彼女が好きだと言ってくれた声
西東友一
彼女が大好きだと言ってくれた声
「Kehlkopfkrebs…」
「ぁ゛い?」
真っ白な部屋で強烈に黒く光るレントゲン写真。
そして、日本ではなかなか見かけないもじゃもじゃな茶髪と、もじゃもじゃなアゴ髭のドクターは険しい顔でレントゲン写真の喉のあたりを指しながら、聞きなれない言葉を言う。
(風邪じゃ…ないのかな?)
僕は留学するにあたって、高校の勉強だけでなく、去年からドイツ語を並行して勉強してドイツの音大に入れるレベルの勉強をしてきたが、やはり医療の専門用語となるとちんぷんかんぷんだ。
「グネン…っ」
もう一度話してくれますか、と尋ねようとしたが喉が痛い。
スマホを取り出し、『ここに書いて』と文字を打ち、翻訳ボタンを押して、ドクターに渡す。
ドクターは頷いて、素早く文字を打ってくれる。
(丁寧に書いてくれているのかな?)
病名だけではなく、処方箋のことなども書いているのだろうか。
(うーん、お金がいっぱいかかったらどうしよう。それに先生には再来週までに課題曲を完璧に歌えと言われてるのに…。ようやく褒められるようになってきたのに、体調管理が!!ってまた怒られちゃうよ…)
そんなことを考えていると、ドクターは僕にスマホを返してくれた。
僕は頭を下げて、スマホを預かり画面を見る。
『あなたの喉は、
―――ガン?
「え゛っ」
僕は翻訳間違いだと思ってドクターを見るが、ドクターは残念そうな顔をしながら頷いた。
* * *
ついこの間まで青々しく生い茂っていた木々がいつの間にか、足元まで黄色一色に染めている。
(まだ・・・1年しかいないのに)
10月の入学に合わせて、去年の今頃ドイツにやってきたのだが、入国手続きや入学手続きでほとんど外の景色なんて覚えていない。
半年たって春が来て、気温の上昇と共に成長を実感してきたが、ドイツの秋は一気に冷え込むようだ。
まるで、景気よく登っていた階段がなくなるように。
ドクターはあの後も丁寧に話してくれた。僕が放心状態になっていたのが、わかったのだろう。最後に3つだけ覚えておくように、と言ってくれた。
1つ目は僕の喉頭ガンはかなり末期になっていること。
2つ目は医療費のことや期間のことを考えれば帰国するべきだということ。
3つ目は…無駄なことを喋ってはいけないこと。
(帰る手続きしないと…。それに退学の手続きか。あとは親に連絡と。でもまずは…)
「先生に゛…」
独り言すら喉が痛い。
僕は喉を抑える。
(…報告に行かないと)
僕はいつもなら曲がる3つ目の角を曲がらず、先生の家へと繋がる道へと方向転換する。
『君の歌は訛っている』
先生のアドルフ先生によく注意された。
『君の声は神から祝福を受けているのだが…残念だ』
日本というニッチな言語。
日本では絶賛されたこの絶対音感を持つ耳も、滑舌の良いと言われたこの舌使いも世界に出れば、ハンディキャップを抱えていた。
そんな不安が、喉の違和感を無視させ続けた。
「…今までありがどうございまじだ」
僕は震える声でアドルフ先生に想いを伝えると、先生は僕を思いっきり抱きしめてくれた。
「君に新たな神の祝福あれ」
※ ※ ※
アドルフ先生は夕食をご馳走してくれた。
泊っていくように言われたが、両親へ連絡を取る必要があると言って、僕は自宅へ着いた。
シーンとした冷たい部屋。
音楽には感受性が重要だと言われて、街を歩いて見つけた絵画が2枚。
買ったときは、気持ちが明るくなると思ったデザインだったが、今日はなぜか自分の不安感を助長するように感じたので、僕はその2枚をひっくり返す。
椅子に腰かけて、パソコンを起動させる。
「スーーーッ」
喉に負担がかからないようにため息をつき、ヘッドフォンを付けて音楽を流す。
パスワードを入力すると、不貞腐れた僕に腕を組んでくる
―――うたちゃんの声、私大好き!!
律が言ってくれた言葉を思い出し、僕は出てきそうになる言葉を飲み込む。
そして、画面右下の時間を見ると、時計は22時15分だった。
(日本は…14時くらいか)
僕はメール画面を開き、父さん宛のメールを書き出す。
『父さんへ
とりあえず報告です。今日、病院に行ったら喉頭ガンと言われました。帰国しようと思ってます』
(送信っと)
僕は送信ボタンを押す。
『送信中…』と表示されているが、今日はいつもより長く感じる。
(なんか、我ながら怪しい文章だ。アカウントが乗っ取られたとか、『オレオレ詐欺』とかに勘違いされなきゃいいけど…)
気持ちが落ち着いてきたのか、ストレスが大きすぎて他人事になったのか、そんな変なことを考えてしまう。
パポンッ
ぼーっとしていたら、返信がきた。
『本当か』
(まぁ、そう言うよね)
『日本に帰ったらもう一度検査させてもらおうと思ってる。いろいろな手続きが済んむのに少し時間がかかるみたいだから。帰国の日が決まったらまた報告するね。アドルフ先生がそれまでいろいろ面倒見てくれるって』
『俺が迎えに行く』
『父さんは公演中でしょ?違約金が発生しちゃったら困るでしょ?』
『電話できるか?』
『うん』
トゥルルルルッ、トゥルルルルッ
「俺だ…。歌丸か?」
「う゛ん」
タイムラグもあるだろうが、父さんは次の言葉が出ないようだった。
「ごめんで…父さん」
父さんには物凄い反対されていた。国内の音楽学校で十分だと。
しかし、僕は抵抗した。
夢のために。
多額の費用がかかるのもわかっていたが、年齢制限などのこともあり、就職したら必ず返すからと説得して、海外留学を認めてもらった。
それなのに、こんなことになってしまって本当に申し訳なくて、目頭が熱くなり、鼻水が出そうになる。
(涙ごえじゃ、なおさらちゃんと伝えられなくなる)
僕は気持ちをなんとか堪える。
「お前は悪くない。安心して、帰ってこい。手続きなんて後回しでいいから。病院の手配もしておく。名医を見つけておくから」
父さんは一言一言丁寧にしっかりと伝える。
その一言一言が、安心して父を頼れと言わんばかりに力強い言葉遣いだった。
「ぢょっど・・・うぅーーっ」
喉の違和感に苦しくなる。
「とりあえず、もう話さなくていい。あとはメールにしよう」
「…父さん」
僕は声を振り絞る。
「なんだ?」
「母さんも、いる?」
「あぁ、いるぞ。今変わる」
父さんが母さんに一言、二言伝えて電話を渡したようだ。
「もしもし、歌丸?無理しないで。父さんも言ってたけど、すぐに帰ってくればいいから。あなたがいてくれれば…それだけでいいんだから」
母さんは少し声が震えている。
どうやら泣いていそうだ。
僕は意を決して丁寧に喋る。
「ふた、り…とも。きれ、い、な声で、産ん、でくれ、てありがとー」
最大限今できるきれいな声で感謝を伝える。
「素敵な声をありがとう…歌丸。切るわね…」
ガチャ。ツーッ、ツーッ、ツーッ―――
(まだ…出せる)
僕は片方の手で喉を押さえながら、スマホの連絡帳の律の画面を開く。
しかし、発信ボタンを押すことができなかった。
電話しない言い訳を上げれば山ほどある。
国際電話で電波が悪い、律は今用事があるかもしれない、こんな声じゃふざけてるって言われるかもしれない。
(こんな声…)
僕は机を両手で叩く。
そして、涙は止まらない。
鼻水だって出るし、喉だって痛い。
けれど、止めることができなかった。
なぜなら、もう僕には、『彼女が大好きと言ってくれた声』が出せないのだから―――
※ ※ ※
出国や退学の手続き、通院の付き添いなどアドルフ先生は親身になって付き添ってくれた。
わずかな期間ではあったが、様々なところへ連れて行ってくれた。
そんな中でもオペラ劇場へは何度も連れて行ってくれた。
『ニーベルングの指輪』を見終わった後、アドルフ先生はつぶやいた。
「黄金の林檎があれば、私は喜んで君に差し出しただろう」
黄金の林檎とは『ニーベルングの指輪』にも揶揄されて登場する、食べると不老不死になれるという北欧神話に登場する食べ物である。神々が欲しがり、争いの種になった林檎。そんな実があれば、僕の喉も元通りになったのだろうか。
それにしても、やはりドイツに来て、先生に会えてよかった。
こういった素直な感動や、気持ちを取り繕うことなく素直に伝えてくれる。
だから、僕も自分の才能のすべてを恥ずかしがることなく大胆に表現することができたのだから。
僕はスマホに文字を打つ。
『先生、僕は先生に会えて本当に感謝しています』
「ウタマル、それは私もだ。自分を信じなさい、君には天性の感受性がある。君は素晴らしい声を失った。しかし、君には耳も、鼻も、目も、そしてここ。ここに素晴らしいハートがある」
アドルフ先生は僕の胸のあたりに右拳を添える。
「このドイツと、この私に出会った経験をどうか役立ててほしい」
僕はありがとう、と言おうとするが、先生は優しい顔を浮かべながら人差し指で口止めする。
僕は両目に涙を浮かべながら、先生の右手を両手で握りしめながら強く頷いた。
※ ※ ※
「hっ」
日常生活で並大抵のことでは、声を出さないことに慣れた僕だったが、びっくりして吐息のような声をもらしてしまう。
なぜなら、律からメールが届いていたからだ。
怖かった。
彼女の期待にはもう応えられない自分。
僕はそのメールを開く前にゴミ箱にすてようと右クリックをした。
『君には天性の感受性がある』
先生の言葉を思い出し、指を止める。
自分の一番自信のあった表現方法である歌はもうできない。
今だって、一人でいると辛くなる時があるし、この辛さを誰かに伝えるのに声で伝えられないのは地獄のようだ。
しかし、僕はこの気持ちを受け止める。
僕にはまだ耳があり、目があり、心がある。
ベートベンは聴覚を失ったが、自分の中から新たに湧き上がる想いで新たな音楽を作った。
僕の音楽が終わったわけではない。
アドルフ先生はわざわざ僕のために時間を作って、多くの経験をさせてくれた。
それはアドルフ先生が、僕を同じ表現者だと信じてくれているからだ。
僕は歌手としての才能は使い果たしてしまった。
そんな僕が次の世界に進むには、どんなことにも目を背けている暇はない。
僕はゆっくりと律からのメールを開く。
すると、メールには動画サイトのURLが付いていた。
僕はそのURLをクリックすると律が写っていた。
「やっほー、うたちゃん。君の大好きな律だよ」
律は身振り手振りをしながら話しかけてくる。
「あなたの、お母さんから、聞いたよ?歌えなくなるかも、知れないことを」
律はよくわからない動きをしながら、まるで日本語がわからない人に言葉を伝えるように話す。
「私ね、手話を、覚えたの。今度、日本に、帰ってきたら、教えてあげるね。新しい、世界は、海外だけじゃないよ?待っている…は、こうかっ!」
どや顔でポーズをする律。
「うたちゃんの、声、も大好きだったけど、一番大好きなのは、ここだからね」
両手のひらを胸に当てる律。
「ばいばーい」
両手を振って、律の動画は終わる。
いつも明るく、いつも僕に居場所を作ってくれた幼馴染。
運動が苦手で、なかなか男友達ができなかった小学生の頃。
律は僕の歌声を褒めてくれた。
律は僕の手を取った。
僕は律に手を取られて、合唱クラブに誘ってくれた。
律の歌声はお世辞にもうまいとは言えなかった。
けれど、嬉しそうに僕とハーモニーを奏でてくれて、僕も律と歌うのが一番好きだった。
1年前―――
「なんで、海外なんて行くのよ…」
「また、言ってるし…」
空港で半泣きになりながら、律が文句を言う。
「自分の世界を作っていきたいんだ。じゃないと、自信を持って…その」
「何よ?」
「その…今度は僕が律を素敵な世界に招待したいんだ」
「別に今だって…、ていうか、今度は、って私そんなことした?」
不思議そうに見る律。
「うん。だから…楽しみに待ってて」
「言うように…なったじゃない」
僕は今までの自分から卒業するために海外へ行く。多少強がりでも自信を持って言い切ると決めていた。
「待ってて…いいの?」
「うん?」
「じゃあ、待っててあげる」
律は満面の笑顔で笑った。
僕は世界に飛び立った。
けれど、動画を見ていつでも待っていてくれる律を見ていたら、孫悟空を思い出してしまった。
どんなに離れても僕の居場所は―――
※ ※ ※
「お客様、シートベルトをお願いします」
飛行機がもうすぐ日本へ着くとアナウンスが流れていたが、シートベルトをしていない僕にCAが声を掛けられる。
僕は覚えたての手話とジェスチャーを使って、トイレに行きたいのを伝えると、理解してくれた。
トイレを済ませると、CAが待っており、僕は会釈をして、席に急いで座り、シートベルトをする。
『私も空港で待ってるから!お土産待ってるよん♡』
最後に来た律のメールを思い出す。
(どんな顔をして会えばいいのだろうか)
飛行機が揺れだす。
どうやら、高度を下げているようだ。窓の外から陸が久しぶりに見えてきた。
僕は成長して次会うときには、律に想いを伝えようと決心していた。
けれど、唯一の
僕は律に恋愛感情を抱いている。
それは母親も気づいていただろう。だから、連絡を取ってくれたのだろう。
いつもお節介な母ではあるが、今回に関して言えば感謝でしかない。
帰って検査はするが、手術をしたら僕は声を失う可能性が高い。
そして、大丈夫とは言われていたが、最悪ガンが転移していたら、死ぬかもしれない。
飛行機が地面に接触する。
飛行機の事故の確率は自動車より少ないとはいえ、着陸は死なないように毎回祈ってしまう。
どうやら、今回も無事生きて日本に帰れたようだ。
肩の力を抜く。
『会って伝えたいことがあるんだけど、空港に来てくれないかな?』
死を覚悟したから遅れたメール。
『もちろん。素敵な世界見せてね!』
ポンッ
(素敵な世界か…)
僕も他の乗客もシートベルト解除の音とともに動き出す。そして、彼女を素敵な世界に
(違ったら、いい迷惑だよなぁ…甲斐性なしの病人の言葉をなんて無下にできないし。弟みたいとか…)
日本ではそれなりに有名だった自分。ベートベンのように失恋話を後世に残したらと不安になりながら、荷物を受け取り、関税へ向かう。
(あぁ、どうしよう…成長するつもりで行ったのに不安で一杯…)
『自分を信じなさい』
アドルフ先生の言葉を思い出し、頬を叩いて鼓舞してロビーへ向かう。
気合は入ったが、心臓はドキドキしている。
「おかえりなさい、うたちゃん」
杞憂だったようだ。
その顔を見たら不安はすべてどこかに行ってしまった。
僕は手紙を読んでもらおうと声を出そうとするが、律は頷いてその文章を手に取り、読みだす。
ただ、最後の11文字だけは書いていない。
それは君が大好きといってくれたこの声で言いいたい。
―――だって、僕は律のすべてが大好きだから。
彼女が好きだと言ってくれた声 西東友一 @sanadayoshitune
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