第3話 好きとモヤモヤ
夢を見た。
私は教室の真ん中の席に一人だけ。他のクラスメイトは誰もいない。
でも私はそれが当たり前みたいに座って授業を受けている。
教卓には
私は「アイス」という漢字が書けなくて、ものすごく困っていた。アイス? 氷? 冷菓子? どうやって書けばいいのか分らなくて、自分一人だけができないようで泣きたくなってくる。
「ひなたちゃん、どうしたの?」
先生から現実では呼ばれたことがない呼び方をされる。昔からそう呼んでいたかのように。
先生はいつの間にか私の後ろに立っていた。
「この漢字が書けなくて⋯」
「これはそんなに難しくないよ、ひなたちゃん」
先生は私のシャーペンを手に取った。
すぐ真後ろに先生の気配がして、何だか少し落ち着かない。先生は私の左肩に自身の左手を置いて、机のノートへ手を伸ばす。そしてさらさらと文字を書き綴った。先生のきれいな手を目が自然と追っている。
『愛す』と先生は書いた。
こんな字だったっけ? こんな字だった気がする。私は納得する。アイスは愛すと書くのだ。
「さくら先生、テストで百点取れるでしょうか?」
私も普段は呼ばない呼び方をしていた。
「ひなたちゃんなら大丈夫」
後ろから先生に抱きすくめられて、先生の柔らかな香りに包まれる。離れたくない。ずっとこのままならいいのに。
私はうっすらとこれが夢だと気づき始める。何とか起きないように、この時間が続くようにと私は先生の腕を放すまいとする。
しかしそれを邪魔するかのごとく予鈴が鳴り響いた。
私はうるさい電子音を鳴り散らす目覚まし時計を止めた。
よく分からない夢を見てしまった。シチュエーションも謎ないかにも夢らしい夢。
「先生⋯⋯、さくら⋯⋯、先生」
私は毛布を腕の中に引き寄せて抱きしめる。何かを失くした気持ちを埋めるように。
何故こんな夢を見たのかは分からない。
昨日見た先生の横顔があまりにきれいで、脳が忘れまいとして見せたのかもしれない。
ぼうっとした頭のままベッドから抜け出し、私は顔を洗いに行った。冷たい水のおかげで少しすっきりした。
制服に着替え、居間に行く。
テレビのニュース番組は各地のお花見風景を紹介していた。
(桜⋯⋯、さくら、さくら先生)
桜の花を見て私はまた先生のことを思い出している。
(昨日、先生と一緒に学校行けて嬉しかったな)
もしかしたら今日も駅で先生と会えるかもしれない。私は急いで朝食を片付けて歯を磨くと家を出た。
バスに乗り、駅に着く。電車の中は通勤する大人や制服を着た学生で溢れていた。どこかに先生が乗っていないかと、自然と辺りを見回してしまう。
そうこうしているうちに電車は学園前駅に到着した。同じ
(先生いないかな)
人波の中を流れながら、視線を
(そう簡単に会えないよね)
校内でさえ、しょっちゅうすれ違ったりはできないのだから仕方ない。諦めてとぼとぼ歩きながら駅を出る。
数メートル先に春風で揺れる栗色のふわふわの長い髪が目に留まった。
(先生だ!)
駆出そうとして私は気づく。先生の両隣りに同じ制服を着た女の子がいることに。雰囲気から高等部の先輩だろうと察した。
先生は生徒たちから人気があるのだから、私以外にも登校したいと思う人がいても不思議ではない。
それを分かっていても、大切なものを横取りされたような、自分でもよく分からない感情が生まれる。
(先生は私のものではないのに)
どうしてこんな気持ちになるかは自分でもよく分からなかった。
きっと昨日一緒に登校したことが、私にとっては思いがけず楽しくて嬉しかったからかもしれない。今日はその気持ちになれそうもないせいで、何かモヤモヤが発生してしまったのだろう。
私にはあそこに割って入る勇気も図々しさもない。楽しそうに笑う三人の姿を見ているのが辛くなって、私は走り出した。
遅い足で精一杯走って、先生たちを追い越す。これで見たくないものを見なくて済む。
(見たくないもの?)
(どうして?)
先生が笑顔でいるのはいいことのはずだ。
(何で見ていると辛くて、苦しいの?)
心の中のモヤモヤがどんどん増殖してゆく。
「あっ⋯⋯」
意識が内側に向きすぎて、私は足元をよく見ていなかった。
足先が何かにひっかかり、転ぶと感じた時にはもう遅かった。
路面に空いたわずかな窪みに足を取られて私は派手に転んだ。
それはもう無様に。
(痛い⋯⋯)
何となく視線を感じて、恥ずかしさとかっこ悪さに泣きたくなってきた。
なるべく周りを見ないようにしよう。
きっと笑われている。
顔を上げると、道の向こうから人が走って来るのが見える。
「
先生だった。
「怪我してない? ⋯⋯足擦りむいてるね。保健室で手当してもらわないと」
「⋯⋯⋯先生」
本気で心配そうに私を見つめる先生の瞳を見て、私はさっきとは別の気持ちで涙が出そうになった。転んだだけで泣くなんて、小さい子みたいなので何とか我慢する。
「月岡さん、立てるかな?」
「は、はいっ。大丈夫⋯⋯、です」
私が立ち上がろうとすると先生が手を貸してくれた。私はそっと先生の白くてきれいな手に触れる。ほんの少し冷たい手。
『手が冷たい人は優しい人なんだって』
ふと友人の
「ゆっくりでいいからね」
私は先生に支えてもらいながら立ち上がった。
「どう? 擦りむいた足以外に痛いところはないかな?」
「⋯⋯はい」
「他に怪我がなさそうで安心した」
先生がほっとしたように微笑む。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
先生と目が合った瞬間に、気恥ずかしくて目を逸してしまった。
(かっこ悪いところを見られてしまった)
でも何でだろう、恥ずかしいのはそれだけじゃない気がする。
「⋯⋯先生、助けてくださって⋯⋯、ありがとうございました」
「どういたしまして。養護の先生来てるといいんだけど⋯。保健室まで一緒に行くね。先生、心配で⋯⋯」
転ぶという不注意から来た不運が、先生とまた登校できる幸運に変わった。
(災い転じて福となすってこういう時に使うのかな)
私より高い位置にある先生の顔を見ながら、今にもスキップをして陽気な鼻歌でも歌いながら学校まで行きたい気分になった。
さっきまでのモヤモヤが全部吹き飛んで、まるで足に羽が生えたかのように体が軽く感じる。
私は単純だ。先生と学校に行けるというだけで、心の中の曇り空が晴天に変わるのだから。
(やっぱり先生が隣りにいると、それだけで嬉しい)
「ところで月岡さん、どうしてさっきは急いでいたの?」
「えっ⋯⋯と、その⋯⋯、し、新学期が始まったばかりなので、遅刻しないようにというか⋯⋯」
「そうなの? 何かすごく急がなきゃいけない用事があったわけではないのね?」
「⋯⋯はい」
「それならゆっくり学校に行っても大丈夫ね」
(穴があったら入りたい⋯⋯)
また別の恥ずかしさに襲われる。まさか先生が他の生徒と楽しそうにしていたのが嫌だったなんて、そんな心が狭くておかしなことは打ち明けられない。さっきの自分の幼稚さを思い出して顔が熱くなってきた。
(二年生になったばかりなんだし、もっと大人にならなきゃ)
先生へのこの気持ちは独占欲だ。
仲のいい友だちが他の子と仲良くしていると、何だかちょっと嫌になってしまうあの感じ。私は先生にもそんな気持ちを抱いてしまったのだと思う。
(先生人気だし、みんなこんな気持ちになるんだろうなぁ)
きっと私と先生が登校しているのを見て、私みたいになっている人もたくさんいるに違いない。
「月岡さん、どうかした? 足痛む?」
私が考え事ばかりしていたせいか、先生に気遣わしげに顔を覗き込まれる。
優しくて温かな眼差し。
(先生、さくら先生大好き!!)
「⋯⋯⋯⋯!?」
「月岡さん?」
「だ、大丈夫です! 先生、学校行きましょう!」
顔に?マークを浮かべた先生を伴って私は学校へと歩き出した。
(うん。私、先生が大好きなんだ。先生なのに愛ちゃんや他の友だちみたいに大好きなんだ)
だけど、ほんの少しその「好き」と先生への「好き」は違う気がしたけれど、私はまた先生の隣りを歩けるのが嬉しくて深く考えるのをやめてしまった。
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