第8話 喪われたもの

 ばらばらと、雨粒が窓を叩く。

 普段より遅く目を覚ましたロストは身体を起こし、あちこちに走った痛みに顔をしかめた。

 雨音に混じって、風がひょうひょうと泣くような音を立てている。

 のろのろとベッドからおり、そろえておいた服を着る。

 冷たい水で顔を洗い、眠気をはらう。

 薄暗い部屋の中から、薄手のカーテン越しに外を見る。

 覆いをかけられたリエットの木の輪郭が見えた。覆いは夜中に自分がかぶせたのだ。熟した実が落ちないように。

(しかし、妙な夢を見たもんだ)

 口の端を歪め、苦笑いを浮かべる。

 自分がいるのはメルカタニトのカナーリスなどという町ではない。レピシヴァン西部の町・ファランにあるマトラン女子修道院。そこ以外のどこでもない。

 自分は八年前からここで働いている。身体が動くうちは、これからも働き続けるつもりだった。

 扉を叩く音。何度も、くりかえして。

「――、大丈夫? いつかみたいに風邪でもひいて、倒れちゃってるんじゃないでしょうね?」

 気遣わしげな女の声。料理番のメリッサだ。

 朝食の席にロストがいなければ、メリッサはいつもこうして食事を届けに来る。

 冷めてしまってもかまわないから台所の隅に置いておいてくれ、と言ったことはあるが、好きでやってるんだからいいの、とかえされた。

 自分のその態度が、メリッサにとっては悪手だと、ロストは気付かず、そして気付いたときには遅すぎた。

 そんな考えが頭をよぎり、ロストは訝しげに眉をひそめた。

 何が悪手だというのか。

 メリッサの行動は善意からのものだ。邪険にはねのけるようなものではない。

 ノックは続いている。今出るよ、と応え、ロストはドアノブに手をかけた。

 雨の中、朝食の入った籠を持ったメリッサが立っていた。傘もささずに、しとどに濡れて。

「傘はどうした?」

 棚からマッチを取り、暖炉に火を入れる。

「かさ? もってないわ」

 メリッサの声は平坦で、抑揚もない。

「持ってない、って、何言ってるんだ。持ってただろう?」

 ぽたり。

 水滴が落ちる。

 雨滴ならば透明のはずの滴は、赤い。

 はっとして、メリッサを見直す。

 なぜ、彼女が雨に濡れていると思っていたのか。

 メリッサの全身を濡らしているものは、雨ではない。

 ぽたり。

 また、赤い滴が、床に落ちる。

 その赤は、彼女の血の赤だ。



 荒く息を吐いて目を開ける。

 既に夜は開けていた。

 あたりを見回し、自分が薔薇屋敷の小屋に寝ていると思い出して、ロストは深い溜め息をついて立ちあがった。

 足元がふらつく。

 汗のせいで、シャツがぺたりと肌にはりついている。

 両肌を脱ぎ、胸の包帯を解いて、濡らしたタオルで汗を拭う。タオルの冷感が、否応なくロストの目を覚まさせた。

 ぼんやりと夢を思い出す。内容はほとんど覚えていなかったが、夢に出てきた彼女はまだ、記憶の中にとどまっていた。

(……メリッサ)

 彼を気にかけ、何かと世話を焼いてくれた女性。それゆえにロストを誑かすと謗られ、無実の罪で、裁かれた。

 ロスト自身、彼女を嫌っていたわけではなかった。

 だからこそ、彼女の最期は傷になっている。

 自分が下した決断こそ後悔せずとも、彼女が陥れられたことに気付けなかったことを、彼は今も悔いていた。

 気付くべき、だったのだ。厳しい規則と戒律で縛られる修道院では、彼女のふるまいは快く思われるものではない、と。

 やり場のない苛立ちを一度だけベッドにぶつける。鈍い音が返ってきた。

 昨夜の残りで簡単に朝食をすませ、黒外套に袖をとおす。内懐の重さと、そこにある拳銃を確かめてから。

 杖を手に、黒帽子を目深に被り、屋敷を出る。

 ジュリーが外に出ないよう、門扉を閉めて町へと歩いていく。

 杖先と、金属の義足がそれぞれ地面を叩く。

 空気は冷たく乾いているが、天気はいい。徒歩の身にはありがたい陽気だ。雨でも降っていようものなら、身体が痛んで動くのが辛くなる。

 夢見こそ悪かったが、ロストの機嫌はよかった。目深に被った帽子の下で、無意識に鼻歌を歌うほど。

 歩く彼を、魔動車が追い抜いていく。

 まきあげられた砂埃に少し咳きこみながら、ゆっくりと歩みを進める。

 秋薔薇の時期ももう終わり、そろそろ冬になる。

(冬の花は、何があったかな)

 スノードロップの株はあったはずだが、他には何があっただろうか。

(ノースポールと、サイネリアもあったな。西側が寂しいから、少し植え替えようか)

 そんなことを考えながら、道を歩いていく。



 同じころ、復調したネミッサは、ジョンをつれて森を歩いていた。

「庭師がどうしているか、見に行ってみるか」

 薔薇屋敷の門は閉まっていたが、ネミッサが門に手をかけると、鉄の門扉は軋みながら開いた。

(まだ起きていないのか?)

 そう思ったが、門の鍵は開いている。

(鍵を開けるなら、門扉も開けそうなものだが……)

 内心訝しみつつ、門をくぐる。

 庭師の小屋には鍵がかかっており、扉には、

『外出中。御用の方は後日お出でください』

 と、かっちりした字で書かれた紙が貼られていた。

「留守か」

「そのようですね。戻りましょうか」

 庭師の小屋を後にして、庭の小道を戻る。その途中、ジョンが何かを見つけて足を止めた。

「どうした?」

「前からあったのかもしれないのですが……あれ、何でしょうか」

 ジョンが指さす先を目で辿る。

 花壇のところどころに、白墨で何やら印が描かれていた。

「魔法陣にも見えるな。前は見かけなかったと思うが……何かのまじないか?」

「あれほど魔法使いを嫌っていた彼が、まじないなど使うでしょうか?」

 それもそうだな、と頷く。

 屋敷を出て、あの空き地へと向かう。

 今日のネミッサはあらかじめ、キロンから周囲の魔力を吸収する呪符をもらっている。

 この間のように、あてられることはないだろう。

「確かこのあたり……あ、ここですね」

 ジョンの先導で道を進む。

 やがて、あの空き地が見えてきた。

「主、大丈夫ですか?」

「ああ。しかし、やはりこの場所は妙な感じがするな……はっきりと指摘できないのがもどかしいが」

「自分は何も思いませんが……」

「おそらくそれが正常……というか、普通は何も感じない場所だろう、と思う。知っているだろうが、私は自然に親しいモノだからな」

 ジョンが空き地に踏みこみ、どこかおかしなところはないかと調べる。

「……っと」

 不意に、ジョンが何かにつまずいた。

「石でもあったか?」

「いえ、なにもないのですが……」

 不審そうに、ジョンは足元を見つめている。

 そこには何もない。草が揺れているだけだ。

「魔力が溜まっているそうだから、気付かないうちにあてられたのじゃないか。そろそろ戻って休むか。私のほうも、あまり長居はできないからな」

「はい」

 帰路、二人は同時に異変に気が付いた。

「何か燃えていないか?」

「焦げ臭いですね」

 煙の臭い。

 ざわりと、ネミッサの胸のうちで、嫌な予感が膨らむ。

「急ぐぞ」

「はい!」

 臭いのするほうへ、ネミッサは急いで走り出した。



 家を出てから一時間ほど歩いて、ロストはフェリエールの町についた。

 町のあちこちから、鍛冶の音が聞こえてくる。

 いつ来ても、この街は活気であふれている。

 どちらかといえば、静かなほうを好むロストだが、にぎやかなのも嫌いではない。

 馴染みの技師・ハルヴィンのもとへ向かい、手足の義肢の調整を頼む。

 その間、ロストは椅子に腰かけて、ぼんやりと、とりとめのないことを考えていた。

「お待たせ、終わったよ。特に問題はなし、だ」

 ハルヴィンに礼を言い、慣れた手つきで義肢をつける。

「具合はどうだ?」

「うん、問題ない」

 代金を払い、ハルヴィンの工房を出る。

(腹が減ったな)

 街角の時計を見れば、針が示す時刻は正午をすぎていた。

 街中にはあちこちに、軽食を売る屋台が出ている。

 鍛冶屋の見習いたちだろうか、若者たちが列を作っている。

 ロストも近くの屋台に並び、サンドイッチをふたつ買った。

 きめの荒いパンに、分厚く焼いた卵焼きを挟んだものと、薄く切った玉ねぎとレタス、厚く切った牛肉を挟んだもの。

 牛肉は表面がこんがりと炙られ、ぴりりと辛いたれがかかっている。

 この町には鍛冶屋も多いが、鉱山で働く鉱夫も多い。そのためか、こうした味の濃いものも好まれているようだ。

 広場のベンチに腰かけ、サンドイッチをかじる。

 どちらも濃い目に、しっかりと味付けがされているのは、力仕事をする人間の口に入ることを考えられているのだろう。

(美味いな)

 ぞくり、と。

 不意に、凍りついた手に撫でられたように、背筋が寒くなった。

 その感覚は瞬間的だったが強烈で、ロストは危うく飲みこみかけたサンドイッチを喉につまらせそうになった。

 心臓が、異様な速度で鳴っている。

(何だ……?)

 服の下で、肌が粟立っているのがわかった。

 反射的に、周囲を探る。

 警戒する必要はないはずだ。故郷であればともかく、ここには自分の過去に関わる者はいない。自分を恨む者もいない。

 少なくとも、命を狙われる心配はしなくていいはずだ。

 頭はそう理屈を述べたてている。しかしロストの直感は、否、と言い切っていた。

 何かが起きている。そして、それは自分に関わることだ。

 そのことだけは、はっきりと確信していた。

 急いでサンドイッチを食べてしまうと、ロストは急ぎ足に広場を後にした。

 馴染みの銃砲店で弾薬を買い足し、ろくに口も聞かずに店を出る。

 胸騒ぎがおさまらない。嫌な予感が消えない。

 帰路、ロストは自身の信条と習慣を曲げて、やってきた乗合の魔動車に飛び乗った。

 もし何かあったとき、少なくとも、帰りが遅くなったことを後悔しなくていいように。

 窓の外をすぎていく景色には目もくれず、ロストは無意識に手を組みあわせていた。普段は無宗教とも言える態度であるにも関わらず。

 やがて、車はカナーリスについた。

 車を降り、急いで森へ走る。

「ロスト! 屋敷が家事だ!」

 走ってきたヒューが、ロストを見つけて声を張りあげる。

「馬鹿な! 今日は火なんか使ってないぞ!」

 怒鳴りかえし、屋敷へ急ぐ。

 空気に混じる焦げ臭さが、ヒューの言葉が嘘ではないことを証明している。

 しかし、誓って、ロストは昨日寝る前に火の始末をしたし、今日は朝から火を使っていない。

(火が、出るわけが……)

 一歩、一歩、足を出すたびに、鈍い衝撃が頭まで突き抜ける。


 薔薇屋敷は見事に焼け落ちていた。

 黒く焦げた柱はまだくすぶり続け、庭の花も、そのほとんどが炭化している。

 庭師の小屋だけは全焼をまぬがれていたが、それでもとうてい、人が住めるような状態ではなかった。

 人をかきわけ、前に出る。

「来るな、ロスト!」

 その長身を見咎めて、小屋の前に屈みこんでいたイザクがとっさに叫ぶ。

 だが、その制止は遅かった。

「……ジュリー?」

 ロストの、緑がかった黒い目に、その姿が映る。

 足を投げ出して倒れているジュリー。金の毛は泥と血で見る影もなく、どんよりと曇った目が、崩れるように膝を付いた飼い主を見た。

 ジュリーの傍には、血が絡んだ銀の短剣が落ちていた。鴉の意匠が柄に彫りこまれている。

 震える手でジュリーに触れようとして、その苦悶の鳴き声を聞いて手をおろす。

 いくつもの傷が、ジュリーにはつけられていた。

 どの傷も、すべて、いたぶるための傷だった。

 力をふりしぼり、ジュリーが小さく頭を動かした。そっと押さえたロストの手に、何かが落ちる。

 無意識にそれを外套のポケットにおさめ、内懐から拳銃を引き出した。

 周囲の音が遠のく。

「ごめんな、ジュリー」

 優しい声。

「さあ、これで楽になる」

 銃口をジュリーに向け、引鉄を引く。

 放たれた弾丸は、ジュリーを永遠の眠りへと落とした。

 同時に、ロストの内で、何かが砕ける。

「いつかこんなことになるんじゃないかと思ったよ」

 聞こえた、嘲りを含んだ声に、屋敷に駆けつけていたジョンは思わず声の主を見た。

 ローンバートが、口元を歪めて立っていた。

 ジョンの視線に気付き、ローンバートがくるりと背をかえして去っていく。

(……ん?)

 違和感が、ジョンの胸を刺す。

 それを確かめる前に、ローンバートの姿は見えなくなっていた。

 ロストのほうは、周囲には全くの無関心で、ひざまずいたまま、ジュリーの亡骸に目を注いでいた。

 けたたましい、狂気的な笑いの発作が喉元までつきあげてきた。

 それをぎりぎりで止めていたのは、彼に残った欠片ほどの理性だった。

 イザクがロストを支えて立たせる。

 ロストは嫌がるように小さく首をふったが、結局のろのろと立ちあがった。

 黒い服の中、蒼白の頬に涙が光っていた。

 その後、ジュリーを葬るときには、ロストもいくらかそれまでの自失状態から立ち直っていた。

 穴を掘るためのシャベルや鍬を物置から取り出し、手伝いを申し出たイザクにそれを渡す。

 小屋の傍、ジュリーが好んで寝そべっていた場所に、シャベルの先を刺す。

 ぐっと足でシャベルを踏み、シャベルの先をさらに深く土に刺して、ひとすくいの土をすくいあげた。

「ヒュー、中から何か……毛布でもシーツでも何でもいい、持ってきてくれないか。棚の一番下に入ってる。ジュリーを包んでやりたいんだ」

「分かった。持ってくるよ」

「悪いな」

 ロストの口元がひきつる。

 その顔には、どこか狂気の影がうかがえた。

 やがて墓穴が掘られ、ヒューが持ってきた白いシーツに包まれたジュリーが穴におろされる。

 シーツが土で埋まっていく。

 真新しい墓の上に、ネイがミューシェと編んだ白い花輪を置いた。

「お気の毒に、ロスト。こんなことになってしまって」

 すすり泣いていたミューシェが、涙声でロストに声をかける。

「でも今は、ジュリーも神様のみもとにいますから。もう傷付くこともありませんから」

 ロストの顔が大きく歪む。

 理性が止めるより先に、言葉が口から滑り出ていた。

「神などいるものか。仮にいるとしたら、その神様ってやつは、よほど俺が憎いんだろうな。俺から全てを奪ってなお足りないんだから」

 ロストを制止するように、イザクがその方に手を置いてミューシェを睨む。

「……ごめんなさい」

 ミューシェがうつむき、小さく呟く。

 ロストは答えず、道具を物置に戻した。

「ロスト、しばらく家に泊まる? 二階の部屋、空いてるから」

「……世話になる」

 答えるロストの声には、何の感情もこもっていなかった。



 その夜、ネイの家の一室で、ロストはベッドに腰かけたまま、壁の一点を見つめていた。

 彼はまだ外套を着たままだった。それを脱いで壁にかけておくという単純なことさえ、彼の頭には浮かんでいなかった。

 頭に浮かんでいたのはジュリーのこと。

 元気に駆け回っているジュリー。甘えかかってくるジュリー。散歩のときにはいつも、横にぴたりとついてきたジュリー。

 ひとつの考えが浮かぶ。

 普段の彼なら間違いなく、狂気の沙汰だと切って捨てるような考えが。

「イスディス」

「何だ?」

 声に応じて、呼ばれるのを待っていたかのように、イスディスが現れる。

「お前は、対価を払えば、願いを叶えてくれるんだよな」

 イスディスを見るロストの目は、異様にぎらぎらと光っていて、その奥には狂気さえほの見えた。

 イスディスは、どこか悲しげにロストを見ていた。彼の内心を、その願いさえ悟っているようだった。

「願いにもよるよ」

「なら、死んだものを生き返らせることはできるのか?」

 わかっていた。彼がそう願うだろうと。

「不可能じゃない。でも、今のお前には、対価は払えない。仮に払えたとしても……あの犬はあのまま眠らせておけ。死んだものは死んだままにしておくべきなんだ。それに、お前が本当に蘇らせたいのは、あの犬じゃない。そうだろう? それともお前は冷たい肉の塊が欲しいのか? 生きてる真似事をするだけのモノが? それが死んだものを苦しませるだけだと分かってても?」

 低い、絶望した呻きが、ロストの口から漏れた。そう、彼も分かっている。自分が抱く願いが、決して許されるものではない、と。

「それよりも、お前は憎くないのか? あの犬をあんな目にあわせたやつを見つけ出して、報復したくはないのか?」

 乾いた笑いが、ロストの口からこぼれる。

 押し殺したその笑い声は、幸い、一階にいたネイには聞こえなかった。

「俺がそれを願わないと思ったのか? ああ、必ず報いは受けさせるとも」

 吐き捨てたロストの面には、冷ややかな、そして獰猛な表情が浮かんでいた。

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