第12話 届かなくて

「さくら先生に声かけてみたら」


 お姉ちゃんが私の耳元で囁く。


「でも、先生は今プライベートな時間だし、邪魔するのはよくないよ」


「ひなたは遠慮しいだなぁ」


 少しお姉ちゃんは呆れたようだけど、それ以上は何も言わなかった。私があまり積極的に行動できるタイプじゃないと知ってるから。


 私たちはさくら先生とつかず離れずの距離で絵を見て回った。先生は私たち姉妹に気づくことなく絵に見入っている。


 私も絵に集中しようと思って作品と対峙するけど、同じ空間にさくら先生がいると思ったら、どうしても意識は先生に向かう。


 真剣に絵と向き合うさくら先生は、少し近寄りがたくて、手の届かない憧れの人そのものだった。


 いつもより明るめの口紅や、華やかな出で立ち。私が知ってるようで知らない先生の姿。


 何だか見てはいけないものを覗き見しているみたいで、ほんの少し胸が痛んだ。


 気づけばもう展示室の出口手前まで来ていた。


 さくら先生は係員の人に会釈すると会場から出てゆく。私たちも見終えた人たちと共にフロアに吐き出された。


「ひなた、本当にこのままさくら先生に声かけなくていいの?」


 天窓から降り注ぐ柔らかい陽光の下でお姉ちゃんが気遣わしげに私を見ている。


「先生一人だったし、今日は一人でいたい気分かもしれないし⋯⋯」


「一人だからこそ声をかけるチャンスだと思うけど⋯⋯。そこまで行動するのは、ちょっとひなたには早かったかな」


 私たちは話しながら、通路を進む。その先にあるのは特設の物販コーナーだった。今日見た展示作品がポストカードやクリアファイルなどのグッズになって並んでいた。


 そして物販コーナーの片隅にさくら先生の後ろ姿を見つける。お姉ちゃんが無言で私の腕を軽く突っつく。


「⋯⋯⋯⋯」


 これってまたとないチャンスかもしれないって分かってる。分かってるけど、もし先生に少しでも迷惑そうにされたらと思うと、一歩が踏み出せない。先生は優しいから、迷惑に思ったとしても、そんな様子を見せたりはしないだろうけれど。


 迷っているうちに先生は買い物を済まして、美術館の出口に向かってしまう。


「さくら先生行っちゃったよ。どうする?」


 私の中の私が「何もできないまま後悔するの?」と言ってる。


「行ってくる!」


 私は先生が去った方に歩きだした。


「頑張れ〜」


 お姉ちゃんは付いて来る気がないらしく、その場で手を振っている。私はお姉ちゃんに頷いて、先生の後を追った。


 美術館の出入り口まで来て、あたりを見回す。少し離れたところにバス停があり、先生はそこにいた。


 走ってそこまで行こうとして、先生が電話しているのに気づく。


(今は声をかけるタイミングではないよね)


 風に乗って先生の話す声がかすかに聞こえた。


「みずき、今どこにいるの? ⋯⋯⋯そう。⋯⋯⋯私? 私はちょうど美術館を出たところ。⋯⋯⋯うん、展示見てきたよ。みずきも来ればよかったのに。⋯⋯⋯⋯今そっちに行くから適当に時間つぶして待ってて」


 私の心臓は聞こえてきた話にどきどきと激しい音を立てている。車の走る音も、風のざわめきも、行き交う人たちの会話も全部遠のいてゆく。


 いつもよりずっと優しい先生の声音。それだけで、電話の向こうの相手が大切な人なんだと分かる。


(みずきさん⋯⋯って誰なんだろう。先生の親友? 先生の兄弟? もしかして⋯⋯先生の恋人?)


 知りたくないことを知ってしまった気がしてならない。


(きっと、仲のいいお友だちなのかも)


 心の中に淀んだ澱が雪のように降り積もる。


 先生がこちらを振り返った瞬間、私はとっさに街路樹の影に身を隠してしまった。こっそり木の裏からバス停を覗くと、先生のどこか嬉しそうな横顔が目に入る。


(さっきの"みずきさん"が先生にあんな顔をさせてるのかな)


 もし私だったら、私なら、先生に同じ顔をさせることができるだろうか。何でもないただの生徒の私には、きっと無理かもしれない。


 もう私には先生に声をかける勇気はすっかりなくなっていた。


 何もできずにいるうちに先生はやって来たバスに乗り込んでしまった。


 私はバスが見えなくなるまで、ただそこにいるしかできなかった。





 美術館に戻ると、お姉ちゃんは物販コーナーの隅にあるベンチに座って、パンフレットを見ていた。


「ひなた、戻って来たの? 先生とデートに出かけてもよかったのに〜」


「⋯⋯⋯⋯」


「何か、あった?」


「⋯⋯⋯何もないよ」


「落ち込んでるように見えるけど、先生に声かけられなかった?」


「うん⋯⋯。先生見つけられなくて⋯⋯。もうどこかに行っちゃったみたいで」


 どうしてか、お姉ちゃんに本当のことが言えなかった。お姉ちゃんだってさくら先生のことが好きだった。だから、もし、今先生にとても大切な恋人がいたら、やっぱり好きの気持ちが過去形でも、ショックだと思うから。


「そっか⋯⋯。せっかくのチャンスだったのにね。でも先生に会える機会がこれっきりってわけじゃないし、また頑張ろう! ちょっとお姉ちゃんも急かしすぎちゃったね」


「ううん。お姉ちゃんのおかげで、いつもより頑張ろうって思えたから。また学校で会えたらたくさんお話できるように、頑張るよ」


 自分の中にあるもやもやが増していくけれど、私はなるべく笑顔を作った。応援してくれるお姉ちゃんをがっかりさせたくなくて。


 先生と両想いになるなんて、宝くじで一等を三回当てるくらい難しいことだと思う。それを分かっていたけど、先生との恋はもしかしたら上手くいくかもって、心のどこかで思い上がっていた。


(私はどうすればいいんだろう)


 答えが見つからないまま、ゴールデンウィークは過ぎてしまった。  

 

 

 





  

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