最終話 その前に

 暗い、暗い、海の底。

 そんな場所に私はその中にいた。


 体は動かない手は動かないし、足も動かない。浮き上がることもなければ、沈むこともない。


 そのはずなのに、私はどんどん深い闇に飲まれているようだった。初めから、光なんて何処にもなかったけど。


 ただゆらゆらと揺れている。

 その内、私の意識は薄れていって、少しずつ私が私じゃなくなっていく気がする。


 どうにかして、私自身を保ちたいと思っていた。どうにかして、ここから抜け出したいと思っていた。

 だけど、私には何もできなくて、静かに消えていくしかなかった。


 もう、どうして抜け出したいなんて思っているのか、その理由さえわからない程、私の意識は薄れていた。



「アリスちゃん。今日も可愛いねぇ」

「そう、ありがとう」

「そんなアリスちゃんに、ほら、取れたての果物だよ。サービスしちゃう」


 そんな時、声が聞こえてきた。

 私のよく知ってる声と、私の知らない声。

 すぐに聞こえなくなってしまったけど、その声は、またしばらくすると、聞こえ始める。


「よ。アリスちゃん。また子供たちがアリスちゃんと遊びたがってんだ。また遊んでやってくれねぇか?」

「うん。いいよ。私もみんなとあいたいから」


 知ってる声とまた知らない声が聞こえてくる。

 だけど、どちらの声も柔らかくて、どちらの声も優しかった。


 今の気迫な意識の中では、知ってる声の人物を思い出すこともできない。だけど、その声がまた聞きたい。

 ただそれだけで、私は消えそうになる意識を辛うじて保っていた。


「アリス。最近、忙しそうですわね。でも、すごく楽しそうですわ」

「うん。旅はたのしいよ。みんな、私によくしてくれるの」


 今度はどちらも聞いたことのある声。安らぎのある心地よい声。


「アリス様。せっかくですから、少しお茶にしませんか? テン様の新作があるんです」

「え! ほんとう? たべたい」


 楽しげな声は、1人でも、2人でもない。

 たくさんの声が集まってくる。


「ほら、持ってきたわよ」

「あ、テンちゃん!」

「良い香りですね。会議続きで疲れていたので、私も参加してもよいですか?」

「いや、姫様。今、かなり重要な会議なんすけど」


 聞き覚えのある声も、ない声も、全部が楽しげで。みんな、互いに信頼しあっているのが、その声を聞くだけでわかる。


「あぁ、美味しいわぁ。ふふ、やっぱりテンちゃん、私の元に来なさいよぉ。給料はぁ、今の10倍出すわよぉ」

「ちょっと、勝手に引き抜かないでくださる? しかも、お姉さま、仕事はどうしたんですの? 大領主になったばかりなのに、こんなに遊んでいていいんですの?」

「ふふ、問題ないわぁ。全部終わらせちゃったしぃ、面倒なのは、ウンジンとライコウにやってもらってるからねぇ。あ、あとぉ、たまに竜狩りとアジムくんにも、手伝ってもらってるからぁ」

「本当に、お姉さまは人使いが荒いですわね。アインハルトも、手を焼く訳ですわ」


 みんなの笑い声が聞こえる。

 楽しそう。私もそこに行きたい。そう思った。


 だけどそれは、許されないこと。ほとんど残っていない意識の中でもそれだけはわかる。

 私はあの中に入ってはいけない。


 そう思っていた。

 だけど。


「そういえば、アリス。あれから、反応はありましたの?」


 ふとそんな会話が聞こえた。

 何のことを言ってるのかわからなかったけど。


「ううん。まだないの。私のこえも、とどいてないみたい」

「まあ、そう簡単な話じゃないわよねぇ。一度は完全にぃ、自我を失ってるんだからぁ」


 その言葉を最後に、その場の雰囲気が暗く落ち込んだように感じた。何の話をしているのかはわからない。

 だけど、その会話が私に関係のある話だということは、直感でわかった。


 ついさっきまで、楽しそうに、和やかに、みんなで話していたのに、私の話題が始まってから、みんなの雰囲気が悪くなった。


 やっぱり、私はこの場にいるべきではない。

 そう感じた。


 なのに。


「でもね、かんじるの。ここに、確かにいるって、わかるんだよ?」


 ソッと添えられた手。何故か、それを感じた。よくわからない。今の私には、体なんてないはずなのに。


 でも、添えられた手は暖かくて、スウッと私の中に入っていく。


「そうですわね。あの方なら、問題なんてありませんわ」

「そうですね。あの方はしぶといですから。もしかしたら、もう少しかもしれませんよ」

「そうねぇ。あの子がアリスちゃんを放っておく訳ないしぃ。心配は無用ねぇ」


 みんなの声が暖かい。

 そして、みんなの視線が暖かい。

 どうしてかわからない。だけど、感じる。


 みんなが私を待っている。

 私なんかを。


 涙なんて出ないけど、泣きそうになった。

 心の辺りが暖かくなって、それが体の中を抜けていく。心から、体へ、手へ、足へ、全体が暖かくなっていく。

 バラバラになっていた私が少しずつ集まって、私になっていく。


 でも、やっぱりそれは希薄で、ともすれば、また一瞬でバラバラになってしまうような、そんな危うい形。

 どうしてそんなに、脆いのか。


 多分、私の中に芯がないからだ。

 私が私であるという、確固たる芯がないから。


 でも、それがわからない。

 自分では見つけられない。私の何処かにあるはずなのに、それが何処にあるかわからない。


 あそこに行きたい。あの声の元に行きたい。

 ただそれだけが、私の心を焦られた。

 もう少しでわかりそうなのに、それは一生わからないような気がする。


 ああ、私は、誰なのか。

 私は。


 私は。


 せっかく集まってきたのに、もうバラバラになりそう。


 私は。


 もう、戻れないのかな。



 そう、諦めかけた。


 その時。


「だからね、私は私の思うがままに生きて、もどってきた時に、この世界のことを教えてあげるの。だから、私は、いつまでも、お姉ちゃんを待ってるの」

「ええ。メアリーは、必ず帰ってきますわ。私たちも、ずっと待ってますわよ」


 その瞬間、カッと世界が光った気がした。


 お姉ちゃん。メアリー。


 そうだ。私は。私は、そうだった。


 アリスのお姉ちゃんで。

 メアリーって名前を付けてもらって。

 私は世界が大っ嫌いな竜の巫女。


 そうだ。思い出した。

 私は、私はメアリー。アリスのお姉ちゃんだ。


 それを思い出した時、私は自分の体を取り戻した気がした。実際は、私の体はもうない。魔力となって、辛うじて自我を保っているだけ。

 でもそれだけでいい。自我さえあれば、私は何も望まない。


 私が私であるとわかった時から、私の世界には光が溢れていた。

 そして、私の後ろには、私を包み込んでいた闇。その闇に目を向ける。


「私を、守っていてくれたの?」


 その闇は、私を見ていた。

 意識のなくした、自我のなかった私が消えてしまわなかったのは、ずっとこの闇が私を包み込んでくれたから。


 私はその闇に近づく。


「ずっと、私を守ってくれていたんだね。ドラゴンさん」


 私を守ってくれていたのは、黒いドラゴンさんだった。私とずっと一緒にいてくれたドラゴンさん。ずっと味方になってくれたドラゴンさん。

 私の初めての家族のドラゴンさん。


「グオオン」


 ドラゴンさんはずっと私の中にいた。だけど、ドラゴンさんは私に、行け、と言う。

 それは、私1人だけで歩き出せ、と言う意味。


 ドラゴンさんは、ついてこれない。

 ドラゴンさんは、私と違う。ドラゴンさんは、私の魔力で無理やり生き返らせた存在。そして、今の私は魔力だけの存在。

 そんな私では、ドラゴンさんを維持させることはできない。


 もうすでに、ドラゴンさんの姿だって、消えかけている。でも、それはわかっていた。

 これからは、私1人で生きていかなければならない。


「クウウン」


 ああ、うん。違うね。

 私は1人じゃない。みんながいる。

 そうだよね。


「ありがとう、ドラゴンさん。ずっと、一緒にいてくれて」


 私がここにいるのは、ドラゴンさんのお陰。

 みんなの元に戻れるのも、ドラゴンさんのお陰。


「私、頑張るからね」

「グオオン」


 ドラゴンさんは、その鼻先で私の背中を押してくれた。それが、私とドラゴンさんの最後の触れあい。


 だけど、わたしにとってはそれで十分。

 それだけで、私は1人じゃないってわかるから。みんなの元に行けるから。


 だから、ドラゴンさん。

 ずっと見守っていてね。



 そして、世界が色で染まった。

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