの世界の景色に感じる。


「あった、あった! あそこ! あのスーパーボール掬い屋さん、毎年出てるんだよねー」


 小走りに駆けて行くお姉ちゃん。楽しそうな後ろ姿も、今の私には遠く見える。


(大丈夫。大丈夫。きっと寺田先生に会わない。こんなに人がいたらすれ違っても分からない)


 私は強く自分に言い聞かせてお姉ちゃんの後を追う。


「ひなたー、こっちこっち!」


 すでにポイを二つ手にしてるお姉ちゃんに手招きされる。


「これ、ひなたの分ね。どっちが多く掬えるか勝負しよ! 負けたら、水飴をおごる! どう?」


「ま、負けないよ!」


「いいね、いいね。その意気だよ!」


 私は渡されたポイと器を片手にお姉ちゃんと、スーパーボールがぷかぷかと浮かぶ水槽前にしゃがむ。


 スーパーボールはキラキラとしたラメを内包し、赤や青や黄色と大小様々に色とりどりに水面で輝いていた。


 私は慎重にポイで小さなボールを狙う。


 ポイが破れないように素早く掬いあげる。けれど水を含んだポイはすぐに穴ができて、しなしなになってしまった。


「はい、残念。参加賞ね」


 屋台のおじさんに小さなボールが入った袋を渡される。早々に負けてしまった。


 お姉ちゃんは水槽をぐるぐる回るボールを見つめ、狙いを定める。


 手前に流れてきた大きなボールをひょいっと掬って、ポイが破れる寸前に器に落とした。


「お姉ちゃん、すごいー!」


「伊達にスーパーボール掬いのあかりと呼ばれてないからね」


「いつからそんなあだ名ついたの⋯」


「今! それより、見てこれ。きれいなピンク色」


 見せてくれた器にころんと転がる淡いピンク色のボール。他のボールはどれもはっきりした濃い原色だから、新鮮。


 お姉ちゃんはこれを狙っていたらしい。


「これはひなたにあげる。何て言っても"桜色"だからね」


「ありがとう!」


 多分、お姉ちゃんは私の気分が沈んでるのを分かってる。だから、こうして元気づけようとしてくれている。


 私たちは屋台から離れて、ひょうたん池に架かる石橋にやって来た。


「この桜色のスーパーボール、お守りにしようかな」


「うちの境内で取れたらから、ご利益あるかもねー」


「うん。あるといいな」


 私は太陽の光にボールを透かして見る。淡い桜色の中に花びらのように散る銀色のラメが、キラキラしていて綺麗だ。


「さくら先生、そろそろ来る頃かな〜」


 お姉ちゃんは時計を見ながら鳥居の向こうを見つめる。


「ちょっと、そこのバス停まで先生いないか見てくるから、ひなたはここで待ってて」


 私が何か言う前に、お姉ちゃんは鳥居の向こうに走っていってしまった。


 きっとお姉ちゃんも久しぶりにさくら先生に会えるから、待ち遠しいのかもしれない。


(私も早く会いたい。先生に会いたい)


 祈るような気持ちで青空を見上げる。


「あれ、月岡つきおかじゃないか?」


 けれどそんな祈りも虚しく、心をざわめかせる声が耳に届いた。


 私は恐る恐る、声がした方を見る。 


 そこには小学生時代に見たのと変わらない、威圧するような大柄な寺田先生が立っていて⋯⋯。


「久しぶりだなぁ。元気にしてたか?」


「は、はい。お久しぶり⋯⋯です」


 私は今すぐにでも煙のように消えてしまいたい。スーパーボールの入った袋を持つ左手が震える。


「んー、聞こえないぞ。もっとデカい声出せないのか? 相変わらずだな月岡は!」


 大きな寺田先生の笑い声に、身がすくむ。寺田先生は怒ってないと思うけど、どうしても私には怖い。


「す、す、すみません」


「月岡も、もう中学生なんだから、しっかりしないとな!」


 肩を叩かれて、よろける。手に持っていたスーパーボールの袋が落ちる。私は急いで拾う。


「随分と子供っぽい物を持ってるんだなぁ。月岡は小学生の頃と全然変わらんな。本当にあの星花せいかの生徒になったのか?」


 笑う寺田先生の声が、馬鹿にしているみたいで、私は喉の奥が痛くなってきた。


 このスーパーボールは、寺田先生から見たら子供っぽいアイテムかもしれない。けれど、桜色だからとお姉ちゃんが取ってくれたものだ。


 私だけじゃなく、お姉ちゃんやさくら先生のことまで馬鹿にされたみたいで、私は自分の中の怒りのような、悲しみのような感情をどうしていいか分からない。


「おい、月岡、先生の話ちゃんと聞いてるか? そんなだまりこくってないで、少しくらい何か話したらどうだ? 全く、久しぶりに会ったのに、先生に対してそんな愛想のない態度でいいと思ってるのか!?」 


 どこか苛立ちを含んだ寺田先生の声音。


「す、すみません。久しぶりに寺田先生にお会いして、緊張してしまって」


「どうして緊張することがあるんだ? そう言えば昔から、月岡は人と話すのが苦手だったなぁ。小学生時代はともかく、今はそらみやを代表する星花生なんだから、しっかりしろ!」


「は、はいっ」


「だから、もっと大きな声を出せと昔から言ってるだろう!!」


「私は月岡さんの声、ちゃんと聞こえてましたけど」


 背後からしたよく知ってる声に私は思わず振り向いた。


 そこにいたのは、さくら先生とお姉ちゃんで。


「何ですか、貴女は。今月岡こいつと話している最中なんで邪魔しないでもらえませんかねぇ」


 まるで胡散臭いものを見るような寺田先生。


 どうしよう、さくら先生を巻き込んでしまっている。でも怖さで強張った身体も心も咄嗟には動かせなくて⋯⋯。


「私ですか? 星花女子学園で月岡さんを受け持っている教師です。生徒が怒鳴られているのを黙って見ているわけにはいきませんので」


 さくら先生は私を庇うように寺田先生の前に立ちふさがる。


「いやぁ、私も教師でね。小学生時代の月岡を受け持っていたんですよ。あの頃からちっとも成長してないんで、ちょっと注意してたまでです」


「怒鳴ることが注意なんですか?」


「はっきり分かりやすく伝えてただけじゃないですか。貴女も教師なら、月岡をしっかり指導してくれませんかね。じゃないと、卒業生まで指導しなくちゃならんのでねぇ⋯。まぁ、貴女が星花の教師なら、そこんところちゃんとしてくださいよ。⋯⋯私は悪さしてるうちの児童がいないか見なきゃいけないんで、失礼しますよ」


 さくら先生も教師だと分かったせいか、急に寺田先生の勢いが衰えて、私の存在も忘れたかのように、人波に去っていった。


「月岡さん、大丈夫!?」


 振り向いさくら先生が屈んで私と目を合わせる。


「だ、大丈夫⋯⋯です」


 安堵なのか、先生の優しさに触れたからなのか、目から涙が溢れる。


「あんな大人の男性に怒鳴られたら怖いよね。もう大丈夫だからね。月岡さんは何も一つも悪いことしてない。先生、ちゃんと知ってるから。もっと早く来ていたら、月岡さんのこと泣かせたりしなかったのに⋯。ごめんね」


 私は首を振る。先生は悪くない。何も悪くない。私を助け出してくれた。


「⋯⋯さくら先生」


「大丈夫、大丈夫」


 さくら先生が私をそっと抱きしめてくれて。嬉しいのと、怖さからの解放で、涙が止まらなかった。

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