第5話 貴族のお嬢様
四時間目が終わると昼休みになる。この時間は少し長く取られているので、お昼ご飯休憩も含まれている。
僕は黒板の記述を急いで写し終えた。今日はエドワードに「一緒にご飯を食べよう」と声をかけようと思ったんだ。
やっと写し終えて顔を上げると、エドワードはもう教室に居なかった。アイツ、黒板を写すのが早過ぎないか?……まだ半数の生徒が記述しているというのに。
「忍、アイツは?」
僕がエドワードの隣の席の忍に声をかけると、彼は肩をすくめた。
「いつもの通りだよ。何か持って出ていった。それより俊太郎……」
忍がもっと何かを話そうとしていたけれど、僕は自分のおにぎりの包みを持って教室を出た。
「おい! 俊太郎?!」
「お前どこ行くの?!」
忍の声と驚いたような啓太の声も聞こえたけれど、ここは無視だ。まずエドワードを探さなきゃ。僕は廊下を急ぎながら、彼がどこに居るのかを考えた。
いつもお昼時に何かを持っている。きっとアレはお昼ご飯だろう。彼は自分の弁当を持って出るんだ。教室は居心地が悪い、となるときっとどこか自分の落ち着ける場所で食べているはずだ。
でも彼が落ち着ける場所ってどこだろう? その場所が思いつかない。
そういえば、橘のお嬢様も教室ではお弁当を食べない。彼女の場合もエドワードと同じで、自分が落ち着ける場所で食べている。
この学校へ通う他の貴族の人は、一つの教室を使って勉強もお昼ご飯も食べるけれど、橘お嬢様だけは僕たちと同じ教室で、でも一人だけ図書室の一角で食べている。
まずは図書室へ行こう。僕は図書室に急いだ。
図書室は誰もいなくて静かだった。先生もこのお昼の時間は居ないようだ。でも窓側の一部に不自然に衝立があって、こちらからは見えなくなっている。僕はそこへ近づくと端の方から中を覗き込んだ。
「あの……橘翠子お嬢様はいらっしゃいますか?」
中を覗くと机の上に豪勢な料理の入った重箱を置いた橘お嬢様がいた。近づいてくる音に気づいていたようで、僕を見ている。
「あなたは人の食事を覗く趣味でもあるのかしら?」
お嬢様の怒りを含んだ声に僕は少し怯んだ。でもここで負けるわけにはいかない。僕は壁を壊すんだ。
「そんな趣味はないですけれど、ただ……エドワード・フォルトナーくんがここにいるんじゃないかと思ったのです」
「ご覧の通り、居ないわよ」
「そうですね。覗いて申し訳ありません。では僕はこれで……」
僕はそこを離れようと数歩移動した。
「待ちなさい。彼はここには居ないけれど、どこに居るのかは知っているわ」
僕は慌てて戻った。
「どこにいるのですか? 教えていただけたらありがたいです」
するとお嬢様はゆっくりと腕を上げ窓の外を指さした。
「この窓から外を見ればわかるわ」
僕は窓辺に寄ると外を覗き込んだ。学校の正面の校門と校庭が見える。でもエドワードの姿はない。
「どこでしょう? 見えませんが……」
僕が口を開くとお嬢様は僕の隣に来て全く違う方向の宙を指さした。
「あそこ……ほら金色の髪が見えるでしょう?」
指差す方向を凝視すると、校庭の隅にあるモチノキの中腹辺りに金色の髪が見えた。樹齢一五〇年以上経っていると言われるそのモチノキは、江戸時代半ばに偉い人が植えたものだと言われていて、僕らは誰も登ったことはない。
「……登ったんだ。あの木を……」
思わず呟いてしまった僕に、お嬢様はツンと澄ました綺麗な顔を向けた。
「いつもあの場所に居るわよ。雨の日は知らないけれど……」
「そうでしたか、それでは僕はこれで、ありがとうございました」
僕はすぐさま立ち去ろうとしたが、またすぐに呼び止められた。
「待ちなさい。藤山さん、あなた、私のことをフルネームで呼ぶのはやめてくださらない」
僕は橘お嬢様のいう言葉が何を意味しているのかわからなかった。
「……フルネームってなんですか?」
思わず聞き返した僕に橘お嬢様は大きなため息をつく。
「エドワード・フォルトナー氏とお近づきになりたいのなら、英語の単語くらい覚えなさい。ネームは名前、フルは完全という意味がある。つまりフルネームは名字と名前、省略しない個人の名前を示す全てを言うの」
「……はい」
成る程、僕はフルネームという言葉を覚えた。
「あなたはさっき私のことを橘翠子お嬢様と呼んだわ」
「えっと……はい、どうお名前を呼んで良いのかわからなかったので……」
「橘の名は抜いて頂戴」
「え?……だって、それでは下の名前だけになりますけど……」
「わかっていないわね。ここでは橘を名乗りたくないのよ。例えみんなが私の家名を知っていたとしても、私が橘と呼ばれるのが嫌なの」
僕は驚いた。お嬢様とこんなに会話をしたのは初めてだけれど、お願いされてしまった。彼女は自分の家が嫌いなんだろうか?
「あー……わかりました。けれど、本当に翠子お嬢様で良いのですか?」
「……私が強要するのは橘をつけないでということだけですから、構わないわ」
「……はぁ」
訳がわからない。だけど僕は『翠子お嬢様』と呼ぶ事にした。僕は庶民だ、何が不敬になるのかもわからないから、これ以上はどうしようもない。
今日は驚くことばかりが起こる。僕がその場で佇んでいると、お嬢様は不機嫌な表情を見せながら僕を見た。
「何をしているの? もういいわよ。彼の所へ行くんでしょう?」
「あ、そうでした! お嬢様、教えてくれてありがとうございます。僕、ちょっと行ってきます!」
「……」
お嬢様の視線を感じながら僕はその場を離れ、全速力で校庭の脇に立つモチノキを目指した。
お嬢様のことは驚いたけれど、まずはエドワードだ。あんな所にいたなんて想定外だけれど、意外とやるじゃないかという気持ちと、彼の孤独な気持ちを感じていた。
彼はただでさえ目立つから、景色の中に紛れたかったのかもしれない。そう思うと僕の中に訳のわからない泣きたいような感情が湧いてきて、少し胸の奥が疼いた。もちろん男子だから泣かないけれど……。
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