第136話
「戻らないって、どういうことですの?」
リリルハさんは、お姉ちゃんの言っていることの意味がわからなかったみたい。というか、私もわからなかった。
あの世界というのが、私たちが元いた世界。このお姉ちゃんの心象世界ではない世界のことを言ってるのはわかるんだけど、戻らないってどういうことだろう。
意味が飲み込めず困惑している私たちに、お姉ちゃんはゆっくりと説明してくれた。
「私は、元の世界に戻れば、また憎い人間を滅ぼそうとする。憎い世界を壊そうとする。これは、もう変えられないわ。だから、私は元の世界に戻るべきではない。この世界に残るべきなのよ」
「そんなことっ! そんなことありませんわ! メアリーにだって、あの世界に戻る権利はあるはずです!」
「そ、そうだよ。このせかいは、お姉ちゃんにとっていやなせかいなんだよ? そんな所にいちゃだめだよ」
この心象世界は、お姉ちゃんが今まで感じてきた負の感情が具現化した世界。それはつまり、この世界には、お姉ちゃんが受けてきた苦痛がすべて反映されているということ。
そんな世界、お姉ちゃんにとって良いものであるはずがない。
私とリリルハさんは一緒になって反対した。だけど、お姉ちゃんは頑なに聞き入れてくれない。
どうしてか、ずっと、首を横に振り続ける。
「戻っても、私はまたあなたたちと争う。それでもいいの?」
「争わないで済む方法が、何かあるはずですわ。私たちは、必ずわかり合えるはずです」
「あなたたちとなら、わかり合えるかもしれない。でも、それが逆に辛いのよ」
「え?」
お姉ちゃんは、何かを諦めたように笑っていた。
「あなたたちのことは信じられる。でも、やっぱり人間は信じられないわ。何か起きても、私の考えは変わらない。変えたくない。でも、あなたたちとは、もう、争いたくないの。傷付けたくないの。だけど、心はそう思っていても、人間への憎しみは消えない。消すことができない。今までとは違うの。ただ、滅ぼせばいいと思っていた。でも、それだけじゃ駄目だってわかった。でも、憎しみは消えない。もう、どうしていいかわからないの。何をしても、何を考えても、私はもう、あの世界に戻ることができない。でも、あの世界でない、この世界でなら、少しは楽になれるかもしれない。そう思うのよ」
お姉ちゃんの声は落ち着いていて、悲観しているようでもない。ただ、すべてを受け入れている。そんな感じだった。
覚悟を決めたように強く私たちを見るお姉ちゃんに、リリルハさんは目をそらして、悔しそうな小さな声を漏らした。
「でも、やっぱりそんなのおかしいですわ。メアリーだけが悪い訳じゃないのに、世界から追い出すような真似をして、そんなのメアリーのこと、全然助けられてないじゃありませんの」
「助けてもらったわよ」
「何がですの? 何も、何もしてあげられてませんわ」
今度は、お姉ちゃんがリリルハさんに寄り添う番だった。
お姉ちゃんは、リリルハさんの手を取って、私の手を取って、みんなで手を握る。
「アリスを守ってくれた。アリスに名前をくれた。私を信じてくれた。私に名前をくれた。こんなにも、私のために悩んでくれた。それだけで、私は今までの苦しさが薄れるくらい嬉しかったのよ」
「でも、最後がこれでは、何も……」
「私にとって、今まであなたがくれたものは、何物にも代えがたい、最高の贈り物なの。だから、何もできなかった、なんて言わないで」
「メアリー。ううぅ、メ、アリー」
お姉ちゃんは、リリルハさんをギュッと抱き締めて笑った。リリルハさんは、クシャクシャになって泣いていた。
そして、そのままお姉ちゃんは、私の方を向く。だけど、私は、お姉ちゃんのことを直視できなかった。
「アリス」
「いやだ」
言わせない。言わせたくない。
お姉ちゃんから、困ったような溜息が漏れた。うん。わかってる。お姉ちゃんを困らせてるんだって。
だけど、嫌なものは嫌だよ。
お姉ちゃんと会えなくなるなんて。
「アリス」
「いやだ!」
「……もう、仕方がない子ね」
「え?」
下を向いていたから気付かなかった。
お姉ちゃんはいつの間にか私に近付いていて、私を抱き締めていた。しかも、その姿は元の通り。お姉ちゃんの元の姿だった。
「あなたも、もう子供じゃないでしょ?」
「こどもだよ。お姉ちゃんがいないと、なにもできないの」
「そんなことないわ。あなたは今までずっと、1人で頑張ってきたじゃない。みんなに助けてもらいながら、立派にここまで来れたじゃない」
「できない。できてないの。お姉ちゃんがいないと、なにもできないの」
我が儘だってわかってる。
意味不明なことを言ってるのはわかってる。
だけど、言わずにはいられなかった。言わないと、お姉ちゃんが行ってしまいそうだったから。
ううん。本当はわかってる。何を言ったって、お姉ちゃんは考えを変えないんだって。
でも、だからって、諦めたくなかった。
「私、お姉ちゃんと一緒にいられるようにがんばったんだよ? お姉ちゃんに、せかいを見てもらおうと思ってがんばったんだよ?」
「ええ、わかってる」
「やさしい人はたくさんいるって、このせかいはすばらしいものなんだって、見てもらうためにがんばったんだよ?」
「ええ、よく頑張ったわね」
お姉ちゃんは、私の頭を撫でてくれた。すごく心地よくて、すごく優しくて。だけど、私が求めているのはそんなものじゃなくて。
「ねぇ、お姉ちゃん。一緒にいてよ。私、お姉ちゃんとずっと一緒にいたいよ。誰がお姉ちゃんのことをわるく言っても、私はずっとお姉ちゃんの側にいるよ? ねぇ、お姉ちゃん」
すがりついてお姉ちゃんの胸に言葉を投げる。お姉ちゃんの顔は見なくてもわかる。絶対、困った顔をしてるって。
だけど。
「アリス。もういいのよ。もう、私は十分に……」
「じゅうぶんじゃないっ!」
お姉ちゃんの言葉を遮って、私は叫んだ。
お姉ちゃんが驚いたのがわかる。だけど、私は止まらなかった。
「私は、まだお姉ちゃんになにも見せてないの。見てほしいもの、なにも見せてないの。だから、ぜんぜんじゅうぶんなんかじゃないの」
「アリス」
「いやだいやだいやだっ!」
離さない。絶対に離さない。お姉ちゃんが消えてしまわないように、私はお姉ちゃんを抱き締めたまま、ずっと離さなかった。
しばらくずっとお姉ちゃんに抱き付いていた。
そして、やがて、お姉ちゃんの溜め息が聞こえてきた。
「わかったわ。アリス」
そうお姉ちゃんが言った。
もしかして、私と一緒に元の世界に戻ってくれる気になったのかな。
私は嬉しくなって顔を上げた。
その時、お姉ちゃんが私のおでこにチュッてキスをした。暖かかった。
「え? お、お姉ちゃん?」
「私は、元の世界には戻らないわ。でも、アリス。あなたを悲しませたくはない。だから」
あなたの中で眠らせて。
お姉ちゃんは、そう言った。
「この世界で、1人でひっそりと消えようと思ってた。それが私の罰だって。でも、もし許されるのなら、私だって、アリスとずっと一緒にいたい。だから」
前にお姉ちゃんが、私の中に入っていたことがあったけど、あれと同じ感じなのかな。
もしそうなら、また一緒に旅をすることができる。必要なら、入れ替わることだってできる。
「じゃあ、前みたいにまた、一緒にいられるの?」
「ふふ、そこまで甘い話ではないわ」
「え?」
期待していた私の言葉を、お姉ちゃんは否定した。
「あの時の私は、実体がなかった。だから、簡単にあなたの中に入れたの。だけど、今は私にも実体がある。だから、あの時と状況が違うわ」
確かに、あの時はまだ、お姉ちゃんは自分の身体を持っていなかった。あくまで、私の意識の中にしかいなかった。
「だから、あなたの中に入るために、私は一度、私の全てを魔力に変換する。そして、その魔力をあなたに受け取ってほしいの」
「魔力に、へんかん、する? それって、お姉ちゃんがお姉ちゃんでなくなるってこと?」
もしそうなら、そんなのなんの意味もないよ。
お姉ちゃんが、お姉ちゃんでなくなるなら、私はそんなの絶対に認めたくない。
「確かに、一時的にはそうなるかもしれないわね」
「だったら……」
「でも、いつか、またあの日のようになれるはずよ」
お姉ちゃんの表情はすごく優しかった。
だけど、その表情は、嘘をついているのか、本当のことを言っているのかわからない。
だけど、お姉ちゃんは私を悲しませたくないって言ってくれた。お姉ちゃんは、私のことをいつも想ってくれる。
だから、お姉ちゃんは私を悲しませるような嘘はつかないはずだ。それだけは、絶対に信じられる。
だから、今回だって、お姉ちゃんが言うなら、必ず前みたいに一緒にいられるはず。
「ほんとうに、ほんとうだよね?」
最後にもう一度だけ聞いた。
お姉ちゃんは、何も言わず頷いた。
「わかった」
「ふふ。ありがとう」
そして、お姉ちゃんが少しだけ光り始める。
ううん。違う。お姉ちゃんが光になっていくみたいな、そんな感じ。
そして、暖かい光になって、少しずつ私の中へと入ってくる。胸の辺りが少しずつ暖かくなっているような気がした。
「リリルハさん。ごめんなさい。私は、あなたたちに、ひどいことをしたのに」
「いえ、いいんですわ。あなたは、十分苦しみました。それに、結局、あなたが信じられる世界を見せてあげられなかった。謝るのは、私の方ですわ」
「ふふ。世界は信じられなかったけど、あなたたちは信じられたわ。だから、もう十分よ」
リリルハさんは、お姉ちゃんの手を取ってギュッと握った。それに、お姉ちゃんは嬉しそうに笑う。
そして、お姉ちゃんは、もうほとんどが透明になって、もう少しで消えそうになった。
「アリス。私はまたいつか、あなたと一緒に世界を見に行きたいわ。でも、決して、私を待つだけの時は過ごさないで。それだけは、約束して」
「わかってるよ。今度、またお姉ちゃんと一緒にいられる時、見てきたものをちゃんとおしえてあげられるように、たくさん勉強するんだから」
お姉ちゃんが、いつか、と言うということは、そんな簡単なことではないんだと思う。もしかしたら、本当に一生をかけてのことなのかもしれない。
だけど、いつかは必ず、お姉ちゃんは戻ってきてくれるはず。
「ふふ、やっぱりアリスはえらい子ね」
最後にそう囁いて、お姉ちゃんの全てが、私の中に魔力となって入ってきた。
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