第9話 かくして石は転がる

 火事の翌週、ネイの家をイザクが訪れた。

「ロストはどうしてる?」

「もう見てらんない。ほとんど口もきかないし、食事だってろくに食べないし……夕方までは部屋にいるから、ちょっと顔を見てってよ。上のとっつきの部屋だから」

「夕方まで?」

「うん、夕方になったら薔薇屋敷に行ってるみたい」

「そうか……とにかく、顔を見てくるよ」

 二階へあがり、手前の部屋の扉を叩く。

 まもなく、扉が少し開いた。

 イザクを認め、中に入れるようにとロストが身を引く。

「入っていいか?」

 ロストが小さくうなずく。

 ロストの顔は肉が削げ落ち、病人と見紛うほどやつれていた。

 しかし、イザクが内心ほっとしたことには、あの狂気じみた色は、今のロストには見られなかった。

「王都から来た騎士様が、警備兵に引っ張られたんだってな」

 ロストが持ち出したのは、火事の日の夜の話だったが、イザクは指摘せずに話をあわせた。

「ああ。もっとも、今は放免されたらしいがな」

 ジュリーの傍に落ちていた短剣は警備兵の手に渡り、聴取を受けたネミッサは、その短剣が紛れもなく自分のものであると認めた。しかし火事との関わり、そしてジュリーを殺したことは身に覚えがない、ときっぱり否定した。

 とはいえ、短剣の存在や、その日、森や薔薇屋敷でネミッサとジョンを見たというローンバートの証言があり、ネミッサの立場はいっとき、かなり悪くなっていた。

 もっとも、確かな証拠がない話だったこともあり、キロンのとりなしもあってネミッサは放免されたものの、当分町に留まることを余儀なくされていた。

 キロンだけは王都のアゾール宮に戻っていたが、ネミッサとジョン、そして衛士のうち二人はまだ、オリカの屋敷に残っていた。とはいえネミッサが外に出ることはなく、用があるときにはいつもジョンが外出していた。

「やましいことがないんだったら、自分が外に出ればいいのに」

 ネイがそう言っていたのを、ロストはようやくぼんやりと思い出した。

「率直に言って、誰の仕業だと思う?」

 低い、静かな問い。緑がかった黒い目は、暗くよどんでいた。

「いや……ちょっと、見当がつかないな」

 嘘だ。だが、いくら何でも、その人物がいくらロストを嫌っていると言っても、ここまでのことをするとは思えなかった。

 その内心を見抜いたかのように、ロストが凶猛な笑みを浮かべる。

 口元をぐいとつりあげた、目が全く笑っていない笑み。

 ぞくりとイザクの肌が総毛立つ。

 かろうじて、気圧されたことを表さないのがやっとだった。

「ロスト、夜にでもちょっと食事に行かないか?」

「……そう、だな。夜になったらまた声をかけてくれ。たぶん、戻っているだろうし」

 イザクが部屋を後にする。ロストはそれを見送るでもなく、座ったまま、ぼうっと壁を眺めていた。

 何も思わない。何も感じない。

 あの火事から何日経ったのか、それさえ認識できていない。

 夕方、窓からさしこむ光が茜色に変わるころ、ロストはゆっくりと立ちあがった。

 黒外套を羽織り、帽子を目深に被って、杖を手に部屋を出る。

 外に出たロストには、好奇と同情の混ざった視線が向けられる。しかし、ロストは周りに一切注意を向けず、森へと歩いていく。

 後ろから走ってきたローンバートが、追い抜きざま、ロストに突き当たりかけた。

 その寸前、半身になったロストがローンバートを避ける。

「危ねえな!」

 噛みつくように怒鳴ったローンバートを、ロストが冷ややかに睨む。

「お前こそ、前を見てはいないのか」

 言いかえされ、一瞬たじろいだローンバートがロストを睨みかえす。

「何だと? 誰に向かって――」

「お前だよ、ローンバート・ソーン!」

 ローンバートの言葉を封じるように、ロストが言葉を叩きつける。声を荒らげたロストに、周囲がざわついた。

 三年間、ロストは一度たりとも、人前で声を荒らげたことはなかった。

 つかみかかったローンバートの手首をつかみ、ぐいと捻る。

 折れないよう、しかし痛みは感じるよう、力を調整しながら。

「ここでやる気なら、相手になるぞ」

 ロストがあえて少し力を緩めた瞬間、ローンバートが腕をふりはらった。

 ロストはよろめきもせず、ローンバートは舌打ちをして走り去る。

 薔薇屋敷へ向かい、小屋に入る。一瞬、ジュリーの墓へ目をやって。

 小屋は台所と、予備のベッドがある部屋――かつては客が使ったものだろうか――が燃えただけで、そこ以外はほとんど焼けずに残っていた。

「イスディス」

「何だ?」

 陰から現れたイスディスが、ロストの横に立つ。

「契約したとき、お前は俺を守ると言ったな。だがもう、守らなくていい」

「悪いけど、それは聞けない。お前を守るのも、俺の役割だ」

「誰がそんなことを頼んだ?」

「言えないね。でも……お前を守っているのは俺の魔法だ。もし解きたいなら、その方法は、お前ならわかるだろ?」

「……そうか」

 戸棚から、銀の刻印が施された弾倉を取り、ポケットに入れる。

 そのとき、指先に触れたものがあった。

 何気なくそれをつまんで取り出す。

 鋼線を編んだ、花のような形の飾り釦。乾いて黒ずんだ血が、釦にこびりついている。

 呻くような笑い声が、ロストの口からこぼれ落ちた。

 雑貨の入った箱をかきまわし、ペンと紙を取り出したロストは、椅子を引き寄せてペンを動かしはじめた。

 手紙をしたためたロストは、再び箱を探って暦を取り出した。

 めくって日を数える。

「イスディス、これを例の騎士に渡してくれ」

「わかった」

 外に出たロストは、木片をいくつか拾い、適当な場所に等間隔に置いた。

 距離を取り、狙いを定め、引鉄を引く。

 放たれた弾丸は、あやまたず木片を撃ち抜いた。ひとつも外すことなく。

(腕に問題はない。勘も……充分取り戻せる)

 気付けばもう、森の中は明かりが必要なほど暗くなっていた。

 それでもロストにとっては慣れた道で、町に戻るのに不自由はない。

 町は、街灯もあって明るい。

 道端にはローンバートをいつも取り巻いている住民たちが何人かいたが、ロストを見るや絡んでくる彼らも、このときは誰も何も言ってこなかった。

 もっとも、言おうにも言えなかったのかもしれない。

 鬼気迫る蒼白の顔、目深に被った帽子の下で、陰になって漆黒に見える瞳が、異様な光を宿している。

「……おいおい、そんな血相変えてどうしたっていうんだよ?」

 それでも一人が、どうにか喧嘩をふっかけようとしたのだが、

「黙れ」

 氷のような目つきと声に気圧され、男がたじろいだその横を、ロストはすたすたと通り抜ける。

 その足取りは、平素のゆっくりとしたものではなく、早足だった。

「お帰りなさい」

 ネイの家に戻ると、彼女はほっとした様子でロストを迎えた。

「イザクが来なかったか?」

「ううん、まだ――」

 言いかけたとき、ちょうどイザクがロストを訪ねてきた。

 誘われて、町の酒場に向かう。

 イザクはエールを、ロストは水を頼む。

「飲まないのか?」

「飲む気にならん」

「……そうか」

 やがて運ばれてきた水に、ロストは口をつけようとしなかった。

「最近は、眠れているか?」

「いや……ずっと鈴の音が聞こえるんだ。鈴と……歌声が」

「病院へは行ったか?」

「いや、何、大丈夫だ。眠れなくても身体を休める方法くらいは知っている」

 弱々しく苦笑し、ロストはちびりと水をなめた。

「武術祭は、来月だったな」

 イザクが二人分頼んだ小腹満たし――肉団子のソースがけ――をひとつ摘み、水で流しこんだロストが思い出したように呟いた。

 武術祭。

 メルカタニト各地で行われる催しのひとつで、その呼び名のとおり武を競う。

 剣術、拳闘、射撃の三部門にわかれ、腕に覚えのあるものが技を競いあう。腕に自信がある者なら誰でも参加でき、当日の飛び入りさえ許される。

 カナーリスでは二年に一度、この催しが行われていた。

 ローンバートが剣術と射撃の部に出るという話は、町で噂になっている。

「ああ、月が変わってすぐだから……二週間先か」

「確か、飛び入りもできたよな」

「ああ。……出るのか?」

「さあな」

 口の端を歪めたロストの目に、暗い決意が揺れていた。



「主、手紙を言付かりました」

 同じ日の夕方、買い物から戻ってきたジョンが、ネミッサの部屋を訪れた。

 読んでいた本から目をあげ、栞紐を頁の間に挟んで、ネミッサは手紙を受け取った。

 白い封筒には、何も書かれていない。

「誰からだ?」

「子供が、主に渡してくれ、と」

「子供?」

 封を開く。

 白い紙に、整った字で文章が書かれていた。


 話したいことがある。

 明日の十八の刻、薔薇屋敷まで来てほしい。


 こちらにも、誰の名も書かれていない。

 このような手紙を送る相手の心当たりはないが、しかし、手紙の字には心当たりがあった。小屋に貼られていた張り紙と同じ筆跡だった。

 ジョンに手紙を渡し、読んでみろ、と促す。

 文面を見るなり、ジョンが眉間に深々としわを寄せた。

「どう思う?」

「罠ではないかと思います」

 即座の返答に、目を閉じて沈思する。

 薔薇屋敷に火を放った犯人も、ネミッサの短剣を盗み、ジュリーを殺した犯人も、まだ明らかになっていない。

「してやられたな」

 放免されたとき、一言そう呟いて、ネミッサはそれから外に出なかった。

 この状況で呼び出しに応じるのは、普段の彼女なら軽挙だと切って捨てている行動だ。

(だが……今は情報がいる)

 呼び出しに応じれば、少なくとも自分を呼び出した相手は知れる。

 それが誰であれ、こちらの情報源となりうるなら、今は向かわない手はない。

「ジョン、ユーインとレオに、明日は夕方から外出すると伝えてくれ。同行の必要はない、と」

「わかりました」

「それと、万一私に何かあれば、キロン様に連絡してメルへニアに戻れ。お前一人を飛ばす術なら元々準備はされている。どこに飛ぶかはわからないが、まあ妙な場所に出ることはないだろう。メルへニアに戻ったら、すぐに“叡智の館”に行け。ヴァルトハインなら、必ずお前に行く先を示すだろう。これを持っておけ」

 首にかけていた銀のアミュレットを渡され、ジョンが不安げにネミッサを見た。

「持っておけ、というのは違うか。預けておく」

「わかりました。明日、戻ったらお返しします」

「ああ。さて、何が出てくるか」

 きりりと口の端をあげたネミッサの顔は、不敵そのものだった。



 翌日、十八の刻より少し前に、ネミッサはジョンとともに薔薇屋敷へ赴いた。

 ジョンを門の前に残し、焦げた庭を進む。

 暗褐色のフード付きマントで顔を隠したネミッサの姿は、ほとんど闇にまぎれている。

 小屋の前が、ぼんやりと明るい。その傍に、立っている人影がある。

 夜目のきくネミッサですら、一瞬とらえることができなかった、闇に溶けこむ黒外套。黒い帽子に、その下から伸びる黒い髪。人影の足元に置かれた角灯が、周囲を少しだけ照らしている。

「手紙を出したのはお前か?」

 慎重に、間合いをはかって足を止める。

「そうだ」

「顔を見せてもらいたい」

 言いつつ、フードを脱ぐ。

 人影も帽子を取り、身をかがめて角灯を持ちあげた。

 ロストの青白い顔が、闇の中に浮かびあがった。

 ロストはじっとネミッサを見つめている。ネミッサもロストを注視しながら、周囲の気配をうかがっていた。

(他に気配はない、か)

「話があると聞いたが」

「そうだ」

 うなずいたロストは、右手に拳銃を握っている。ネミッサもさりげなく、腰の剣に手をかけた。

 どちらもどちらを容易に殺せる間合いである。

 ひりついた殺気が、空気を緊張させる。

「ジュリーを殺したのは、お前か?」

「違う」

「だろうな。あんたにはそんなことをする理由なんざないものな」

 溜め息とともに言葉を吐きだして、ロストはずるずると座りこんだ。

「大丈夫か?」

「ああ、問題、ない」

 言いつつロストは顔をしかめている。とうてい、大丈夫には見えなかった。

 ネミッサは懐を探り、いつも持ち歩いている薬入れから丸薬を取り出した。

「飲んでおけ。少しは楽になる。その様子では、ろくに眠っていないのだろう」

「悪い」

 丸薬を飲みくだし、ロストがのろのろと立ちあがる。

「話はこれだけか?」

「あと……これを見てもらいたくてな」

 左手でぎこちなくポケットを探り、ロストは血の付いた釦を取り出した。

「これに見覚えは?」

「ふむ……ソーンが着ていた服に、それに似たものが付いていたのを見た覚えがある。少し待っていてくれ」

 ジョンを呼び、釦を見せる。

 それを見たとたん、ジョンは何事か思い至ったらしく、大きく目を見開いた。

「何か心当たりがあるのか?」

「実は、あの火事の日、ソーンさんも来ていたんですけど、そのとき、服の釦がひとつなくなっていたんです」

 ほう、とロストが口元を緩める。

 その顔に、主従は揃って薄ら寒いものを覚えた。

「俺にだけ絡むんなら別に構わなかったが、こんなことをされて黙っていられるほど、俺はお人好しじゃない」

「……私にも責任があるな。手を打っておくべきだったか。すまない」

「いや……ここまでするとは誰も思わない。俺だって思わなかったさ。だが、あいつは一線を越えた」

「そうだな。これはどんな理由があってもやりすぎだ。その報いは受けるべきだ」

「……止めないんだな」

「そのつもりがあったならもう止めている。もっとも、無関係な人間が巻きこまれようがどうでもいいという腹づもりなら、さすがに止めるがな」

 ネミッサの手は、再び剣に添えられている。

「……そこまでは思っていない。だが、あんたに頼みたいことがある」

 ロストの頼みを聞いて、ネミッサはつかの間考えこんだ。

「無理だろうか」

「いや、どうとでもなるだろう。引き受けた」

「助かる」

 何かを決意した表情で、ロストは深く頭を下げた。



「主、止めなくてよかったのでしょうか」

 オリカの屋敷に戻ってから、ジョンがそうささやいた。

「止めたところで止まるまい。あの男はもう走り出してしまっている。おそらくは、目的をなしとげるまでは止まらないだろう。そして彼は、もはや自分のことはどうでもいいのだろうな」

「それならなおさら、止めるべきでは――」

「もう遅いよ」

 不意に、子供の声が二人の会話に割って入る。

 部屋の入り口、扉にもたれかかるように、褐色の肌をした黒髪の少年が立っていた。

 赤い目が、二人を見る。

「どこから?」

 警戒の色をにじませたジョンとは逆に、ネミッサは落ちついて少年を見た。

「お前、人ではないな」

 少年が小さくうなずく。

「何をしに来た?」

「別に。あいつを止めるのは無駄だって、忠告しておこうと思っただけだよ。さっき会ってたとき、そっちのお兄さんが止めたそうにしてたからさ」

「そうか。そうだろうな。あの男はもう止まらないだろう。私にできるのは見届けることだけだ。……それも役割ゆえ、か」

「なんだ、わかってんのか。それならいいけど」

 くるりと少年が踵を返し、部屋を出ていく。

 すぐにジョンが後を追ったが、少年の姿はもうどこにも見えなかった。

「放っておけ。少なくともマリスの手下ではないさ。あれを手下にはできないだろうよ」

「……主は本当に、見届けるだけのつもりなのですか」

「もう止められないだろうからな」

「……見るだけ、というのは、その……辛くは、ないのですか」

「その感覚がわからない。もとより私は見るのが役割。騎士でいるのは私にとって、それが最善手だったからだ。たとえメルへニアでなくても、役割に背くつもりはないし、別に辛いと思ったことはない。さて、ことがここまで大きくなったのだ。必ず奴らは尻尾を出す。今度こそ、叩くぞ」

 ネミッサの漆黒の目が、きらりと輝いた。

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