第4話 青い鉛筆

 学校に着くとどうにか二限目には間に合った。

 ホッとして汗を拭って教室に入ると、みんなが一斉に僕を見る。中程に座るエドワードまでもが僕を見ていた。ただ彼は僕を見るとすぐに本に目を落としたけれど。


「あ、俊太郎が来た!」

「今日はどうしたんだよ」


 啓太と忍がすぐに声をかけてくる。僕は汗を拭いつつ席について、カバンから道具を出すと妹のことを話した。


「紗世が熱を出したんだ。だから朝からお医者さんを呼びに行ったりしたから遅くなった」

「紗世ちゃん大丈夫なのか?」


 忍の顔が曇る。彼の場合は本当に紗世のことを心配しているんだ。


「うん、今寝てるよ。お医者さんも風邪だって言ってたからそんなに大変じゃないと思う」


 忍が少しほっとしたように見えた。その横から啓太が嫌なことを言う。


「なら良いけどさ……ほら、ちょっと変な風邪が流行ってるだろう? 去年から流行っている、あの厄介な風邪じゃなければ良いけどな」


 それを聞いた途端に、家にいる時からずっと心の中にあったモヤモヤが膨れ上がる気がした。今年になって再び流行り始めてから、東京や大阪では何人もの死人が出ているとこの前聞いたばかりだった。

 他人事のように言う啓太に我慢ができなくなって、僕は声を荒げた。


「何で今そんなことを言うんだよ! 紗世は違うよ! 先生もそう言ったんだ!」


 先生は言っていたんだ。念のためだって、ただの風邪だろうけれど、離れに移すのは念のためだって。そう先生は言っていたんだ。確かに東京からこの街までは何日もかかるほど離れているわけじゃない。途中の横浜まで行くのも割と近いと言っていい。でもこの町ではまだ流行っているわけではないから、違うはずなんだ。


「今のは啓太が悪いと思うよ」


 忍が啓太の肩を押した。忍の表情にも強い非難が見える。啓太はすまなそうに僕を見た。啓太は啓太なりに心配をしてくれているのはわかる。でも本当はあの風邪ではないのかどうかなんてまだわからない。だから的を得た啓太の言葉にはとても腹が立った。


「ごめん……」


 啓太の声に僕は「良いよもう」と言って二時間目の授業の教科書を出した。良いと言いながらも啓太の顔は見れなくて、パラパラと捲る教科書を眺めても胸のモヤモヤは無くならない。


 そうしている内に先生が教室に入ってきた。


「二時間目が始まるぞ。席につきなさい」


 啓太も忍も慌てて自分の席に戻った。


 二限目は算術の授業だった。僕は黙って学習帳を出して筆箱を開けると、鉛筆の芯が折れていた。




「あ……ほとんど折れてる……」




 やっぱり駄目だったか……。走ったせいで中で動いてしまったんだ。確認しながら唯一折れていなかった鉛筆を手にしたところで授業が始まった。


 僕は湧き上がった紗世への心配を無理に押さえつけて、算術の授業に集中しようとした。家にはお母さんが居るから、紗世は今頃美味しい甘酒を飲んで、それから二、三日後には元気になるはずなんだ。


「ではこの問題をやってもらおう。そうだな……藤山俊太郎、この問題のイとロは君がやりなさい。学校に遅れた罰だ」

「はい……」


 一瞬違うことを考えていたのがわかってしまったのかと思うほど、絶妙な間合いで僕は名前を呼ばれてしまった。慌てて立ち上がると膝を机の足にぶつけて鉛筆が落ちた。その鉛筆はコロコロと転がり、エドワードの足元で止まる。


 それを目で追いかけたけれど、先生は僕を見ていた。黒板には先生が書いた計算式が三つ表示されている。仕方なくそのまま前に出ると黒板の計算式を解くことに専念した。計算式は三桁の数字の掛け算と割り算の混じったもので、複雑だけれどコツさえつかめれば簡単なやつだ。


 僕は結構算術が得意だ。確実に答えが出るのが好きだ。もっと深く習うと一つの解き方じゃなくていろんな解き方があって、そのどれを使っても一つの答えに辿り着くとお父さんが言っていた。そういうことに浪漫を感じる。いろんな考えが一つに集合する、それって浪漫じゃないかな。


「よし、良いだろう。では次のハの問題を……山川啓太、君がやりなさい」

「……はい」


 僕が席に戻ろうとしていると、今度は前の席に座っている啓太が立ち上がった。チラリと啓太を見ると緊張した表情をしている。啓太は算術が苦手だから緊張しているのだろう。すれ違う時に「頑張れよ」と小さな声で言うと、啓太は情けない表情を少し崩して笑った。




 机に座ると落としたはずの鉛筆が学習帳の上に置かれてあった。しかも鉛筆は二本ある。そして僕の鉛筆はまたもや先が折れてしまっていた。あぁ、これで今日の僕の鉛筆は全滅だ。もう一つの鉛筆は誰かが貸してくれたものなのだろう。でも握る部分が青い色をしている。こんな高級そうな鉛筆は見たことがない。


 これは一体誰のものなの?


 僕はあたりを見回した。後の席の上田茜に鉛筆を見せると、茜は誰かを指さした。その指を辿ると……え? エドワード? 嘘でしょう? 僕が驚いてもう一度茜を見ると、茜は二度深く頷いた。


 まさか、エドワードが鉛筆を貸してくれたのか? 僕の心臓が跳ね上がる。


 本当に? 何で? 何であいつが?


 斜め後ろからエドワードを見ると、その横顔は真っ直ぐに前を向き、黒板と学習帳を行ったり来たりしていて、こちらを見ることはなかった。

 



 算術が終わるまで、僕はその鉛筆をありがたく使わせて貰った。青い持ち手の鉛筆を握る手が緊張で滑る。書いているとどうしても青色が視界に入ってくるんだ。

 そして考えてしまう。なぜ彼は僕に大事な鉛筆を貸してくれたのだろう。


 算術の授業が終わると、僕はエドワードに話しかける決意をしなければならなかった。緊張はする。でも彼は僕に鉛筆を貸してくれたんだ。

 ゆっくりと立ち上がると、僕は一歩踏み出しエドワードの横に立った。


 啓太が驚愕の表情で僕を見ている。


「あの……」


 僕は声はかけたものの、名前を呼ぶことができずに、どうしたものかと突っ立ったままにそこに居た。その時間は一瞬のはずなのに、長い時間かかったように感じていて、教室中の学友たちが僕らを見ていた。


 僕の声にエドワードが振り向きながら僕を見上げる。その途端、空気が動いてふわりと良い匂いがした。ほらね、やっぱり彼の青い瞳はガラス玉のように綺麗だ。その彼の青い綺麗な瞳に緊張した表情の僕が映っている。その自分の表情を見た途端、羞恥心のようなものを感じて僕は声を吐き出した。


「あの、これ、どうもありがとう。本当に助かった!」


 僕が鉛筆を差し出すと、彼は僕を見つめたまま口を開いた。


「今日、まだ授業はある」

「あ……でも」

「僕のは折れていないから」

「……良いのかな? まだ借りていて」


 彼は無言で頷いた。


「そっか……じゃあ、うん、借りるよ。ありがとう」

「いや……」


 教室中の学友たちが僕とエドワードの会話に聞き耳をたて、様子を見ている。少し居心地が悪くなった僕はそそくさと自分の席に戻った。


 この時、僕は初めて気づいたかもしれない。ただの好奇心でしかない目を向けられることの居心地の悪さを。彼はいつもこの空気の中にいるんだ。そう思うと、罪悪感のようなものが僕の胸の中に起こった。


 ちゃんとエドワードと友達になりたい。


 初めて僕の中にその思いが湧き上がった。今までの僕の彼に対する感情は、初めて見た異人に対するただの好奇心だったと思う。でも今は興味だけではない何かを自分の中に感じていた。ちゃんと友達になれたら彼に心置きなく話しかけられる。だって彼はさりげなく僕に鉛筆を貸してくれる程に、周りをよく見ているじゃないか。


 これは彼がくれたきっかけだ。壁を崩さなきゃならないのは、多分、僕らの方だ。いつも遠巻きに見ているだけじゃこの関係は進まない。


 僕はこの好機を逃すものかと心の中で決心した。


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