第92話

「選ぶって? どうして、リリルハさんと、ドラゴンさんを?」


 そんな選択、何の意味もない。

 だって、リリルハさんを傷付けることと、ドラゴンさんを助けることは、何も関係ないから。


「アリス。私は最初から言ってるわよね?」


 そんな私に、お姉ちゃんの呆れた声が聞こえてきた。

 お姉ちゃんは、面倒くさそうに目を伏せて、頬杖を付いている。


「その女は、必ず、私たちの敵になる。ドラゴンさんたちを傷付ける。そうなってからでは遅いのよ」

「リ、リリルハさんは、そんなことしないよ」

「どうして、そう言えるの?」

「え?」


 お姉ちゃんの質問に、私は固まった。


 お姉ちゃんを見たら、優しい笑顔が私に向いていた。だけど、その笑顔は能面のようで、作られた笑みだった。


 ゾクッとした。


 お姉ちゃんは、怒っている時ほど、静かになる。激昂することはほぼない。


 だからこそわかる。

 お姉ちゃんは今、私に質問がしたい訳じゃない。ただただ、怒っているんだ。


「で、でも、リリルハさんは、そんなこと、しないもん」

「理由が言えないのね。当たり前よね。あなたは、何も知らないんだから。だから、騙されるのよ」

「だま、される?」


 私がリリルハさんに騙されている。

 そんな思いが、私の中に、ほんの少しもなかったのか、と言われれば、そんなことはない。


 リリルハさんが、自分の身を守るために、私に嘘を付いている、と言う可能性は、ずっと頭の中にあった。


 だけど、私は何処かでそれを否定していた。

 そんなことはない。リリルハさんは、そんな嘘を付く人じゃないって、思い込もうとしていた。


 それに、何の根拠もない。


「アリス。私を信じなさい。人間は必ず、ドラゴンさんを傷付ける。それを私は、今まで何回も、何十回も、何百回も、何千回も見てきた。人間は、あまりにも醜い生き物よ」


 そう言うお姉ちゃんの目を見たら、その言葉が過剰なものではなくて、本当に、心の底からそう思っているのだと言うことがわかる。


「覚えてないかもしれないけど、あなたも嫌という程見ているはずよ。その光景を」

「そんな、光景、うっ」


 覚えがないはずなのに。

 ガツンと、頭に衝撃が走る。


 それと同時に、気持ち悪い感覚が胸の周りで渦巻いていた。

 朧気ながらも、確かにあるのは、人に対する、気持ち悪い感情。


 それは、お姉ちゃんの言うことが正しいと思えるほどに、確かな実感だった。



「アリス。ドラゴンさんたちを助けたいなら、その剣を取るのよ」

「で、も」


 カタカタと震えながら、私は目の前の剣を手に取った。


 これを刺せば、お姉ちゃんの言う通りにできる。だけど、そんなことを、私はしたいと思っているのか。


 ううん。したいなんて思っていない。


 この震える手が、何よりの証明だ。


 だけど、もし、お姉ちゃんの言う通り、ドラゴンさんと、リリルハさんを、天秤にかけなくてはいけないのなら、私は、ドラゴンさんを選ぶ。


 それは間違いない。


 だったら、私にできることは、本当に数少ない。


「アリス」


 リリルハさんのか細い声が聞こえてくる。


 リリルハさんの胸の辺りに剣を突きつける。

 これを少しだけ押し出せば、リリルハさんから、真っ赤な地が吹き出して、やがて動かなくなるだろう。


 リリルハさんは、逃げようとする気がないのか、私に剣を突きつけられているというのに、悲しそうに歯を噛み締めるだけで、動こうとはしなかった。


「ちょっと、アリス! 何しようとしてんのよ!」


 テンちゃんが、叫びながら、私の元に走ってこようとしていた。

 けどそれを、キョウヘイさんが制止して、床に組み敷いた。


「邪魔しないでほしいっすね」


 テンちゃんが、小さく悲鳴をあげる。


 テンちゃんも助けたいけど、今はそんなこと、考える余裕はなかった。


「ごめんなさい」


 まだ頭の整理ができない。

 リリルハさんを傷付けたいとは思わない。


 だけど、何故か体は動いて、剣が少しずつリリルハさんに突き刺さっていく。


「ぐっ、あ、う」


 苦痛に歪むリリルハさんは、涙を流していた。


 当たり前だよね。

 魔法で防いでる訳でもないんだから、すごく痛いはず。涙も出てくるよ。


 そう、思ったんだけど。


 リリルハさんが、泣いているのは、そういうことじゃなかった。


「ごめんなさい、アリス」

「……え?」


 リリルハさんの顔は、痛みに怯える訳じゃなく、死を恐れる訳ではなく、ただ純粋に後悔しているような顔だった。


 悔しくて、悲しむような顔で、それでも、私に笑顔を向けていた。


「あなたが信じられるような人になれなくて、ごめんなさい」


 リリルハさんの懺悔のような言葉に、私の剣を突き刺す速度は、止まる程に遅くなった。


 リリルハさんは、死に瀕してなお、自分の命よりも、私のことを考えているんだ。



 どうして、そんなことを考えられるの?


 そんな問いが、私の頭の中に浮かんだ。

 今は、そんなこと考えたって仕方がないと、わかっているのに。


 リリルハさんが、どんなに優しい言葉を言ってくれても。

 リリルハさんが、どんなに優しい笑顔を向けてくれたとしても。


 もう、どうしようもないはずなのに。


 ポロポロと流れる水の感覚は、たぶん私の涙。


 お姉ちゃんには、逆らえない。

 ドラゴンさんより、大切なものなんて、私には、ないはず、なの。


 そのはず、なの。


「私は、リリルハの姉、失格ですわね?」

「あ、ね?」


 私のお姉ちゃんは、お姉ちゃんだけのはず。

 お姉ちゃんから、お姉ちゃん以外に、お姉ちゃんがいるなんて、聞いていない。


 だから、リリルハさんは、今、私に嘘を付いている。

 命乞いのためなのか、私に嘘を付いている。


 リリルハさんは、嘘を付いている。



 はずなのに。


「私は、あなたのこと、本当の妹のように、いいえ、本当の妹だと思っていますわ」


 頭の中に浮かぶのは、何処かわからない場所で、リリルハさんと話している記憶。


「うん。私も、リリルハさんのこと、お母さんみたいって思ってた」

「おかっ! い、いえ。それでも構いませんわ。とにかく、あなたは、私の大切な家族なのです。いいえ、それだけではありませんわ。あなたは、私たち全員の、大切な家族なのです」


 お母さん。

 私たち全員の大切な家族。


 そう言ってくれた。

 リリルハさんが。


 リリルハさんが、レミィさんが。


 ううん。それだけじゃない。


 シュルフさんも言ってくれた

 カイトくんも言ってくれた。

 セリアちゃんも言ってくれた。


 それだけじゃない。


 もっと、もっと、たくさんの人が私を、どこの誰かもわからない私を、家族として迎えてくれた。


 ミスラさんが。

 アジムさんが。

 テンちゃんと、子供たちも。


 みんな、みんな、私のことを家族のように思ってくれていた。


 どうして思い出せなかったんだろう。


 私には、こんなにもたくさんの大切な人がいて、こんなにも優しい家族がたくさんいるのに。


 どうして思い出せなかったんだろう。


 私には、こんなにも楽しい記憶が、嬉しい記憶が、優しい記憶が溢れていたというのに。


 今まで思い出せなかったのが嘘のように、頭の中で、今までの記憶が駆け巡った。


 忘れていたことが、悔しいくらい、たくさんの記憶が、駆け巡った。


「リ、リリルハさん」


 カランカランと、剣が床に落ちる。

 リリルハさんから抜いた剣が、床に落ちる。


 リリルハさんの体からは、血が流れていたけど、私は魔法でリリルハさんの傷を治した。


「アリ、ス?」


 リリルハさんの驚く顔が、今は懐かしく思える。


 私は、リリルハさんの胸に飛び込んだ。


「はぐわぁ!」


 別にそんなに強くぶつかった訳じゃないのに、リリルハさんは、ものすごい呻き声を出した。


「ア、アリスが、私の胸に抱きつくなんて、は、鼻血、が」


 よくわからないリリルハさんの言動も、今なら、懐かしいと思える。


「ごめんなさい、リリルハさん。ごめんなさい!」


 泣いても、謝っても、許してくれないかもしれないけど。


 全部、思い出したから。


 私が、どれだけ、たくさんの大切な人がいて、たくさんの人から助けてもらっていたことを。


「アリス。まさか、あなた」

「おもいだした、ぜんぶ、おもいだしたの」


 リリルハさんの匂いが、さらに涙を流させた。


 忘れたくない人だったのに。

 すべてを忘れて、リリルハさんを傷付けた。


 誰よりも信じられる人だったのに。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」


 謝ったって、許されることではない。

 それだけのことをした。

 悪いことをした。


 リリルハさんに怒られても、幻滅されても、仕方のないことだと思った。


 だけど。


「いいんですわ、アリス。辛かったですわよね」


 リリルハさんは、優しい声で、腕で、私を抱き締めてくれる。


「私の方こそ、記憶を無くして、どうすればいいかわからないあなたを、助けてあげられなくて、ごめんなさい」


 ギュッと抱き締められて、心が暖かくなる。


 ああ、そうだ。

 リリルハさんはこういう人だ。


 誰よりも優しくて、誰よりも人のことを想ってくれる。


 今なら、お姉ちゃんの質問にだって答えられる。


 私はリリルハさんのことを知っている。


 もちろん、知らないことだってたくさんある。

 それは事実だ。


 だけど、この言葉が、抱き締めてくれる腕が、心を暖かくしてくれる優しさが、作り物であるはずがない。


 紛い物であるはずがない。


 そんなもので、ここまで私な心が暖かくなるはずがない。


 だから、わかる。

 リリルハさんは、お姉ちゃんの言うような、悪いことはしないって。


 絶対にしないって、わかるもん。


「待ってて、リリルハさん」


 私は、名残惜しかったけど、リリルハさんの胸から離れて、お姉ちゃんの方を向いた。


 一瞬、リリルハさんが、ものすごく後ろ髪を引かれているような表情をしているように見えたけど。



「お姉ちゃん」

「何かしら? アリス」


 さっきのような、無感情な視線。

 恐くて、震えそうだけど、私は真っ直ぐ、お姉ちゃんの目から目をそらさなかった。


「リリルハさんとテンちゃんを解放して」


 絶対に、2人を助けないといけないと思ったから。


「私の言うことが信じられないの?」

「お姉ちゃんが言うみたいに、わるい人はいると思う」

「だったら……」

「でも、リリルハさんは違う。テンちゃんは違うの」


 お姉ちゃんは、何も言わない。

 だから続ける。


「ドラゴンさんや、私を傷付けようとする人はいたよ。今までも。だけど、それだけじゃない。私を家族って言って、大切な人と言ってくれた人は、もっとたくさんいるの。世界にはいろんな人がいて、いろんな考えをもつ人がいるけど、わるい人ばかりじゃないんだよ? やさしい人だってたくさんいるの。だから、お姉ちゃんが言うことをしんじられないわけじゃない。だけど、リリルハさんは違うって言えるの」


 お姉ちゃんは、黙ったまま私の言葉を最後まで聞いてくれた。


 何を考えているかは、わからないけど。



 お姉ちゃんは、しばらく黙ったままだったけど、やがて、はぁ、と長い溜息を溢した。


「結局、こうなるのね」


 お姉ちゃんは、立ち上がり、私たちの方へと歩いてきた。


「アリス。もう一度だけ言うわ。人間は、必ず私たちの敵になる。あなたやドラゴンさんを守るためには、人間を滅ぼさなくてはいけない。それがわからないの?」

「わからないよ。だって、わるい人はいるけど、やさしい人だっている。ほろぼす必要なんてないもん」


 もう迷わない。

 私ははっきりとそう告げた。


「そう」


 お姉ちゃんの表情は、微かに私を憐れむような、ううん。悲しむようなものになって、すぐに戻った。


 そして、お姉ちゃんは、私たちに背を向ける。


「お客様が帰るわよ。道を開けなさい」

「え? 竜の巫女様?」


 どよめきが部屋全体を包み込んだ。


 まさか、お姉ちゃんが、私たちを見逃すようなことを言うなんて。


 姫さんたちだけでなく、私たちまで驚いていた。


「どうせ、あなたたちにはどうすることもできないわ。アリスが、私の思いを受け取れないと言うのなら、もう、どうでもいいわ。でも……」


 いつもの所まで行ったお姉ちゃんは、ゆっくりと振り向いた。


 その顔は怒りが滲んでいた。


「私の考えは変わらないわ。アリス。たとえあなたでも、私は止められる気はないわ」

「お姉ちゃん」


 その目に灯る光は、真っ黒な闇のようだったけど、綺麗なくらい真っ直ぐな黒だった。


「私も、変わらないよ。人をほろぼす必要なんてない。私は、お姉ちゃんをとめる、の」

「話し合いは決裂ね。出ていきなさい」


 テンちゃんとリリルハさんが解放される。

 部屋を出る道は開けられていて、簡単に出ていくことができた。


 私はドラゴンさんを見る。


 ドラゴンさんは、私を見ていたけど、付いてきてくれる気配は、なかった。


「じゃあね、お姉ちゃん。ドラゴンさん」


 今はどうしようもない。

 どうすることもできない。


 リリルハさんや、テンちゃんは、後ろをずっと気にしていたけど、私はただ、前を向いて歩いた。


 ここで、離ればなれになっても、絶対にお姉ちゃんにもわかってもらうんだから。

 人は滅ぼす必要なんてない。


 優しさも世界には存在するんだって、わかってもらうんだから。

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