第6話 火種、ひとつ

 前夜の暴飲がてきめんにたたって、翌朝のロストの目覚めは最悪だった。

 強まり、弱まってまた強まる、割れるような頭痛に目を覚まされる。起き上がったとたん、喉元へ吐き気がこみあげる。

 うぐ、と低く呻いて口を押さえ、ふらつきながら外へ出る。

 歪む景色の中、よろめきながら小屋の裏手まで辿りつくと、ロストはほとんどくずおれるように膝を付き、胃の中身をその場に吐きだした。

 胃の腑が空になってもなおしばらく、ロストは目を閉じて肩で息をしていた。

 喉がひりつく。

 ここまでひどい二日酔いは、ずいぶんひさしぶりだった。

 自分の酒癖が悪いのも、暴飲すると翌日が辛いのも承知していたし、だから普段はせいぜいほろ酔い程度におさめておくのだったが。

「立てそうか?」

 落ちついた声が降ってきた。

 まだ息を切らしながら、首を煽って声のほうを見る。

 ネミッサが傍に立っていた。彼女の手を借りて立ちあがる。

「飲めるか?」

 さしだされた水を飲むと、いくらか喉のひりつく痛みが和らいだ。

「歩けるか?」

「ああ、何とか」

 ネミッサに支えられながら、中に戻って横になる。

「すまない」

「気にするな」

「いや……昨日も色々と言っただろう、確か」

 はっきりとは覚えていないが、そうとう失礼なことを口走った記憶はおぼろげにある。

「酒の席での戯言など、一々気にしていてはきりがない。それより寝ていろ」

 ぴしゃりと言いつつ、ネミッサは濡らしたタオルをロストの額にあてがった。

 ふうっとロストが息を吐き、目を閉じる。

 昼近くになって、屋敷に、来客を告げる呼鈴の音がけたたましく響いた。

 頭に響くその音に顔をしかめながら、ロストはのろのろと起きあがった。

 小屋にネミッサの姿は見えない。

 杖を取り、外に出る。

 レンジャー隊の制服を着たミューシェ・ペンドルトンと――珍しく――ローンバートが訪れていた。

「遅いぞ!」

「何の用だ」

 苛立った様子のローンバートに、ロストは不機嫌な表情を隠そうともしない。

 ミューシェがおずおずと口を開く。

「あの、隊長に、様子を見てくるように頼まれたので――」

「ふん、お前なんか気にする必要はないだろうに」

「……うるせえな、お前は。その口、閉じておけねえのか、ソーン」

 ロストが低い、刺々しい語調で言いかえす。

 ぎろりとローンバートを睨む彼の目は、ほとんど漆黒と言ってよかった。

 普段のロストなら、こんなことはたとえ思っても口には出さなかっただろう。面倒ごとが増えるのは火を見るよりも明らかだったからだ。

 しかし二日酔いの頭痛と悪心が、平素の自制を鈍らせていた。

「誰に口をきいている!」

 ローンバートがロストにつかみかかる。

 ロストは右手でローンバートの腕をつかみ、一歩踏みこんだ。同時にローンバートの胸倉を左手でつかみ、身体を沈める。

 ローンバートが低く宙を舞った。

 考えてやった動きではなかった。反射的に、身体がかつて覚えた動きをなぞっていた。

 ローンバートが激情もあらわに飛び起きる。

「貴様!」

 目の前ではじまった取っ組みあいに、ミューシェは眼鏡の奥の目を丸くして、おろおろと立ち尽くす。

「ふ、二人とも、お、落ちついて……」

 震えた弱々しい声は、どちらの耳にも届かない。

「頭を冷やせ、馬鹿者共が!」

 そのとき、よくとおる、ネミッサの怒声が響いた。

 井戸で組んだばかりの水桶いっぱいの水が、二人に浴びせられた。

 顔をしかめ、ロストがローンバートから離れる。

「レンジャー、用は済んだのか? それならもう戻れ。他にもやることがあるんだろう」

 ローンバートが何か言う前に、ネミッサが有無を言わせぬ口調でぴしゃりとそれを封じる。

「庭師、軽挙は控えろ。過ぎた激情は――身を滅ぼすぞ」

 ネミッサの口調はやはり冷たく、厳しい。

「……わかっている」

 呟くように答えたロストの瞳には、暗い色が揺らいでいた。

「ミューシェ、ぐずぐずするな!」

 先輩のはずのミューシェを横柄に怒鳴りつけ、ローンバートがさっさと踵をかえす。

 ミューシェが二人に頭をさげ、あたふたとその後を追いかける。

 レンジャー二人が見えなくなってから、ロストは苦虫を噛み潰したような顔で小屋へ戻っていった。

 それを見送ったネミッサが、水を汲みなおそうと足元の水桶を取りあげたとき、目の端でちかちかと光るものがあった。

 町に来たとき、キロンに渡されたブローチ――通信用のマジックアイテム――である。

 ブローチにはめこまれた石を二度、軽く弾く。

――卿、そちらは問題ありませんか?

「大きな問題はないかと。そちらはいかがですか?」

――変わったことはありませんが、ジョンがだいぶ憤慨していましたよ。魔術師を悪魔崇拝者扱いするなど侮辱もいいところだ、と。そうそう、その庭師ですが、隠れていたジョンに気付いたのだそうですよ。彼は確かに隠れて様子をうかがっていたそうなのですがね。

「ほう?」

 珍しく、ネミッサが声に驚きをにじませる。

 ジョンは隠密行動を得意としている。気配を消した彼に気付くのは、容易なことではない。

(ただの庭師、というわけではなさそうだな)

 ロストとローンバートの取っ組みあいは、ネミッサも見届けていた。

 ローンバートが武術の心得があるのは知っていたが、ロストの動きも素人のものではない。

 身体が動きを覚えるまで、幾度も幾度も繰りかえされた、そんな動きだった。

(もう少し、彼と話をしてみるか)

――卿、今夜は正餐会だそうですから、夕方には戻ってきてくださいね。

「承知しました」

 キロンとの通信を切り、ネミッサは井戸へ水を汲みなおしに向かった。

 一方、小屋の中ではロストが服を着替えていた。

 水が胸の包帯にまで染みていることに気付き、舌打ちをして包帯を解く。

 ロストの左胸、日に焼けないがゆえに白い肌の上には小さな傷があった。

 くさび形にも似た傷――イスディスとの、契約印。

 新しい包帯を取り、胸に巻きなおす。

 他人によって、生涯消えない傷として刻みつけられたこの傷を、彼は人目にさらすわけにはいかなかった。

 さらした先にあるのは、死しかない。

 そうと知りながら、ロストはイスディスと契約したのだった。

 扉を叩く音。

 急いで着替えをすませ、ロストは扉を開けた。

 水桶を台所の隅に置き、ネミッサがロストをふりかえる。

「具合はどうだ?」

「だいぶ、ましになったよ。すまない、面倒をかけた」

「気にするな。ところで貴殿は武術の心得があるのか?」

「……あるんだろうが、覚えていないんだ」

 暗い目をしたロストを見やり、ネミッサは、そうか、とうなずいた。

「あんたはずいぶん、俺を気にするんだな」

「ああ、人を探していてな。このあたりにいるのはわかっているんだが、それ以外に手がかりがなくてな。それで、貴殿がいくらか似ていたものだから」

 ネミッサはそう言いながら、ちらりとロストに視線を投げかけた。

 ロストは目をあげてそれを受け止め、口元にしわを寄せた。

「あいにくと、俺はあんたを知らないよ」

「そのようだな。失礼した」

 ネミッサの視線が和らぐ。

「私はそろそろ町に戻るつもりだが、問題はないか」

「ああ、世話になった」

 薔薇屋敷を出ると、ジョンが町の方から走ってくるのが見えた。

「何かあったのか?」

「いえ……中々戻られないので気になって。主のこと、町でかなり噂になっていますから」

 昨夜のコンサートでネミッサが見せた奇跡は、もう町中の口の端にのぼっていた。

 しかし全員が全員、ネミッサに好意的なことを言っているわけではなく、皮肉や嫌味、悪意のこもった噂もあった。

 ことにローンバートやその取り巻きは、目立ちすぎだとか、彼を道化にした、などと聞こえよがしに話していた。

「それは悪かった。屋敷はどうだ、変わりないか」

「ローンバートはかなり苛立っていましたが……それ以外は何も」

「そうか。こちらも問題はない」

「主、彼は……」

「違うな。マリスの手下ではない」

「何か、確信が?」

「ほとんど勘だがな。後でゆっくり話そう」

 はい、と答えたジョンが、ふと一点に目を留める。

「どうした?」

「あれ……石畳の跡ではないですか?」

 ジョンが指さすほうを見る。

 草にまぎれてわかりにくいが、確かに足元にある石畳の跡と同じものが、森の奥へ続いているようだった。

 小首をかしげ、ネミッサはそちらへ足を向ける。

(この先に何かあるとは聞いていないが……)

「何かあると聞いたか?」

「いいえ」

 草を踏みながら歩いていく。

 やがて、二人の前に現れたのは少し開けた空き地だった。

「……妙だな」

「確かに、空き地に続いているのは変ですね。昔は何かあったんでしょうか」

「いや……」

 眉を寄せて言いよどむネミッサを見、ジョンが首をかしげる。

「主?」

 声は聞こえているが、それに答える余裕はない。

(なんだ、この場所は……?)

 違和感。

 肌の上を、無数の虫が這い回っているような感覚。

 元々色の白いネミッサではあるが、今やその肌は白蝋のようになり、頬がそそけだっている。

「主、離れましょう」

 今にも失神しそうな目つきになったネミッサにぎょっとしつつ、ジョンは主人の腕を引いて、もと来た道を急ぎ足でたどりだした。

「……ジョン、もういい」

 薔薇屋敷の傍まで来てようやく、ネミッサがかすれた声でジョンを止めた。

 そのまま、くずれるように座りこむ。

 目の前が暗くなる。動悸がおさまらない。

「主!? つ、掴まってください!」

 青い顔のジョンが、町に戻ったはずのネミッサを担ぎこんできたことに、ロストが目を丸くする。

「大丈夫か?」

「……ああ、大事ない」

 水を飲み、ネミッサがひとつ息を吐く。

「ここから北に行ったところに、空き地があるのを知っているか?」

「北の空き地? いや、はじめて知った」

「そうか。石畳が続いていたから何かあるのかと思ってみれば空き地だったもので、何かあったのかと気になったのだが」

「そういうことなら町の人間のほうが詳しいだろう。町長にでも聞いたほうがいいんじゃないか」

「そうするとしよう。世話をかけたな」

「いや、それは俺が言うことだ。それと……昨日は悪かったな」

 ぎこちなく、ロストがジョンに言うのへ、ジョンも、いえ、といくらか固くなって答える。

 二人がオリカの屋敷に戻ると、キロンもちょうど外出から戻ってきたところだった。

「卿、どうなさいました? 顔の色が悪いですよ」

「そうですか?」

 キロンがネミッサの額に手を置く。

「熱はないようですが……ふむ、どこか、魔力が溜まっているような場所にでも行かれましたか?」

「魔力溜まり、ですか?」

「ええ、ときどきあるんですよ。自然に魔力が溜まって淀んでいるような場所がね。そういうところに行くと、人によってはあてられてしまうのです」

「それかもしれませんね。まだ気分がすぐれませんので、休ませていただきます」

 残ったジョンがわけを話すと、キロンが不思議そうな声をあげる。

「魔力の溜まり場が平地にできるのは珍しいですね。ジョン、あなたの体調はどうですか?」

「自分は特に変わりありませんが……主はそういったものに敏感な人なので」

 ふむ、とキロンがジョンをじっと見上げ、そのようですね、とうなずく。

「一日ゆっくり休んでいれば治りますよ。馬車に酔うようなものですからね」

 キロンの言葉を聞いて、ジョンがほっと胸をなでおろす。



「主、具合はいかがですか?」

 しばらくして、ネミッサの部屋を訪れたジョンは、どこにも人影が見えないことに驚き、入り口で呆然と立ち尽くした。

「どうした?」

 背後から声をかけられ、思わず飛びあがる。

「主、どちらに!?」

「少し外の空気を吸いに出ていた。ところでジョン、今日、部屋に来たのはこれが最初か?」

「はい。何か、ありましたか?」

「いや……わからない。……駄目だな。どうも調子が悪い。違和感はあるんだが」

「今は休んでいてください」

「そうさせてもらうよ。……そんな顔をするな。たいしたことはない」

 口ではそう言いながらも、結局ネミッサは、この夜の正餐会には顔を出さなかった。

「騎士殿の具合はいかがです。医者は不要ということでしたが」

「たいしたことはないそうです。一晩寝れば治る、とのことでした」

 慣れない正餐会ということもあり、ジョンが固くなってオリカに答える。

 隣で聞いていたローンバートが皮肉げな笑みを浮かべたが、オリカが隣にいるせいか、彼は黙って食事と一緒に言葉を飲みこんだようだった。

「グローゼン様、もう幾日か、滞在させていただいてもよろしいですか?」

「もちろんです。何か用がございましたら、なんなりとお申し付けください」

「ありがとうございます。そういえば、こちらにも召喚陣があるのですよね。お屋敷の地下室でしたか?」

「はい。後でご覧になりますか?」

「確認させていただきましょう。ソーン様もその召喚陣での召喚で間違いなかったですよね」

「そのとおりです。規定の書類も出しています」

「ええ、書類は確認しています。これは単なる確認ですよ」

 キロンが気付いたかどうかはわからないが、ジョンの目には、オリカは召喚陣のことを聞かれたとき、ひどく緊張しているように見えた。

 後で思いかえせば、オリカはジョンが森中の空き地のことを何気なく聞いたときも、ひどく驚いた様子だった。

(何か驚くようなことがあるんだろうか)

 ざわりと胸に嫌な予感が広がる。

 その正体がつかめないまま、ジョンは眠れぬ夜をすごすことになった。

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