第二部
第13話 すれ違い
昼前、ロストが庭で草取りをしていたときのことだった。
(何だ?)
不意に、左胸に刻まれた契約印がずきりと痛んだ。
イスディスから力を借りたときに、いつも感じる疼痛。それを感じたと思ったとたん、
「ぐ……」
草取りに使っていたねじり鎌が、手から滑り落ちる。
きつく歯を食いしばり、顔を歪めて胸を押さえ、膝から土の上にくずおれる。
「う……」
殺しきれなかった呻き声がこぼれる。
脳裏をよぎる、いくつかの情景。
大粒の雨が降りしきるなか、低い視点から見下ろされる小さな石。
花が手向けられたそれが何なのか、察することはたやすかった。
(墓、か?)
名前も何もない、墓標だけの墓。
(いったい、誰の――)
疑問と困惑を断つように、胸の痛みがいっそう強まる。
「ぐ……」
息が詰まる。
身を引き裂かれるような悲哀と、身を焼き焦がされる憎悪。
どっと押し寄せてきた感情が処理しきれない。
耳の奥で、歌が聞こえる。
確かに聞いた覚えのある、ひどく軋んだ声の歌。幾重にも重なる不協和音。
歌声の合間に、鈴の音が聞こえる。
(頭が、割れる……!)
もはや声も出ず、ひゅ、と喉からか細い息の音が鳴った。
不協和音が大きくなる。
耐えきれない、と思ったのを最後に、ふつりとロストの意識は途切れた。
冷たいものが額に触れる。
その感触で、ロストはようやく正気を取り戻した。
二、三度まばたいて、視界のもやを晴らす。
倒れている間に運ばれたのだろう。ロストは寝起きしている小屋のベッドに寝かされていた。
「ご気分はいかがですか? 庭で倒れておられたのですよ」
ベッドの傍に座っていた人影が、気遣わしげに声をかける。
濃藍のローブをまとい、フードを深くおろした人影――魔導師のキロンである。
「気分は……あまり」
いっときよりもいくらかましにはなったものの、頭はまだ痛み、左胸にもうずきが残っている。
くわえてひどく気分が悪い。
「お水はいかがですか」
「いただきます」
しわがれ声。声を出すと、喉がひりひりと痛んだ。
ゆっくりと身体を起こしてコップを受け取り、少しずつ水を口に含む。
喉に触れる、ひやりとした水は心地よかった。
「今、お医者を呼びに人をやっていますから、横になっていてくださいね」
医者と聞いて、ロストは今から良薬を飲まされたような顔になった。
もっとも、まともに動ける体調でないことはよくわかっている。
「だ、大丈夫……?」
キロンの後ろから、少年が不安げな顔をのぞかせる。
その顔を見て、ロストの心臓が妙な具合に跳ねた。
「お、まえ――」
力の抜けた手からコップが落ち、砕けて半分ほど残っていた水をまき散らす。
しかしロストには、その音も聞こえていなかった。
今にもわっと泣き出しそうなのを、必死にこらえているらしい少年の顔は、ロストが幼いころ、親友がたびたび見せたものと同じだった。
――死ね。
耳の奥に響く声。
ずきりと頭が痛んだ。
――なぜお前は生きている! さあ、ここで死んで、あの子に詫びろ!
暗い洞窟。弱い明かり。反響する怒声。
老年の男がこちらに銃を向ける。
「だ、大丈夫ですか!?」
キロンの声に、はたと我にかえる。じっとりと、脂汗が浮いていた。
そこへ、濃い栗色の髪を乱した青年が、町の医者・キースをつれてきた。
診察の間外で待っているように言われ、三人は小屋の外に出た。
青年――ジョンは不安げな色を浮かべ、少年はきつく唇を噛んで、キロンはそんな少年をじっと見つめている。
「大丈夫でしょうか」
「おそらくは大丈夫だと思いますが……何があったのです? 君は事情を知っているのでしょう?」
少年に向けられたキロンの言葉はひどく冷たく、これまで見たことのないキロンの様子に、ジョンが目を見張って魔導師を見た。
「キロン様?」
フードで隠れていてもわかる、氷の視線。
ぐいと目元を拭った少年は、それを正面から受け止めた。
今度こそ、ロストを助けると決めたのだ。
彼を守って、必ず帰す、と。
そのためなら、誰が相手でも、怖気づいてなどいられない。
生きていたころは、泣き虫、と陰で言われていた。
だが今はもう、泣いてはいられない。
「“僕”はあいつを守りたいんだ。“僕”みたいに、死なないように」
赤い瞳がきらきらと光ってキロンを見返す。
キロンは珍しく、少しの間、気圧されたように黙っていた。
「君は――死霊、なのですか」
「わかんない。そういうの、よく知らないもの。でも、あいつを守りたいのはほんとだよ」
「君は、何者ですか」
少年が答える前に、診察が終わったとキースが知らせてきた。
「いかがでしたか?」
「過労だね。数日は安静にして、無理は禁物。それと、これからはきちんと定期検診に来ること」
穏やかに、しかししっかりと釘を刺され、ロストは不承不承、それにうなずいた。
「無理をしていたわけじゃなかった……はずなんだけどな」
「自分ではなかなか気付かないものだよ。君の医者嫌いは知っているけれどね、やっぱり定期的に来てもらわないと」
「気を付けるよ」
明日また診に来ると言って、キースが帰っていく。彼と入れ違いに、ロストに花を頼んでいたクロードが小屋を訪れた。
「近くまで来たから、ついでに花を受け取って帰ろうと思ったんだが、具合でも悪いのか?」
「ちょっとな。ああ、花の準備はできてるよ」
立ちかけたロストをジョンが止め、花束を持ってくる。
自分が届けます、とジョンが出ていくのを見送って、ロストは再び横になった。
すぐに、静かな寝息が聞こえてくる。
ベッドの脇にちょこんと座って、じっとロストを見守っている少年の目は優しい。それを見てとって、キロンは内心驚いていた。
この少年が人の姿をとりながらも、人でないモノだということは、初見で気付いていた。おそらくは、自分たち魔術師が“悪魔”と呼ぶ類のモノであることも、少年の気配で察した。
しかし悪魔と断じるには、少年は人に近しかった。
(さて、これはいったいどういうことなのでしょうね)
興味と警戒心がわく。
扉を叩く音。
キロンが扉を開けると、いつもながらの無表情でネミッサが立っていた。
「卿、何かありましたか?」
「明日の正餐会について、グローゼン氏が相談したいことがあるそうです。お戻りいただけますか」
「ジョンが戻ってきてからでもかまいませんか? 今ここを離れるのは心配なのです」
「ジョンはどこへ?」
キロンから話を聞いて、ネミッサは大丈夫でしょう、と答えた。
「一、二を争うような口ぶりではありませんでしたから、多少遅くなっても大丈夫でしょう。それに事情が事情ですし、ジョンモそう遅くはならないでしょう」
話を聞きながら、少年はじっと考えこんでいた。
もし今、すべての事情を話したなら、手を貸してもらえるだろうか。
(いや……信じてもらえない、よね)
話があまりにも荒唐無稽というばかりではない。ネミッサはどうだかわからないが、キロンのような魔術師は、自分のようなモノの言うことなど信じないのが常なのだ。
伝えたところで一蹴されるだけだろう。自分の言葉をあっさり信じるロストのほうが、こちらからすれば変わっているのだ。
イスディスには、やると言った。その決意は変わっていない。だが、状況はいいとは言えない。
(どうしよう……)
うつむいて、唇を噛む。
ぽん、と頭に手が乗った。
驚いて顔をあげると、ロストが目を覚ましていた。
「そんな顔をするな。俺は大丈夫だよ」
「自分の顔見てみなよ。そんなこと言えないから」
横になったまま、ロストが弱々しく苦笑する。
それを見て、イスディスの背筋がぞっと寒くなった。
ロストが最期に見せた笑みと今の微苦笑は、あまりにもよく似ていた。
「アス――」
言いかけた瞬間、ロストが冷ややかに少年を睨む。
それ以上言うな、とその目は告げていた。
そこへ、花を届けたジョンが駆け足で戻ってきた。
ネミッサがいるとは当然思ってもみなかったジョンは、彼女の姿を見てぎょっとしたらしい。
注意がそれたすきに、少年はすばやく目元を拭った。
「キロン様、そろそろ」
「わかりました」
ネミッサの呼びかけに、キロンが立ちあがる。
ジョンが小屋に残ると申し出たのはこのときだった。
迷惑をかけるからと、一度は固辞したロストだったが、キロンやネミッサにも勧められ、結局、その申し出を受け入れた。
「だが、本当にいいのか? 今日は町でコンサートもあるのに……」
「気にしないでください。なにか、食べられそうなものはありますか?」
「そうだな、何か……軽いものなら食べられそうだ。それにしても、お前さん、嘘が下手だな」
「え……?」
ぎくりと顔をこわばらせたジョンに、キロンが小首をかしげる。その傍で、ネミッサは二人を注視していた。
「別に、嘘なんかついていませんよ」
ジョンがどうにか顔つきを和らげる。
「そうか? 何かわけがなけりゃ、見ず知らずの人間に、ここまで親身にならないと思うんだがな」
ロストの緑がかった黒い目に、ちらりと警戒の色がうかがえた。
ジョンが横目でネミッサを見る。
ネミッサが小さくうなずいてみせると、ジョンはまっすぐにロストを見返して口を開いた。
「あなたが、自分たちが追っている人物の一人と関係があるのではないかと思っています」
「追っている、人物?」
ジョンの言葉は、ロストにとっては予想外だったらしい。
「ヴィエトル・グランヴィル。この名前に心当たりはないか?」
「知らないな」
ロストが即座に首を横にふる。
「こいつは、あんたたちの探し人とは関係ないよ」
少年が口を挟む。ネミッサが少年に視線をむけて柳眉を寄せた。
「そうか。しかし子供と二人では何かあったとき困るだろうし、安静にしていなければならないのなら、今夜くらいは人がいてもいいだろう」
「……そうだな」
「私はグローゼン氏のお屋敷にいますから、何かあったら呼んでくださいね」
「私も町に戻る。明日また様子を見に来る」
「わかりました」
キロンとネミッサが小屋を出ていく、その足音が聞こえなくなってから、
「すみませんでした」
ジョンが頭を下げた。
「うん? ああ、いや、気にしないでくれ。俺も変に疑って悪かった」
「いえ……あ、台所、お借りしますね」
少年に食材と道具の場所を訊ねながら、ジョンが台所に立つ。
ロストは再び横になり、まもなく静かな寝息を立てはじめた。
かりかりと扉をひっかく音。
あ、と何かに思いいたった少年が、急いで扉を開けた。金の毛並みの大きな犬が、小屋の中に入ってくる。
眠っているロストの腕を、犬が鼻面でちょんちょんとつつく。
「よせよ、ジュリー。ロストは休んでるんだ」
声をひそめ、少年がジュリーをひっぱる。ジュリーは不満げではあったが、いつものように吠えたり唸ったり抗ったりせず、大人しく自分の寝床へ行って丸くなった。
しばらくして、ジョンが日にかけていた鍋の中から、ふわりといい匂いがただよいはじめた。
眠っていたロストが、低い、苦しげな声をあげる。
少年に揺り起こされ、ロストは目を開けた。額に浮いた汗を手荒く拭い、ゆっくりと上体を起こす。
「大丈夫ですか?」
「ああ、いつものことだよ」
「スープ、できてますけど、食べられそうですか?」
「もらうよ」
頭痛と左胸の疼痛はまだ残っている。とはいっても、その痛みはだいぶ和らいでいた。
(しかし、一体何が……)
イスディスに力を借りたときに、左胸の契約印が痛むことはある。だがここまで痛みが続くことは、普段はない。
「口にあうといいんですが」
黄金色の澄んだスープに、煮こまれた野菜が入っている。
「美味いよ」
「よかった。料理は昔、主に習いはしたんですけれど、あまり作る機会はなかったので。具合はいかがですか?」
「だいぶ、ましにはなってるんだが……どうもまだ本調子とは言えないな。悪いがもう少し休ませてもらうよ」
扉を叩く音が、来客を告げる。
「ロスト、俺だ。いるか?」
「なんだ、イザクか。どうした?」
「どうした、はこっちの台詞だよ。具合でも悪いのか?」
「ちょっとな」
「まったく、無理をするなよ。良くなったらまた飲みにいこうぜ」
「ああ、また誘ってくれ。楽しみにしておくよ」
それじゃ、とイザクが帰っていく。
「やれやれ、そんなに無理してるように見えるのかね」
「少なくとも、顔色はまだ悪いですよ」
「そうか」
笑いながら、ロストが肩をすくめた。
その日の深夜、そろそろ日付も変わろうかというころ、ロストは喉の渇きを覚えて目を覚ました。
台所で水を飲み、ベッドに腰かけて耳をすませる。
隣の小部屋で寝ているはずのジョンが起きたような気配はない。
「イスディス」
低い声で呼ぶ。
軽い足音とともに、少年がロストの前に立った。
窓からさしこむ月光が唯一の光源となっている室内でも、自分を見つめる赤い瞳ははっきりと見てとれた。
赤い目には、気遣わしげな色が浮いている。
「なに? 寝てなきゃいけないんだろ」
「それはそうなんだがな。聞きたいことがある。イスディス、お前、何をした?」
「な、んで、そう、思うんだ?」
きっと少年がロストを睨むように見据える。ロストも黙ってその視線を受けとめた。
「痛んだのが契約印だったからな。心臓が痛むんなら病気かと思うところだが、契約印ならお前が原因、だろう?」
「……知らないよ。早く休んだら?」
「ずいぶん俺を気遣うんだな。お前だって俺が早いとこくたばったほうが都合がいいんだろうに」
「そんなこと、ない!」
涙声の叫びに、ロストは呆気にとられて思わず目をしばたたいた。
「どうかしたんですか?」
ジョンが顔をのぞかせる。
「いや、なんでもないよ。気にしないでくれ」
首をかしげたものの、一応は納得したのか、ジョンは部屋にひっこんだ。
少年もぷいと顔を背け、外に出ていく。
ロストは静かに横になり、また痛みだした頭を枕に埋めた。
知らない、と言ったとき、少年が忙しなくまばたきしたのをロストは認めていた。
その動作は、親友が嘘をつくときの癖と同じものだった。
(いや、まさか。……偶然だ)
そう、自分に言い聞かせる。
無理にでも眠ろうと目を閉じたものの、ロストはなかなか寝つけなかった。
一方、小屋を出た少年は、廃墟の裏手へと歩いていった。
裸足の足が音もなく土を踏む。
ぺたりと座りこんだ少年は、ぽつりと呟いた。
「イスディス、あいつが倒れるってわかってた?」
――倒れるとまでは思わなかったよ。反動はあるはずだと思ってたけど。あの様子じゃ、あと二、三日は動くのは辛いだろうよ。でもそれくらいだ、死ぬようなことはないよ。ああ、それと、あの魔法使いには気を付けろよ。
「うん」
――なんだ、あいつが言ったこと、気にしてんの? あいつはお前に言ったつもりはないんだから、そんなに気にするなよ。
「でも、あんなこと言うやつじゃなかったのに」
ロストの自嘲癖は知っていた。しかしこれまでは、あれほどひどいものではなかった。
ぎゅ、と拳を握る。
ロストは
それでも、どうしても、彼を助けなければならない。
赤い瞳に、決意の炎が灯った。
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