第94話 その前に その四

 女についていくと、大きな屋敷に辿り着きました。


 なるほど。

 この辺りでは有力な家の人間なのか。

 だから私を見つけ出せたという訳ですね。


 と言っても、今となっては、隠れてなんていなかったんですけど。


 屋敷の中には人間がたくさんいて、すぐにでも処刑を始めるつもりなんでしょう。


 そう思い、屋敷の中に入った私は、予想外の光景に驚きを隠せませんでした。


「じゃあ、とりあえずぅ、私の部屋に行くわねぇ」


 女は階段を登っていきます。

 しかし、その間の通路に、誰一人として人間がいませんでした。


 気配もありません。

 私に気付かれないくらい、高度に隠れている。という可能性もありますが、正直、人間がここまで完全に気配を消せるとは思えませんでした。


「何立ち止まってるのぉ? 早く来なさぁい」


 困惑し立ち止まっていた私を、女が少し遠くから呼びました。


 もし仮に、私に逃げる意思があれば、簡単に逃げてしまえたでしょう。だというのに、女は淡々と前を歩くだけでした。


 私は女の行動が理解できず、ただついていくことしかできませんでした。


 ◇◇◇◇◇◇


「はい。お風呂に入りなさぁい。そんな汚れたままでぇ、私に近付かないでねぇ?」


 女は、この屋敷の中でも、かなり上級な存在なのでしょう。

 部屋は1人で使うにはあまりに広く、置かれている品は、どれもが一級品に見えました。


 女の見た目はかなり大人びてはいますが、どう考えても、まだ大人と言える年齢には見えません。


 そんな女が、こんなにも優遇されているとなると、もしかしたら、この屋敷の主人の娘とかなのでしょうか。


 部屋の中には浴室もあるようで、女はタオルを投げてきて、シッシッと浴室の方に私を追いやりました。


 見ず知らずの者を自分の部屋に招き入れて、浴室まで使わせる。

 この女は、私が魔人であると、知らないのではないか。

 そう思いました。


 そうでなければ、こんなこと、ありえませんから。もちろん、私がただの人間だとしても、この行動はおかしいのですが。


 私は、女に逆らう理由もなかったので、言われた通り、浴室で体を洗いました。


 果たして、何年ぶりに、こうしてゆったりと体を洗えたでしょうか。今までは、こうしている間も、追手が来ないか常に警戒していたのに。

 今では、そんな心配をすることもなく、ただ純粋に体に溜まった汚れを洗い流すことができました。


 汚れが落ちる度、スッと何かが溢れ落ちるような感覚があり、それが何なのか、私にはわかりませんでしたが。

 直感的に、深く考えてはいけないと思い、それを振り払うように、頭を振って浴室を出ました。


 浴室を出ると、そこには、見たことのない服が置かれていました。


 私が今まで着ていた服の代わりに。


「これ、は?」


 服を取り替えたのなら、やったのはあの女しかいません。

 確かに服も汚れていたし、汚い格好で近寄るなとも言っていたので、服も気に入らなかったのかもしれません。


 ですが、この服装は、普通の人間が着るようなものではありませんでした。


 あまり見たことのない服。

 ですが、微かに覚えている記憶としては、これは、上級な人間に使える従者が着るような、下級の服。


 せっせと主に尽くす、確か、メイドと呼ばれていた人間が、このような服を着ているのを見かけたことがあったような、その程度の記憶でした。


 まあ、着る服にこだわりなどありませんから、私はそのまま、その服を着ることにしました。

 どうせ、もうどうでも良い命。

 死に装束など、何でも構いませんでした。


「あらぁ? 早かったのねぇ?」


 女は机に向かい、何かを書いていました。

 どうでもいいですが。


「ふふ、似合ってるわぁ。やっぱりぃ、私の見立てに、狂いはなかったわぁ」

「見立て? それはどういう意味ですか?」


 この女の言動は、最初から、いちいち意味がわかりません。

 流石に不審に思った私は、女に初めて質問をしました。


 その質問に、女は立ち上がり、私に近寄りながら答えます。


「ふふ、そろそろぉ、新しいメイドがほしかったのよねぇ」

「は?」


 一瞬、何を言っているのかわからず、変な声が出ました。

 いえ、言っている言葉の意味はわかっても、何言ってるんだ、と思ったでしょうけど。


「私を、メイド、に?」

「えぇ、どうせ、他にやることもないんでしょう?」


 女はすべてを見透かすように、憎たらしい笑みを浮かべていました。

 もはやすべてを諦めた私とは言え、流石にその、馬鹿にするような笑みには、何も言わずにはいられませんでした。


「何を勝手なことを」

「あらぁ? どうせもう、生きるのを諦めたんでしょう?」

「っ! どうして、そう思うんですか?」


 まさか言い当てられるとは。

 当てずっぽうで言ってるだけだ。そう思っても、女の見透かすような瞳は変わりませんでした。


「ふふ。私には何でもわかるのよぉ」

「ふざけたことを」

「なら、逃げるぅ? 自慢じゃないけどぉ、私に戦う力はないわぁ。誰も呼ばないしぃ、簡単に逃げられるわよぉ?」


 無防備に私の前に立つ女。

 女の言う通り、ここから逃げるのは簡単でしょう。


 それどころか、多少気の荒い魔人であれば、この時点でこの女は殺されていたことでしょう。

 それ程、この女の言動は、私を逆撫でする。


 ですが、同時に、この女は私がそういう性格ではないということを、知っているのでしょう。

 どういう仕掛けがあるのかはわかりませんが。


「やりたくないというのならぁ、別にいいわぁ。また、暗いあの場所に戻りなさぁい」

「こ、のっ! ふざけるなっ!」


 あまりに屈辱的な言葉に、私は女の首を鷲掴み、締め上げました。

 しかし、女は微かに呻き声を上げたものの、余裕な表情はそのままに、私を見上げていました。


 意味がわからない。

 この力を見れば、自分の命が危ないと、誰でもわかるでしょうに。


「ふ、ふふ。別にぃ、そうしたいならぁ、そうすれば良いわぁ。でもぉ、それだとあなたは一生、そのままよぉ」

「黙れっ!」


 そんなことはわかっている。

 だけど、そんなもの、どうしようと同じことだ。ここで何かが変わる訳じゃない。


「か、はっ。はぁはぁ、ふふ、わ、私の元に来ればぁ、違う景色を見せてあげるわよぉ」

「……は?」


 息苦しそうしながらも女は言う。


 無意識に私は、首にかける手の力を緩めていました。


「けほっ。いいわぁ。良い表情よぉ。心に嘘はつけないわねぇ」

「な、何を」

「あなた、一瞬、期待したでしょう? もしかしてぇ、今の状況が変わるかもぉ、なんて」

「っ!」


 咄嗟に何かを言いかけて、何も言えずに口をつぐみました。何かを言えば、女の言うことを認めてしまいそうで。


「ふざけないでください。私は、メイドになんてなりません」


 そう言うのが精一杯でした。

 期待してない、と、言うことは、どうしてもできなかったから。


 顔を見せないように私は背中を向けました。

 こんな、どう見ても私の10分の1の人生も経験していない子供の女に、背を向けるのは屈辱以外の何物でもありません。


 ですが、その屈辱よりも、今の顔を見られる方が屈辱だと思えました。


 なのに、この女は、私が背中を見せたのに、回り込んで私の前に出てきました。


「ふふ。逃げるということはぁ、図星ってことねぇ。ふふふ」


 その笑顔が、初めて年相応の女の子らしい笑顔でした。


 その笑顔は、嘘なんて抱えているようには見えない。子供らしい笑顔でした。


 そんな笑顔を向けられたのは、久しぶりでした。

 遥か昔、まだ私が魔人であると、誰も知らない時代に、こんな笑顔を見せてくれた人がいたかもしれない。


 いや、いなかったかもしれない。


 思い出せないくらい途方もない昔に、こんな笑顔を見たのかもしれない。


 ですが、どちらにしても、私はその笑顔が、美しくて、つい見とれてしまったんです。


「あらぁ。何を見とれてるのかしらぁ?」


 また、小馬鹿にするような笑顔に戻ってしまいました。

 どちらが本当の顔なのか、私にはわかりません。


 私を騙すために、こんな表情をしているのかもしれません。


 ですが、さっきの笑顔が、私の脳裏から離れない。もう一度見たい。


 そう思いました。

 ですが。


「あなたは、私のことを、知ってるんですか?」


 この質問は、避けては通れません。

 この答えによっては、私はまた、元に戻ってしまうかもしれない。


 それだけが、懸念だった。

 でも。


「知らないわぁ。というか、どうでもいいわぁ」

「え?」

「あなたが何者かなんて、どうでもいいのよぉ」


 心の底からそう思っている、そんな表情でした。この女のことは、本当にわからない。


 私の味方。という訳でもないでしょう

 しかし、敵という訳でもない。


 だからこそ、この女のことを知りたい。

 そう思いました。


「あなたに、何かメリットはあるんですか?」

「損得勘定ということぉ? もちろんあるわぁ。何もない善意よりはぁ、信じられるでしょう?」


 それは、その通りでした。

 何の根拠もない善意を向けられるくらいなら、何かを企んでくれていた方が、まだ納得できる。


 それに、利害が一致しているのなら、あえて波風を立てる必要もない。


 利害が一致している、なんて、私にある利なんて、あの女の純粋な笑顔がまた見たい。

 それだけなのに。


「ふふ。改めて聞くわぁ。あなた、メイドにならなぁい?」


 この女は危険だ。魔人である私が、こうも心揺さぶられるなんて。


 私の直感が告げている。

 この女には関わらない方がいいと。


 なのに。

 だというのに。


 どうしても、ここから逃げるという選択ができない。この女を否定する言葉が思い付かない。


 どうして。


「私に従えばぁ、今のあなたよりはぁ、ましな世界が見えるはずよぉ」

「まし、な、世界」


 今よりはましな世界。

 なんとも曖昧で、中途半端な世界です。


 なのに、それでも良いかもしれないと思うなんて、私はどうかしてしまったんだろう。


 でも。


 どうせ捨てようとしていた命。

 この女に拾われたと思えば、そんなに変な話でもないのかもしれない。


 どうせ、まともに死ぬこともできなかった身なんだろうから。

 こうして、この女に利用されるのも、運命なのだと、割りきれば良いのかもしれない。


 それが、言い訳であると、わかってはいたけど、辛うじて残っている魔人のプライドが、それだけは否定させなかった。


 ただ、利害が一致している。

 だから、この女についていく。ただ、それだけだから。


「いいでしょう。気まぐれに、付き合ってあげます」

「ふふ。交渉成立、ね」


 こうして、私は、この女。

 エリザベートに従うことになりました。



 そして、この出会いからすぐに、私は生涯の主となる、リリィと出会うのでした。

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