第7話 彼の思い

「ネミッサ卿、私です」

 昨日からの気怠さが拭えず、朝食もとらずにまどろんでいたネミッサは、訪う声を聞いて起きあがった。

「どうぞ」

さらさらと衣擦れの音を後ろに引きながら、キロンが部屋に入ってくる。

「まだ具合が悪いのですか」

 心配というふうでなく、いつになく、口に針でも含んでいるような語調だった。

 ネミッサは黙ったまま、ちらりとキロンを横目に見た。

 キロンは今、町の図書館に行っているはずだ。ここに来るはずはない。

 それと知りつつも、ネミッサは平静を保っていた。

「そうですね。だいぶ強くあてられたようです」

「それはそれは。“鴉の騎士”ともあろうお方が、ずいぶん不甲斐ないことですね」

 ネミッサが口の端をきりりとあげる。

「さて、不甲斐ないのはどちらのことか。人の姿で騙るつもりなら、影も落としたほうがいい。幻術の腕だけを取ったなら、ローンバートのほうが上だぞ」

 キロンが唇を曲げる。

 その足元に、影はない。

 ネミッサが身体を回し、キロンに向きなおる。

「さあ、どうする? ここで私に手を出すか?」

「いや、取引といこう。鴉の騎士、我らの邪魔をするな。そのかわりに、お前とお前の従者をメルへニアに帰そうじゃないか。悪い話ではないだろう?」

「そうか。言うことはそれだけか?」

「何?」

 ふん、と、ネミッサが鼻で笑う。

「そんな取引など、はなからする気はない。お前たちのやることだ。ろくでもない結果になるに決まっている」

「そうか、せっかく戻れるというのに、それを棒にふるのか。だがそれでもいいだろう。やってみろ、我らを止められるかどうか」

 本物のキロンなら決して言わないことを言い放ち、眼前のキロンはにたりと笑う。

「この町では、わずかな火種がすぐに大きな炎になる。鴉の騎士、お前も火種のひとつとなるだろうよ」

 高笑いを残し、幻影が掻き消える。

 ふ、と息を吐き、ネミッサは緊張を解いた。

(さて、余裕があるのかないのか)

 挑発か、偵察か。

 これからどう動くべきだろうか。

 一人考えているところへ、外からばたばたと慌ただしく走ってくる気配が近づいてきた。

「主、ご無事ですか!」

 キロンの手伝いで図書館に行っていたはずのジョンが、息を切らせて駆けこんできた。

「どうした、血相を変えて」

 涼しい顔のネミッサを認め、ジョンがぜいぜいと肩で息をしながら床にへたりこむ。

「その様子なら、私の偽物でも出たか」

 喘ぎ喘ぎ、ジョンがうなずくのを見て、ネミッサは水を注いで渡してやった。

 ひと息に水を飲み干し、ジョンがやっとぽつぽつと話しだした。

 図書館についたとき、不意にネミッサが現れたのだという。それも彼女がメルカタニトに現れたときの、血塗れの姿で。

 キロンが即座にそれを幻影と見破ったのは言うまでもない。

 しかし、ネミッサに何かあったのではないかと、ジョンは大急ぎでオリカの屋敷に戻ってきたのだった。

 ネミッサが先刻のことを話すと、ジョンがいよいよ顔色を変える。

「これから、どう出てくるでしょうか」

「さて、まだ何とも言えないな」

「自分はどうすべきですか」

「そうだな……下手に目立つな。それと、悪意の向く先を見極めろ。それが誰に、どんな理由で向いているのか見極めて動かなければ、火を広げることになりかねない」

 それと、と立ちあがり、荷物を入れた背嚢はいのうを探りはじめたネミッサは、ふと怪訝な顔で手を止めた。

「主?」

「荷物を漁ったやつがいるな。あの違和感は気のせいではなかったか」

 いざというときのために持っている、銀の短剣。

 クレイエの意匠が施されたそれが、消えていた。

 いよいよ顔色を悪くしたジョンとは逆に、ネミッサは朱唇にうっすらと冷笑をのぼらせた。



 ずっと、見てきた。

 彼の喜びを見た。彼の悲しみを見た。怒りも、楽しみも、すべてを見てきた。

 そして、ときには彼を守り、ときに彼の求めに応じて、彼が望む力を与えた。

――僕の身体を渡すから、あいつのこと、守ってよ。僕みたいにならないように。

――力を、よこせ。代わりに、俺が死んだときには、魂でも、何でも、くれてやる!

 代償と引き換えに願いを叶えるのが、イスディスという妖霊である。

 これまで、幾人もの願いを代償と引き換えに叶えてきた。願いのために、命さえ差し出したものもいる。そんな者たちと比べると、彼は無欲だ。

 夕方、ふらりと、足に任せて町へ向かう。

 コンサートがあったのが嘘のように、町は平素の穏やかさを取り戻していた。

 人の間を歩いて行くイスディスに、注意をはらう者はない。

 黒い髪に褐色の肌、加えて赤い目のイスディスは、カナーリスでは珍しい外見のはずだが、目立たないようにする方法を彼は心得ていた。傍目には、町の子供の一人に見えるはずだ。

 ロストとともにこちらに現れてから、ロストの注意もあり、目立たないようにしているため、こちらで自分を知る者はない。

 イスディスとしても、それに文句はなかった。

 自分のことを知るのは、契約者ロストだけであるべきだ。何せヒトの欲ほど、際限のないものはないのだから。

「おや、君は……あの屋敷にいた子ですね」

 穏やかな声に、背筋が凍る。コンサートが終わったのだから、魔導師はもう去っていると思っていた。

(まだいたのか!)

「少しお喋りしませんか)

「別に、話すことなんかないと思うけど」

「そうですか? でも私は君と話がしてみたいのですけれど」

「俺は話したいと思わないね」

 手をうちふったイスディスの周囲に、砂煙が立ちこめる。

(この隙に――!?)

 風が吹く。

 砂煙が晴れ、イスディスの姿があらわになる。

 同時に、足元に現れた魔法陣が彼の動きを封じた。

「そう怖がらないでください。危害を加えようとは思っていませんから」

「どの口が!」

 赤い目が燃える。

 しかし今のイスディスには、それ以上の行動はできない。

「ふむ……身体はひとつ、心はふたつ。人に近く、魔にもまた近い。元からではないですよね、その性質は。君は、何者ですか?」

「お前にそれを言う義理はないだろ」

「あの屋敷にいるのはなぜです? 庭師は悪魔を憎むそうではないですか。君がいることを許すとは思えないのですが、どう言って丸めこんだのです?」

「丸めこんだわけでも、騙したわけでもないよ。だって俺が何なのか、あいつは知ってるもの」

 言ってしまってから、しまった、と思った。

「知っていて、それでも許している、と?」

「……うるさい」

 無理矢理に、魔力を引き出す。

 黒髪の間から、曲がった角が伸びる。

「調子に乗るなよ、人間風情が」

 キロンがわずかに顔をひきつらせる。

 拘束が解かれると同時に、イスディスは大きく飛びあがった。

 そのまま、転移の魔法で薔薇屋敷まで移動する。

 地面に尻餅をつき、荒くなった呼吸をしずめる。

 さすがに無理をしすぎた。故郷ならともかく、この世界では自分の力はかなり制限されている。

「何かあったのか?」

 ふらつきながら小屋に入ると、テーブルに突っ伏していたらしいロストが声をかけてきた。

 その声はひどくかすれ、顔色は土気色になっている。

 契約というつながりがある以上、イスディスが無茶をすれば、その余波はロストにも及ぶ。

 そのことを、いまさら思い出した。

「べ、別に」

「ならいいが……あまり目立つなよ」

「わかってるっての!」

 ロストが苦笑し、のろのろと身体を起こす。

 額には脂汗が浮いているが、それ以上の苦痛の色を彼は押し隠している。

 それが強がり、弱さを見せたくない心のあらわれだと、イスディスは知っていた。

――身体はひとつ、心はふたつ。人に近く、魔にもまた近い。

 キロンの言葉は、今のイスディスの性質を正しく言い当てていた。イスディスが最も隠しておきたかったことを。

 人の心。ある事情から、イスディスが持つことになったもの。

 万が一、イスディスが人の心を持っていることがロストの耳に入ったなら、それが誰のものなのか、彼は必ず気付く。

 それこそ、その心の持ち主が、最も恐れていることだった。

 自分のことをロストが知ったら、彼の心が折れるかもしれない、と。

 それは、イスディスにとっても避けたいことだった。ロストを守ることも、自分の役割なのだ。

 ふらふらとベッドに横になったロストは、まもなく寝息を立てはじめた。

「う……」

 やがて、弱い唸り声をあげたロストは、眠ったまま顔を歪めた。

 慌てて揺り起こす。

 薄目を開け、しばらくしかめ面でイスディスを見ていたロストは、ああ、と息を吐いた。

「お前か」

 身体を起こし、押し付けるように渡されたタオルを無意識に手で弄びながら、ロストはまだぼんやりとした様子で呟いた。

「……また、あのときの夢か?」

「夢……ああ、夢、か」

 ようやくロストもはっきりと目が覚めたらしい。

 台所の水瓶から水を汲んで一気に飲み干し、ロストが大きく息を吐く。

「……お前にとって、俺は何だ?」

 ふと、そんな問いが口をつく。

「何……というと?」

「お前が悪魔崇拝者を憎んでいるのは知っている。だが、俺はどうなんだ?」

「何だ、知っているだろう? お前が悪魔だろうが妖霊だろうが、いようがいまいが、俺はいっこうにかまわない。だが私欲のために魔術で他人を傷つけるような奴らは許さない。それだけだ。……まあ、今の俺に奴らを批判する資格なんざないことはよくわかっているさ。同じところまで堕ちたんだからな。……で、一体何をやらかした?」

「何でそう思うんだよ?」

「契約印が痛んだんだよ。別にお前の力を借りたわけでもないのに。俺に心当たりはないんだから、お前のほうで何かあったとしか思えないだろう」

「…………ちょっと、魔法使いと、もめた」

「お前――」

 言いかけたロストは大きく溜め息を吐き、血が出るほどきつく唇を噛んだ。

 おそらくは怒鳴りつけたかったに違いないが、彼は二、三度大きく肩を上下させて息を吐き、渋面を作るだけにとどめた。

「終わったことは仕方がないか」

「悪かったよ」

 ロストは肩をすくめ、夕飯の準備に取りかかった。

 薄く切ったパンと野菜の炒め物をテーブルに並べ、ジュリーにも餌を用意する。

「明日は出かけるから、大人しくしていてくれな」

「どこに行くんだ?」

「隣町だよ。いつもの義肢の点検と買い物だ。夕方までには戻るから、イスディスを頼むぞ、ジュリー」

「それ、逆だろ」

 はは、と軽く笑ったロストが、空になった皿を片付ける。

「朝も早いんだろ?」

「ああ、片付けたら、今日は寝るよ」

 すすいだ皿を籠に立て、布巾で手を拭う。

 カナーリスの隣町、フェリエール。カナーリスが運河の町と称されるように、こちらは鍛冶の町と称される。

 昔から製鉄技術で発展してきたこの町も、〈外つ国人〉の知識と技術によって、一層の発展を遂げた町である。

 基本的にカナーリスから出ないロストだが、フェリエールには定期的に訪れていた。

 というのも、銃の手入れに使う備品や弾丸を買える銃砲店があるのがフェリエールだったのと、もうひとつ、フェリエールには義肢の調整ができる技術者がいたからである。

 自分でも簡単な調整はできるが、やはり専門の義肢は要る。

 唯一大変なのは、町への行き帰りだ。

 隣町とはいっても、二つの町の間は離れている。街をつなぐ乗合の魔動車はあるが、魔とつくものを好かないロストは、あえて徒歩で行き来していた。

 片付けを終えて横になったロストは、そのまますぐに眠りこんだ。

 椅子に腰かけ、イスディスはロストの顔を眺めていた。

 少年時代の面影は、大人になった今でもまだ残っている。

 近付こうとすると、すかさずジュリーが低く唸る。

「何だよ、何もしないよ」

 唸り声。

「ちぇ、わかったよ。お前なんか代わりのくせに」

 言って、すぐに後悔の念が湧いてきた。

 今のロストにとって、ジュリーは唯一の支えだ。

 自分が手をかけるもの、世話をするべきものがあることで、ロストは生きていられるのだ。それがなければ、早晩、彼は壊れてしまう。

 ただ生きているだけの、人形か何かのようになるよりは、今のほうがずっといい。

 イスディスが離れたのを見て、ジュリーも自分の寝床に戻っていった。



 同じ夜、オリカの屋敷では、ネミッサがジョンと茶を飲みながら話し合っていた。

「森に行くって……本気ですか?」

「本気だ。どうも気にかかる」

 言い切ったネミッサを見て、しかし、と、ジョンが渋い顔をする。

「身体だって……」

「一日横になっていたら楽になった。それに、キロン様から形代もいただいたからな。短時間なら問題はないよ」

「わかりました」

 ようやくジョンが、渋々といった様子でうなずく。

 その後、ジョンが自分の部屋に戻ってからも、ネミッサは眠らずに茶を飲んでいた。

(胸が騒ぐな)

 近いうちに、きっと何かが起こる。

 その予感を、ネミッサはひしひしと感じていた。

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