第3話 妹の紗世

 エドワードが転校してきて二週間ほどが過ぎたけれど、相変わらず彼は教室では浮いている。


 国語の教科書はすらすら読むし、算術や理科は誰よりできるし、体操に至っては運動神経が一番良い啓太と同じくらい走るのが早い。けれど、食事時には教室を出て行くし、誰とも話をしない。これじゃあいくら先生が仲良くしろといってもできやしない。


 気にはなるけど、僕らとはやっぱり違うんだ。

 仲良くしたいけど彼の周りに壁があるのが一番の問題だと思う。でもその壁ってよじ登るとか壊すとかはなかなか難しいんだ。アイツも話しかけてくる気はなさそうだし、僕はどうしても彼の前では緊張してしまう。だって、彼は……男に使う言葉じゃないかもしれないけれど物凄く綺麗だし、何を話して良いのかわからなくなるし、そもそも僕らと話が合う気がしない。



 アイツを含まない僕らは、いつも自然に話をしている。挨拶から始まって何となく会話が始まる。みんなお互いに好きなものや興味あるのを知ってるからだ。


 そういえば、アイツが好きなものって何だろう? 


 僕は度々ぼんやりとそう考えた。







 ある日の事だった。

 年子の妹の紗世さよが高熱を出した。僕は朝からお医者さんを呼びに行って、紗世を見てもらったのだが、先生は僕に「風邪だろうが、移ってはいけないから近付かないように」と言った。


 ただの風邪ならそう酷くはならないはずだ。良かった……。紗世はゆっくりと寝て美味しいものを食べればすぐに良くなる。そう思うと緊張が解れた。


 紗世は、多分可愛い。僕は紗世とは兄妹だからあまりわからないけれど、忍がよく「紗世ちゃんは可愛い」と言うんだ。


 僕と忍は武芸としての剣道と手習としての習字を横山先生に教わっていて、先生の奥さんが紗世に裁縫を教えている。その関係で忍は横山先生の所で僕らと一緒になることが多いからだけど、きっとそれだけじゃない。言葉にするのは気がひけるけれど、忍は紗世のことをとても気に入っていると思う。




 お医者さんが帰った後直ぐに、横の離れに部屋を作り、そこに紗世を移動させることになった。すぐ隣だけど、母屋から離れるとみんなの声が聞こえなくなり、気配を感じられなくなる。それは絶対に寂しいはずだ。


 だから僕は大事にしていた本を貸してあげることにした。


 部屋に戻って本棚に並ぶ本から『十五少年』を取る。この本はお父さんが子供の頃に読んでいたもので、僕が貰ったものだ。外国の人が書いた本で、十五人の少年たちが船の漂流で無人島に流されて冒険をする話。これがとても面白くて、この本は漢字には全部ひらがなが振ってあるから僕にも読めた。だから紗世にも読めるはずだから。


 紗世は前にこの本を読みたいと言ったけれど、僕は貸さなかった。あの時のことを思い出すとちょっと胸がちくりと痛くなる。けれど、だからこそ、今貸してあげようと思うんだ。


 僕は本を持って離れに向かった。

 玄関の土間から入り、引き戸を少し開けて中を覗くと、紗世は布団に寝ていてじっとしているようだ。寝ているかもと思ったけれど、そっと部屋に入った。


「紗世、大丈夫?」


 声を掛けると「うん」と答える紗世の弱々しい小さな声が聞こえる。僕は紗世の枕元に座ると本の表紙を見せた。


「前に紗世が読みたいと言ってた『十五少年』を持ってきたよ。離れに居るとつまらないと思うからさ。元気があったら読んでいいからな」

「ありがとう、お兄ちゃん」


 紗世が笑った。その笑顔も元気はないけれど、僕は妹の笑顔が見れて嬉しくなった。僕が紗世のおでこに手を当ててみるとまだ熱は高いようだ。


「早く元気になれよ。待ってるから、この本の次にはお前が読みたいものをまた貸してあげるし、元気になったらグミを取りに行こうな」

「うん……」


 紗世は熱っぽい潤んだ目を僕に向けてまた少し笑った。やっぱりちょっと辛そうだ。

 僕はあまり長くいてはいけないからと、紗世の枕元に本を置いて「学校に行ってくるよ」と離れを出た。

 いつも元気な妹が病気になるのは寂しいけど、紗世が元気になったらまたグミの実を一緒に取りに行こう。グミは甘酢っぱくて美味しくて、紗世が大好きな果物だから。


 母家に戻ると土間の台所で、弟の孝次郎を背負ったお母さんが、紗世のために甘酒を作っていた。僕も飲みたかったけど、ここは我慢だ。だって僕はお兄ちゃんだから、妹のものを欲しがっちゃ駄目なんだ。日本男子として感情は静観に整えること、と横山先生はよく言う。静観というのは静かに心を整えるという意味もある。僕は大きく息を吸い込んだ。


 うん、ここは我慢我慢、そう思っていると、台所に立つお母さんが振り向いた。


「俊ちゃん、さっきはお医者さんを呼びに行ってくれてありがとう。帰ったら甘酒を飲めるようにしておいてあげるわね」

「本当?!」


 僕は驚いた。たまにお母さんって人の心が読めるんじゃないかと思う。僕は欲しそうな顔をしていただろうか。そんなはずはないと思うけれど、でも、嬉しい。自然と僕の顔が綻んだ。それをお母さんは笑って見ている。


「えぇ、だから学校が終わったら、早く帰っていらっしゃい」

「はい!」


 僕は勢いよくちゃぶ台の横に置いてあった鞄を取った。中には今日の授業で使う教科書と学習帳、それから筆入れとおにぎりが入っている。


「じゃあ僕、学校に行ってくる!」

「気をつけて行くのよ。お弁当もちゃんと持った?」

「持ったよ。行ってきます!」


 僕は少しだけ気分が高揚しながら家を出た。帰ったら甘酒が待っている。甘酒はお酒じゃない。ちょっとトロッとして白くて甘くて麹が入った美味しい飲み物だ。


 僕は家を出ると駆け出した。一限目にはもう間に合わないけれど、走れば二限目には間に合うはずだ。


 鞄が動かないように抑えながら走る。でも鞄の中では、木の筆入れの中の鉛筆がカタカタと音を立てている。鉛筆の芯が折れないように布を敷いてはいるものの、これでは折れていないかが心配だった。でもゆっくり走ると二限目も間に合わなくなる。


 一か八かの賭けだ。僕はそのまま学校へ向けて走った。





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