第13話 再びの美術館
『みずき』
そう語りかける、さくら先生の柔らかな声。それは桜に降り注ぐ春の日差しのようで、どこまでも温かい。
それだけで名前を呼ばれた人は、とても大切に思われていて、大事な人なのだと伝わってくる。
私の知らないさくら先生の声は、いつまでも私の中で響いていた。
「ひなた、最近元気ない?」
ゴールデンウィークが明けた後の土曜日。私は居間の縁側に寝転がっていた。
「そんなことないよー」
お母さんの言葉に振り返ることなく返事をする。
「なんかいつもと様子が違う気がするんだけどな。お祭りで演奏することになって、緊張してる?」
「んー、少しね」
好きな人に好きな人がいるかもしれないから落ち込んでる、なんていくら仲がいいお母さん相手に言えるわけもないから、勘違いしてくれてほっとしている。
お祭りも緊張するけれど、今はそれどころではない。
「そうそう、ひなた、知り合いの人に美術館の割引券もらったの。これって、この間お姉ちゃんと一緒に行った展示かしら」
私は起き上がって、居間のテーブルまで行く。二枚置かれたチケットには『音楽と美術』の文字。それは確かに行ったばかりの展覧会のものだった。さくら先生と遭遇した、あの展覧会。
「そうだよ。お母さんも見に行くの?」
「私は絵とかよく分からないのよね⋯。だからひなたが絵を好きなら、あげようかと思って。でも、もう行ったなら使わないかしら。ちょうど二枚あるから、お友だちとどうかなと思ったんだけど⋯」
展覧会には行ったものの、さくら先生に意識が向きすぎて、ほとんどちゃんと見ていなかった。少しもったいないことをしてしまったかもしれない。
「誰も行かないなら、もらってもいい? 好きな絵があったから、また見たいなって」
「そう? よかった、割引券ムダにならなくて」
どうせ家にいてもモヤモヤしたままだし、今度はしっかり絵を見て来よう。
そもそもお姉ちゃんが、私がいい演奏をできるようにと思って連れて行ってくれた。
モヤモヤをすぐに晴らすことはできないけれど、それで駄目な演奏をさくら先生の前で披露することになったら、きっと一生後悔する。
私は善は急げと部屋に戻って着替えた。
土曜日の休みに突然友だちを誘っても、みんな用事があって、結局私は一人で美術館に来てしまった。
こんな時に、もっとたくさん友だちがいたらいいのに⋯⋯と少ししょぼくれる。
(美術館にいる間は元気でいなくちゃ。いっぱい展覧会から力をもらって、演奏に繋げたい)
私は全てのモヤモヤを振り払うように、美術館の入口に進む。
チケット売り場には短い列ができていた。私は列の最後尾に並ぼうとして、目の前にいる女性をふと見上げる。ふわふわの栗色のロングヘアに、真っ白なシャツと、水色のロングスカート。清々しい初夏の装いに、かすかに香る少し甘めで爽やかなシャンプーの香り。
それはとても見覚えのある香りと後ろ姿で⋯。
(さくら先生!?)
あまりに突然のことに、私はまじまじと栗色の髪を見つめてしまう。
(他人の空似とかだよね⋯)
けれど、後ろ姿も似てて、シャンプーの香りまで似てるなんてことあるのだろうか。
(本当にさくら先生⋯?)
心臓がどきどきしてきて、立ちくらみがしそう。
手をぎゅっと握りしめて、落ち着くために深呼吸をする。
(こんな偶然、二回も起こるわけないよね)
どきどきが加速して、心臓だけどこかへ出かけてしまいそう。
(取り敢えず確かめなきゃ)
私は意を決して、声をかけようとするけど、緊張のせいで声が出ない。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
私は目の前の栗色の髪の一本一本を数えられそうなくらい凝視していたら、ふいにその髪が揺れ動く。
「あら、
振り返ったその女性の顔は間違いなくさくら先生で。
「こんなところで会うなんて、奇遇ね。月岡さんも、音楽と美術展見に来たの?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯月岡さん?」
「はっ、はいっ! こっ、こんにちは、さくら先生!」
これが現実なのか夢なのか分からない。
私は思わず手で太ももをつねる。
痛いから、現実なのは確か。
「月岡さんも絵が好きなのかしら」
「あっ、はい。えーっと、音楽にまつわる絵なので、演奏の勉強になるかと思って⋯」
頭がほわほわしすぎて、自分でも何を言ってるのか分からない。
「そうね、月岡さんは
「さくら先生も、絵が好きなんですか?」
「気分転換に、たまにだけど見に来るの」
この間も来てましたよね、と言おうとして私は慌てて口をつぐむ。
あの時はこっそり先生を見ていたから、後ろめたい。それに先生は私たちには気づいていなかったし。
「実はゴールデンウィークにもこの展示を見に来てたんだけど、今週から展示替えで別の絵が見られるから、また来てみたの」
「そうなんですね。別の絵なら見たくなりますよね」
そこで私は割引券を二枚持っていたことを思い出す。カバンから券を取り出して、一枚を先生に差し出した。
「あの、さくら先生、よかったからこれ使ってください。二枚あって、一枚使い道がなかったので」
「いいの? また来た時に使えるよ」
「⋯⋯いいんです。私はこれからお祭りの練習もあって、また来られないと思うので。使えないままだったら、もったいないですから」
「そう。それじゃ、お言葉に甘えようかな。月岡さん、ありがとう」
先生の優しい笑顔が飛び込んで来る。
こうして好きな人の笑顔を見られたから、私はそれだけで充分だった。だって、この笑顔は今は私だけのものだから。
「月岡さん、せっかくだから一緒に見て回らない? 私は美術の先生じゃないから、絵の解説とかはできないけど」
「いいんですか?」
「ええ、月岡さんさえ良ければ」
ここで断る理由なんて、もちろんない。
「はい、お願いします!」
学校じゃない場所で、休みの日にさくら先生と二人でいられる。先生と私だけの時間。
私の今までのモヤモヤは遠くに隠れて、ただただ幸せで満たされていた。
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