第21話 埋まる欠落

 濃い霧のむこうから、歌声が聞こえる。

 綺麗な声ではない。軋んだような声が重なり、不協和音を作っている。

 耳障りな歌声の合間に、鈴の音と悲鳴が聞こえてくる。

 音は聞こえてくるが、ロストの視界は相変わらず白い霧に閉ざされている。

 霧のむこうには、悪魔崇拝者がいる。〈狩人〉として、自分は彼らを断罪しなければならない。

 しかし――

――銃はどこだ?

 普段〈狩り〉のときに使っている拳銃が、手の中から消えていた。さっきまで、確かに握っていたはずなのに。

――さあ、狩りなさいな。

――我らを狩りに来られたのでしょう。

――撃てるものなら撃ってみろ。

 声が聞こえる。嘲りさえ、含んだ。

――アス!

――逃げて!

 急がなければ。手遅れになる前に。

 足を前に出そうとして、がくりと体勢が崩れる。

 ロストの両脚――膝から下――は、今やただの肉塊となっていた。

「アス、起きろってば!」

「ああ、でも銃がないんだ。それに足が、もう……」

「銃なら棚に置いてあるよ。君の義足だって、ちゃんとベッドの横にあるし」

 低く声を立てて、目をしばたたく。すぐ近くに、ジュリウスの顔があった。

 ベッド脇の低い丸テーブルに置かれている水差しに手を伸ばし、ロストは二、三杯、続けざまに水をあおった。

 あごにこぼれた水を手の甲でぐいと拭い、ロストはようやく人心地がついたらしい。

 服を着替え、パンとスープで朝食をすませたころには、ロストもジュリウスと軽口を叩きあう余裕が戻っていた。

 互いに昔、少年だったころのように、ふざけて冗談を言っては笑いあう。

 屈託なく笑うロストを見るのは、ジュリウスにとっても久しぶりのことだった。

 昔の、あの一件以降、ロストの笑みにはいつもどこか陰があった。彼が心からおかしそうに笑うことなど――特にカナーリスに召喚されてからは――ついぞなかった。

 ひとしきり笑いに笑って、ロストはやや息を切らせてどさりとベッドに横になった。

 何事かと驚いたのか、近寄ってきたジュリーが袖を咥えて軽く引いたり、鼻面で手をつついたりと注意を引く。

「何だ、ジュリー?」

 起きあがったロストが、よしよしと頭をなでる。

「そうだ、ちょっと外に出るか?」

 ジュリーが大きく尻尾をふる。

 離宮の中庭への行き方は事前に聞いていた。

 中庭に出ると、ひやりとした風が吹いてきた。

「何か羽織ってくればよかったな」

 独りごちたものの、ロストは上着を取りに戻ろうとはせず、ジュリーをともなって歩きだした。

 庭の小路に沿って植えられている花々や、整えられた木々を眺めながら、ロストはゆっくりと歩いている。ジュリーもぴたりとその傍についていた。

「散歩か?」

 かがんで足元に咲いていた薄紫のビオラを見ていたロストへ、後ろから歩いてきたネミッサが声をかけてくる。

「ああ、このところ、ずっと中にいたからな」

 足音で、誰かが近付いてきているのは気付いていた。ゆえに驚いた様子もなく、ロストは立ちあがってふりかえった。

「どこか、悪いのか?」

 血の気の薄いネミッサを見て、ロストがためらいがちに声をかける。

「いや、何と言ったかな、病みあがり?」

「それは……外に出ていいのか?」

「ああ、もう十全だ。ところで、後で部屋に行ってもいいか?」

「かまわないが、何かあったのか?」

「いや、別段、何も。人間の間だと……親交を深める?」

「……言いたいことはわかったが、あんた、人間じゃないのか?」

「そうだ。それでは何か、と聞かれたら、私にもわからないとしか言いようがないが」

「わからない?」

 ロストが怪訝そうに眉をあげる。

「そう。最も、私は自分が何者かは知らないが、自分の役割は承知している。私にとってはそれで充分だ」

「役割?」

「そう。貴殿には伝えておこうか。私は見ることが役割だ。物事を見ること、見届けること、見守ることが私の役割だ」

「見ることが役割なら、俺に関わることはあまりよくないんじゃないか」

「いや全く。きちんと見ているからこそ、関わることが許されるのだから。それに、他者を助けるのが騎士というものだろう?」

「そうだな。いや、俺も詳しくはないんだが」

 ロストはちょっと唇を曲げて笑みを作り、ネミッサもいくらか表情を柔らかなものにした。

 大きく尻尾をふり、ネミッサに甘えようとするジュリーを制するロストに、かまわないと伝え、ネミッサはしゃがんで犬をなでてやった。

「さ、そろそろ行くぞ、ジュリー」

 しばらくして、ロストがリードを軽く引いた。

 どこか不満げなジュリーに、また後でな、とネミッサが声をかける。そう言われて、ジュリーはようやくロストについて歩きだした。


 午後、ネミッサはロストの部屋を訪れた。

「ここでの生活はどうだ。不便はないか?」

「ああ、特に不便はないし不満もないよ。何から何まで世話してもらえるのに、これ以上何か望んだらバチがあたるさ」

「よほどの難題か贅沢でもなければ、たいていの希望はとおると思うが」

「いや、別に不満があるわけじゃないんだ。しいて言えば、手持ち無沙汰で困るくらいで」

「それは仕方がないだろうさ。休暇だと思えばいい」

「休暇、ねえ」

 ロストが苦笑する。

「苦手か?」

「まあ……何かやっていたほうが落ちつくというのはあるな」

 そこへ、ネミッサがあらかじめ頼んでいたらしく、侍女が紅茶と菓子を運んできた。

 どうやらこの侍女は最近雇われたばかりらしい。まだ仕事に慣れていないのか、おぼつかない手付きでテーブルにカップを並べ、紅茶を注ごうとポットを傾ける。

 しかし目測を誤ったのか、紅茶は本来注がれるべきカップの中ではなく、その外側へ勢いよく注がれた。

 白いテーブルクロスに、赤みがかった琥珀色の液体がさっと広がる。

「も、申しわけございません!」

「いや――」

 かまわない、と続けようとしたロストの言葉がぷつりと途切れる。

 その脳裏に次々と、過去がよみがえる。

 洞窟。

 初老の男。

 若い女。

 夜の森。

 倒れている男。

 どうした、と、遠くから誰かの声が聞こえる。

「思い――出した、俺、は――」

 自分の声も、ひどく遠い。どう言葉を続けようとしたのか、自分でもよくわからなかった。

 視界はぼんやりと霞んでいる。どこかで悲鳴が聞こえた気がした。

「アスウェル!」

 覚えのある、甲高い声が自分を呼んでいる。

「しっかりしろ、アスウェル・コズロー!」

 弾かれたように、ロストは声のほうに顔を向けた。

 丸い、青い目がじっと自分を見上げていた。

 わんわんと、音が耳の中で響く。

 視界の霧が濃くなった。


 ロストが正気にかえったのは、それから少し経ってからだった。

 シャツの襟元はくつろげられ、唇にはブランデーの味がまだ残っていた。

「もうしばらく横になっていろ」

 身体を起こそうとしてネミッサに止められ、ロストはのろのろと首をめぐらせた。

 今にも泣きそうなジュリウスと目が合う。

「ジュリー」

 喉からやっと絞り出した声は、ひどくかすれていた。

「俺は、俺はあの人を――お前の――」

「君は自分のやるべきことをしただけじゃないか。何も思わないとは言わないけど……でもあの人は間違ってた。あんなこと、しちゃいけなかったんだ」

 何か言いたげにロストは顔をしかめたが、結局大きく溜め息を吐いただけで言葉を呑みこんだ。

「後で、あの人を呼んでもらえないか。魔導師の」

「キロン様か? わかった。伝えておく。とは言っても今日は忙しいらしいから、面会できるとしても明日以降になるぞ」

「わかった、それでかまわない」

 承知した、と聞こえ、気配が遠ざかる。

 扉が閉まる音が耳に届いた。

 喉に何かが詰まったような気分で、起き上がる気にもなれず、ロストはぐたりとベッドに横になっていた。

「あのさ」

 しばらく黙っていたジュリウスが、不意に口を開いた。

 どこか機嫌の悪そうな、苛立った、刺々しい声音は、ジュリウスには珍しいものだった。

「ジュリー?」

「辛い、くらいは言ってもいいと思うんだけど」

 珍しく――ジュリウスは怒っているようだった。

 こちらに背を向けて、ベッドにもたれるように座っているので、ジュリウスがどんな表情をしているか、ロストにはわからない。

「俺が……選んだ、ことだ」

 ずいぶん間を置いて、ロストが低いかすれ声で言葉を吐き出した。

「そんなの知ったことか! 知り合いでも何でも悪魔と契約したなら撃たなきゃいけなくて、それを辛いとも言えないわけないだろ!」

 きり、とロストの歯が鳴った。顎が痛んだ。

「それは子供の癇癪かんしゃくだ、ジュリウス」

 しいて口調を落ち着かせ、きっぱりと言い切る。

「こんな場合もあると――知人や恩人、ことによったら身内すら、悪魔と契約したことが明らかになったら撃たなけりゃいけないと――わかって〈狩人〉になったんだ。それで今更、泣き言など言えるものか」

「だったら一生何にも言うな!」

 涙声で吐き捨て、ジュリウスが部屋を飛び出していく。

 ロストは頭をめぐらせて、壁のほうを向き、目を閉じた。

 何があったか思い出した。ゆえに、辛い。

 だが、どれほど辛くとも、この道を選んだのは自分だ。不平など、言えるわけがない。――言ってはならない。

 こんなだから強情だとか意地っぱりだとか散々に言われるのだ。自覚はしている。

 それでも――弱音は吐けない。ひと言でもこぼしたらきっと、自分の中の何かが崩れて戻らなくなる。

(一生何も言うな、か)

 そのほうが、よかったのかもしれない。〈狩人〉など目指さずに、人形のように、一日中部屋で座ってすごしていたほうが――。

 頭をふる。

 今はあまりものを考えないほうがいい。

 よく考えれば、ロストが投獄のうえ私刑にあったのは数日前のことなのだ。怪我こそ治ったとはいえ、まだ疲れているに決まっている。そんなときにものを考えたところで、ろくな結果にならない。

 そうとわかっていても、ふつふつと暗い考えが浮かんでくる。

 もう一度頭をふって、ロストはしばらく意識を手放すことにした。



 小さな泣き声が聞こえた気がして、ジョンはきょろきょろと周囲を見回した。

 中庭に設えられたベンチに少年が座り、その傍で見覚えのある侍女がおろおろしている。

「リーエさん。何かあったんですか?」

「ジョン様。いえ、その、私もよくわからなくて。怪我とかじゃないみたいなんですけれど」

「僕が引き取りますよ。リーエさん、忙しいでしょう?」

 リーエは一瞬ためらったが、ジョンに頭を下げて去っていった。

「何か、あった?」

 少年――ジュリウスはまだぐすぐすと鼻をすすっていた。口を尖らせながらぶつぶつと発する文句を聞くかぎり、ロストとの間で何かあったらしい。

「あいつはいつだって意地をはるんだ。いくら役目だからって、小さいころから知ってる相手を撃って、辛くないわけないのに」

 強情なんだ、昔から、と、ジュリウスが口をへの字に曲げる。

 確かにロストは強情そうだ、とジョンは一人胸のうちで納得した。

「自分が選んだことだから、弱音なんか吐けないって――そんなら誰にも、何にも言えないじゃないか!」

 ジュリウスはぷりぷりしていたが、ジョンにはロストの気持ちはわかるような気がした。

「たぶん……それを言ったらおしまいだと、そう思ってるんじゃないのかな」

 昔の自分にも、そういうところはあったのだ。

 弱音を吐けば、そこで止まってしまう。先へ進めなくなってしまう、と思っていた時期はあった。

 実際にはそんなことはなかったし、むしろ精神的にも楽になったのだが。

「おしまいって、なんでさ」

「ううん……本人に聞かなきゃわからないことだから、言い切ることはできないけど……もしロストさんが、弱音を吐いたらそこで止まって、立ちいかなくなるとか、そう考えてるなら、なかなか弱音は吐けないと思うよ」

 ジュリウスはまだ不満げに唇を突き出している。泣き止んではいたが、顔には不満の色がありありとうかがえた。

 おそらく、意地っぱりはお互い様なのだろう。

 そう思ったジョンの内心を読み取ったように、ジュリウスは、あいつは強情なんだ、とまたくりかえした。

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