第6話 いざない
この後、家庭科の授業が始まる。
私は机に新調したばかりの桜柄のノートにペンケース、教科書を並べる。
さっきから心臓がばくばくして耳の中で跳ねるように高鳴っていた。
緊張と興奮と期待が全てごちゃまぜになって、私の中で膨らんでいる。
今日の授業にさくら先生が現れるか現れないか。これは私にとってすごく重要で、私は心の中で無駄だと分かっていても神様にお願いしていた。
(どうか家庭科の担当がさくら先生でありますように)
他の科目がどの先生になっても、そんなに喜んだりも落ち込んだりもしなかったけれど、家庭科だけはさくら先生じゃなきゃ嫌だ。
自分でも驚くくらいにその気持ちは強い。
私が席で石みたいになっていたら、あっという間に休憩時間が終りチャイムが鳴る。みんなしっかり席に着いて、先生が来るのを待つ。
「家庭科の先生誰になるんだろうね」
「怖い先生じゃないといいな」
「去年と同じ
「分かる。私も菅原先生がいい」
周りからひそひそとそんな声が流れてくる。
私も会話には入らないものの、さくら先生を推す声に大いに心の中で頷いた。
廊下からこちらへと近づいてくる足音がする。それは教室の前で止まり、前の扉がゆっくりと開いた。
私は息を飲んでじっと扉を見つめる。
春の柔らかな風のように一人の女性が入ってきた。
「気をつけ、礼」
日直が号令をかける。
『よろしくお願いします』
私はみんなと同じように礼をした後、顔を上げると目の前にいる先生へと目を惹きつけられる。
「みなさん、こんにちは。今日から二年二組の家庭科を担当することになった、菅原さくらです。一年間よろしくお願いしますね」
花がほころぶような優しい笑顔にクラス中の空気が一瞬で和らぐ。
私は今すぐにでも飛び跳ねたいくらいに、喜びが全身から溢れ出そうになった。
(さくら先生だ!!)
いても立ってもいられないような、そわそわとわくわく。
私は膝の上で拳を握りしめ、深呼吸。
(取り敢えず落ち着かなきゃ)
また一年間、さくら先生とこうして同じ場所で同じ時間を過ごせる。学校の授業だけれど、大好きな人と過ごせる大切な時間。
しっかり授業を受けて、家庭科でいい成績が取れるように頑張ろう。
私は新たな決意とふわふわな夢心地で、先生へと意識を向けた。先生の一挙手一投足を見逃さないために。
授業は苦手な数学の時間の三倍は早く過ぎ去ってしまう。
教室を出て行く先生の元へ私は慌てて駆け寄った。
「先生!!」
私の声に先生が振り返る。
「あら、
「あ、あの。その⋯⋯、私家庭科の授業が好きで。頑張ろうと思ってて。なので、また一年間よ、よろしくお願いしますっ!!」
「家庭科の授業好きなのね。そう言ってもらえると先生もすごくやりがいがあるな。一緒に頑張りましょうね」
至近距離での先生の微笑みに、私の胸はとくんとくんと速さを増す。
「はいっ」
取り敢えず、何とか少しはアピールできたかもしれない。
栗色の髪をなびかせて廊下の向こうへと消えて行く先生の後ろ姿を、私はいつまでも見つめていた。
学校が終り、私は体に羽でも生えたかのように軽やかな足取りで帰宅した。
家に戻るより先に、かばんを持ったまま境内へと向かう。
平日の日中でもぽつりぽつりと参拝客はいるので、邪魔にならないように拝殿の前まで行く。
参拝客が去ったの見計らい、私は神様へと報告する。
(神様、私のお願いを叶えてくれてありがとうございます。大好きな大好きなさくら先生が家庭科の担任になりました。これから一年間、家庭科の授業が難しくてもきちんと勉強して頑張ります。だからどうか、この先も見守っていてください)
静かな境内にさわさわと風の音だけが響く。心の中のそわそわとした気持ちも鎮まっていく。
春の風は私を撫で、拝殿の周りにも桜の花びらを舞わせていた。はらはら舞う白い雨に思わず手を伸ばすと、花びらを上手くキャッチする。
何となくいいことが起こりそうな、そんな気持ちが芽生えた。
私は報告を終えて家に向かおうと社務所の前を横切る。
「おーい、ひなた」
社務所からおじいちゃんの呼ぶ声。
私は回れ右をしてそちらへ向かった。
「おじいちゃん、ただいま」
「ひなた、おかえり。実はちょっと相談したいことがあるんだが、いいか?」
「相談?」
私はおじいちゃんに呼ばれて着替えもそこそこに家の居間へと顔を出した。
「相談って何?」
「今年もそろそろ例大祭の時期だろう。
いつも初日に演奏会があるのはひなたも知っていると思うが、そこで困ったことがあってね」
家の
私のおじいちゃんは様々な和楽器に精通していて、教室も開いている。主にその教室の生徒たちによる演奏を例大祭でお披露目するのがイベントの一つでもあった。
「いつも演奏会で笙を担当している
「うん」
枝野さんは五十代の女性で、教室でも数少ない笙を習っている人だ。もう何年も家の教室に通っているベテラン奏者でもある。
「その枝野さんがね、先日怪我をしてしまって演奏会に出られなくなってしまったんだ。演目に雅楽もあるし、笙がないと寂しいだろう。それで枝野さんの代わりにひなたに演奏会に出てもらいたいんだが、どうだろう」
「私に?」
「演目自体はそんなに難しくないから、ひなたでもできるものだし、お願いできないだろうか」
脳裏に演奏会で笙を吹く私が浮かぶ。演台から見下ろす景色の中に、どうしてだろう。さくら先生がいる。
(演奏会を見に来てほしいって先生にお願いしたら来てくれないかな)
私の数少ない特技と言ってもいい笙。
それを先生の前で披露できるとしたら九月に行われる星花祭しかチャンスはない。
でも、演奏会に出たらそのチャンスを一つ増やせることになる。
先生を誘って来てくれるかは分からないけれど、これは逃す手はないように思えた。
「うん、いいよ、おじいちゃん。今から練習すれば間に合うと思うし」
私は演奏会に全く出たことがないわけではないけれど、基本的に教室の他の人が活躍できる場を奪わないように、身内としてあまり出ることはなかった。
でもこんな機会があるなら別だ。
「そうか。ひなたが了承してくれて良かったよ」
演奏会に出る動機が若干不純な気がしないでもないけれど、生かせる機会は生かさなければ損だ。
(それに先生に見せるかもしれないなら、上手に演奏したいし、練習にもより身が入るよね)
私は早速どうやって先生を誘おうか、思いを巡らす。
私は色々と考えて手紙を書くことにした。この間行った本屋で慌てて桜柄のレターセットを買った。
それに私の神社でお祭りがあり、演奏会があること。それに私が出ることになったこと。
直接先生を誘う勇気はない。
でも手紙ならたくさん文字も書ける。
なるべく個人的になりすぎないように、あくまで演奏会のお知らせっぽくなるように、私はノートに何パターンもお誘いの文言を書き出した。
何となく言葉が決まったところで、ノートを見ながら便箋に文字をつづる。
先生が来てくれるかは分からない。でもお姉ちゃんが誘ってお祭りに来てくれたことがあるなら、私にもその可能性は少しくらいはあるんじゃないかと思う。
ゆっくり丁寧に手紙を書き上げた。
最後に便箋を封筒に入れて、桜のシールで封をする。
「何とか書けた⋯⋯。問題はいつどうやって渡すか、だよね」
さくら先生の授業は週に一度しかない。先生はクラスを受け持ってないので、渡しに行くには職員室しかない。
だけど、さすがに職員室にまで手紙を持って行くのは緊張する。
「下駄箱に入れるとか? ⋯⋯何かそれじゃラブレターみたい」
急に恥ずかしくなって頬が熱くなる。
「うーん、先生に会える場所⋯⋯、朝!!」
私は考えすぎて先生と何回か登校していることをすっかり忘れていた。
また朝会えた時に渡せばいいことに気づく。もし会えなかったらその時に考え直せばいい。
「先生、来てくれるかな」
私は先生がよく見せる桜の花のような優しい笑顔を思い浮かべながら、手紙をかばんの中へそっと忍ばせた。
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