第2話 さくら咲いた春

 


 朝食を食べ終えて、学校へ行くために家を出る。今日は新学期二日目。私は昨日中等部二年生になったばかりだ。


(私も先輩なんだよね)


 まるで実感が沸かない。私も後輩ができて「月岡つきおか先輩」などと呼ばれることを想像してみるが、いまいちピンと来なかった。


 私は家から出て、神社の境内に出る。鳥居の脇にそびえる桜の老木は薄紅色の可憐な花をたくさん咲かせていた。これから楽しい未来が訪れるような、見ているとそんな予感がしてくるから不思議だった。


 大通りの向こうのバス停へ向うために、歩道橋を渡る。澄んだ青い空は見ているだけで、心の中まで晴れるようだった。足取りも軽くバス停まで行くと、丁度駅へと向うバスがやって来る。私はそれに乗り、七分程揺られて駅に到着した。


 朝ともなれば駅や電車は通勤通学客でごった返している。同じ学園の制服を着た生徒も見かける。私は二駅先の学園前駅で降りた。大勢の乗降客と共にホームへと吐き出される。


 家から近い中学校へ通えば満員電車に揺られることもないけれど、星花せいかでの心地の良い学園生活を知ってしまったから、もう戻れない。


 駅から出ると、少し先に見慣れた後ろ姿を私は見つけた。栗色のふわふわの長い髪が、春の暖かな日差しに当たって所々蜜色に光っている。


菅原すがわら先生だ!)


 私は道行く人波を避けながら先生の近くまでやって来た。


「⋯⋯おはようございます!」


 思い切って声をかけるが先生は気づかないのか先を進んで行く。


(もっと大きな声出さなきゃ)


 私は昔から声が小さくて、聞き返されたり、相手に届かないことがよくあった。そのせいで小学生の時はよく先生に注意されていた。自分では普通に声を出しているつもりでも聞こえていないことが多々ある。


「おはようございます!! 先生!!」


 私は出せる精一杯の声で挨拶をする。


 先生が立ち止まり振り返る。栗色の柔らかな髪がふわりと舞った。


「おはよう、月岡さん」


 見ているだけで心が和むような温かな笑顔を向けられて、私はほっとする。


 菅原さくら先生。私の通う私立星花女子学園の家庭科の先生だ。優しさの溢れた目尻が下ったたれ目に少し丸い顔、誰もが一緒にいるだけで安心できる可愛らしさと、大人の女性らしい甘やかな美しさ。

校内でも当然人気のある先生で、私も大好きだった。私が学校で一番憧れている人。


「あの、先生⋯⋯一緒に学校に行ってもいいですか?」


「うん、もちろん。一緒に行きましょう」


 すぐに優しく応えてくれる。


(嬉しい⋯⋯!)


 何故かは分からないけれど、菅原先生といるとわくわくするような、ちょっとどきどきするような不思議な感じがする。


 『さくら』という名前の通り、まるで桜の花のような、見ているだけで気持ちを高鳴らせる。人気になる先生にはそれだけ人を惹きつける魅力があるのだと思う。だから、一緒にいるとわくわくする。


 私は先生と並んで歩く。先生と私では二十センチほど身長差があるので、歩幅も微妙に違う。私は歩くのもあまり速くないが、先生は私に合わせてくれているのか、さっきよりもゆっくりとした足取りになった。


「月岡さん、昨日から二年生になったけど、先輩になった感想はどう? ちょっと緊張してる、かな?」


「⋯⋯そうかもしれません。ちゃんとした先輩になれるか不安で」


「そうだよね。初めて先輩になるんだもんね。緊張するよね。でも、月岡さんなら大丈夫だと思うな。いつも一生懸命だし、頑張ってるから」


「ありがとうございます、先生」


 私は私なりに一生懸命やっているけど、人から見たら物覚えが遅い私は、頑張ってるようには見えないかもしれない。だけど、先生は見ていてくれたのかなと思うと心が弾んだ。


「今年も家庭科の先生は菅原先生がいいなぁ」


 思わず本音が口からこぼれる。星花には他にも家庭科の先生がいる。私のクラスを菅原先生が担当するかは家庭科の授業が始まるまで分からない。


(家の神様にお願いしておけばよかった) 


「月岡さん、嬉しいこと言ってくれるのね」


「えっ、あっ、あの、はい。⋯⋯家庭科の先生、菅原先生がいいです」


 今の本音が聞こえているとは思わなくて、私は焦ってしまった。


(そう言えば、先生はいつも私の声にきちんと耳を傾けてくれる。もっと大きな声で喋りなさいって言わない)


「また月岡さんのクラスを教えることになったら、よろしくね」


「は、はい! お願いします」


 私は今からでは遅いと分かっていても、心の中で神様に拝み倒す。


(神様どうか、菅原先生がまた私のクラスの担当になりますように。お願いします。お願いします)


 話しているうちにいつの間にか星花女子学園の正門まで来ていた。校内に植えられた桜も、誇らしげに咲いている。


「桜の花きれいだね」


 春の風が先生の声を掠め取ってゆく。


 はらはらと舞う花びらが、私たちの上や横を通り過ぎた。


 桜の雪の中で花を見上げる先生の横顔がとても嬉しそうで、私は何故か一生この瞬間を忘れないのではないかと思えた。


 大人になるなら、先生みたいな素敵な人になりたい。そんな想いが私を先生に惹きつけるのだろう。


「先生の名前は桜の花が由来なんですか?」


「うん。私、四月三日が誕生日でね、ちょうど私が産まれた日も今日みたいに桜がとても綺麗だったそうなの」


「それじゃあこの間、お誕生日だったんですか? おめでとうございます!」


「ありがとう。もう二十九歳になっちゃったけどね。月岡さんくらいの子たちから見たらおばさんかな」


 ちょっと寂しそうに先生は言う。


「そんなことないです! 先生可愛いし、お姉さんみたいにみんな思ってると思います。私⋯⋯」


 憧れています、と言おうとして私は言葉を飲み込んだ。何だか先生本人に言うのは少し恥ずかしい。

 

「可愛いなんて言われたの久しぶりだな。ありがとう」


「いえ、本当のことなので⋯⋯」  

     

 楽しい時間はすぐに過ぎてしまうもので、私たちは校舎に着いてしまった。先生は教師用の玄関に向う。


「月岡さん、またね」


 白くしなやかな手を振られて、私はお辞儀をして返した。


「はぁ⋯⋯。先生行っちゃった」


 何だか、手に持っていた大事な物がすり抜けてしまったような寂しさを覚える。


(やっぱり菅原先生素敵だなぁ⋯⋯)


「ひなたん、何ぼーっとしてんの!」


 思いっきり叩かれた背中にびくっとして振り向くと、去年も同じクラスだったあいちゃんが立っていた。


「あ、愛ちゃんおはよう」


「おはよー! なんだ、なんだひなたん。ぼーっとしてさ。春だから? それとも通学中にイケメンに一目惚れでもした!?」


「もう、そんなことしてないよ」


 どんなに格好良くても、私は男の人は怖いから好きではない。中には優しい男性だっているって分かっているけど、家族以外は怖く感じてしまうのはどうしようもなかった。


「新任の先生とかに超かっこいい男の先生来なかったね〜。残念。ひなたんもそう思わない?」


「私は別にいいかな。優しくて穏やかな女の先生の方がいい。菅原先生みたいな」


「ひなたん、菅原先生に憧れてるみたいな感じだよね」


「うん、そうかも」  


 私の頭の中は何故かさっき見た先生の綺麗な横顔がぐるぐると巡っている。愛ちゃんの声もどこか遠い。


(何で先生のことばっかり考えてるんだろう) 

 



 そして私はこの先も先生のことが頭から離れなくなってしまうことに悩むことになるのだった。

         

         

      

           

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