第20話 捉えた影
ゆっくりと、意識が浮上する。
(久しぶりに、夢を見たな)
夢など、めったに見ることはないというのに。
目を開け、上体を起こす。一瞬視界が歪み、すぐに治まった。
ネミッサはアゾール宮の離宮の自室、ベッドの上にいた。
傍ではジョンが、不安げな顔で座っていた。
「主、具合はどうですか?」
「大事ない、と言いたいところだが……さすがにまだきついな。しかし……ジョン、まさかずっとそこにいたのか? 心配をかけたな」
「いえ。主、もうしばらく、せめて今日一日は休んでいてください。あれからまだひと晩しか経っていないんですから」
「ああ、そうするよ」
息を吐き、起こしていた身体を横たえる。
反動を受けた直後ほどではないが、まだ鈍い頭痛は残っている。その上、身体を起こしていたのはごく短い間だけだったというのに、ネミッサはすでにひどい疲れに襲われていた。
横になったネミッサが目を閉じ、まもなく眠りこんだのを確かめて、ジョンは安堵した様子で息を吐いた。
ネミッサが何かを見て――ネミッサ曰く、記憶を見て――、その反動を受けて倒れることは、これがはじめてではない。
倒れたとしても命に関わることはないと、ネミッサからは以前に言われていたが、それでも今回のように吐血するほどの反動に襲われることは稀だった。
軽いノックの音。
「ジョン、ネミッサ卿の具合はいかがですか?」
「さきほど目を覚まされましたが、まだ辛い、と」
「そうですか。少し見せていただいても?」
「はい」
入ってきたキロンがネミッサの脈をはかり、小さく呪文を唱える。
「大丈夫そうですね」
キロンがほっと息を吐く。
「あなたも少しお休みなさい」
「そうします」
ジョンがうなずく。安堵したことでどっと疲労が襲ってきたらしく、足元がおぼつかなくなった彼に、キロンは部屋まで送りますよ、と申し出た。
「ありがとうございます」
普段なら固辞するジョンだが、このときは素直にそれを受けた。
昏々と眠っていたネミッサが目を覚ましたのは、翌日の昼すぎだった。
まだ血色が悪く、いつにもまして人形じみて見えるネミッサに、様子を見に来たジョンが不安げな目をむける。
「もう大丈夫だ」
ネミッサの朱唇が、ゆるやかな弧を描く。
「遅くなってしまったが、キロン様に報告に行かなければな」
さっと立ちあがったネミッサは、まばたきするほどの時間であっという間に服を着替え――おそらく自身の異能を使ったのだろう――、扉を開いて足を止めた。
「卿、具合はもうよろしいのですか?」
「ええ、ちょうど、報告にうかがおうとしていたところです。お時間をいただいても?」
「もちろんです」
薔薇屋敷の近くの空き地と、ネミッサがそこで見たものの話を聞かされて、キロンは明らかにその顔をけわしくさせた。
「卿、それは、確かなのですか?」
「ミラダン・バーセルが偽者、という話ですか? ええ、間違いなく。彼は見届けていなかったかもしれませんが、私はしっかりと見届けましたので」
「それも気になるのですが、その、岩に描かれていたのが召喚陣だというのは確かなのですか?」
「断言はしかねます。御存知の通り、私は魔術には疎いので」
「どういうものだったか、描いていただくことはできますか?」
ネミッサが手近な紙に、記憶を辿って自分が見た魔法陣を描くと、キロンは腕を組んで小さく唸った。
「……三期ごろの召喚陣に似ていますね。しかし、そんなところに召喚陣があるという記録はなかったと思いますが……」
「“休眠中、あるいは魔力が失われた召喚陣”に該当するのではありませんか。確か、その条件に該当する魔法陣は、届け出る義務はなかったはずでしょう」
「あ、そうですね。やはり一度、徹底的に調べなくてはなりませんね。陛下とも相談しなければ……」
「そのあたりはお任せします。私が口を出すことではありませんので。ところでキロン様、これが召喚陣だとしたら、例の庭師、この召喚陣から召喚された可能性はありませんか。……いえ、さすがに難しいですか。召喚陣を再起動させるのは、そう簡単なことではないはず、でしたよね」
「そうですね。ただ、ミラダンが刺されたというのは気になります。一定以上の血を使えば、召喚陣は再起動させられるのですよ。それこそ三期ごろか……第四期のはじめごろまでに書かれたものは。ですから、可能性はありますね」
「ちなみに、庭師の記憶を戻すことは?」
「不可能とは言いませんが、薬を作るにしても時間がかかりますし、強引に記憶を戻した場合、精神的な負担がかなり大きくなるので……得策とは言えませんね」
「なるほど。できることをやっていくほかないというわけですか。それならそれで、やりようはあります」
ネミッサの黒い目が、きらりと光った。
「主、あの、何をされるおつもりですか?」
「安心しろ、無茶はしないさ。まず相手を知ること、という友人の忠告に従おうと思ってな。あの庭師のことをこちらがほとんど知らないのは事実なのだし」
「それは、そうですが」
まだ何か言いたげなジョンを見、ネミッサが口元に微苦笑をのぼらせた。
「さすがにあんなことは当分できないさ。それに人間といい関係を築きたいなら、記憶など見るべきではないし」
「卿は生きている人間の記憶も見ることができるのですか? 死霊の記憶は見られる、とは以前うかがいましたが」
キロンが興味津々と言わんばかりに身を乗り出す。
「生死を問わず、種族を問わず、こちらの言葉が理解できる程度の知能がある相手なら、見られますよ。死霊の記憶を見るときほどではありませんが反動は受けますし、下手をするともめごとの種になるので、よほどのことがなければそんなことはしませんが。もっとも、あくまで光景が見えるだけで、音が聞こえるわけでも感覚が共有されるわけでもないので、見た光景の解釈は自分でするしかないのと、特に死霊の場合は、かなり大きな反動を受けることになるのが玉に瑕ですが」
「それもまた、あなたの才のひとつ、ということですか?」
「才、というより、私の役割ゆえの能力、というべきでしょうかね。見ること、見届けること、見守ることが私の役割ですので」
「なるほど。ああ、つい脱線してしまいましたが、卿。カナーリスの警備隊長が偽者、というのは事実なのですね」
それまでの語調とは異なる、静かな、真剣な問いに、ネミッサは事実です、ときっぱり答えた。
「今の彼は――私の捜し人ですよ」
漆黒の瞳の奥で、激情が一瞬大きく燃えあがる。
ミラダンを刺した何者かを、ネミッサは見届けていた。
仇敵・マリスヴィルの腹心の一人、ワレン。その部下であり、他人に成り代わることを得意とする男。通称を“顔無”。
「彼は私と同時期にこちらに来たはずですから、およそ三年ほど、ミラダン・バーセルとしてカナーリスで暮らしていることになりますね」
「三年!? 三年も、ですか!?」
「奴は相手の思考も行動も、何もかもを模倣するのですよ。よほど親しい相手でも、はたして見抜けるかどうか。とはいえ詰めの甘いところがある奴ですから、違和感に気付いている者もいるかもしれませんね」
「卿はなぜ気付かれたのですか?」
「彼は私のことを“鴉の騎士”と呼んだのですよ。確かにそれは、故郷で私を示す呼び方ではありますが、私はこちらでは一度も、その呼称を口に出したことはありません。ジョンか、マリスの手下でなければ知るはずのない呼称です。つまり、ミラダン・バーセルがこの呼称を知っているはずがないのです。カナーリスに行くまで、私はこの王宮から出たことはありませんから、当然ミラダンとの接点はありません。もちろん、ジョンもそれは同様です。それでもなお私を“鴉の騎士”と呼べるのは、マリスの手下以外にいませんよ」
「それで、卿はすぐにでもカナーリスに行かれるおつもりですか?」
「いえ。今は私より、あの庭師のことが優先でしょう。それに相手が町の警備隊長とあっては、もう少し外堀を埋めなければ、こちらの立場が危うくなりかねないですからね」
「とはいえ、召喚陣が絡んでいる可能性があるのなら、なるべく早く調べなくてはなりませんね。卿、そのときには案内をお願いできますか?」
「承知しました」
ご自愛くださいね、と言い残して、キロンは部屋を出ていった。
「しかし、感覚が鋭いというのも良し悪しだな」
「まだ、具合が悪いのですか?」
「少しな。どうも反動だけでなく、いくらか魔力にあてられもしたらしい。かなり複雑な隠蔽の魔術がかけられていたようだし」
「魔法陣を隠すため、でしょうか」
「陣か死体か、その両方か……、直接問いただせば話は早いが、今はあの庭師だな」
近いうちに訪ねてみるか、とネミッサは言葉を足した。
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