第65話 悠子の想いと決意と不安。
私はあれから外に出ていない。あの式から帰ってきた日から一歩も。
流石に翌日から何かあるとは思ってはいなかったけれど、数日もすればどこからか広まったのかお姉ちゃんの悪評は周囲の人の耳に入っていた。
テレビやネットのニュースには喜納側の事がほとんどを占めていたけれど……
喜納貴志と不貞を働いていたお姉ちゃんの事はもっとごく一部、狭い世界で知れ渡っていた。
全国ニュースには出ないけれど、井戸端会議では目立つ内容といったところか。
お姉ちゃんがお兄ちゃんに対して托卵を企んでいた事は近所の間では知らない人は3割いるかどうか。
きっと外に出ればそのことについて聞かれてしまい、気が滅入る事は間違いない。
だからこそ外に出る勇気はなかった。
これらの情報は両親が実際に外出した時に味わった時のものだ。
後は深雪ちゃんからの心配するメッセージやメールによるもの。
私がやった事ではないというのに、携帯で深雪ちゃんから届くメールを読む手は震えてしまう。
学校が春休みに入っていたのは救いだったけれど、4月に入り1週間過ぎれば嫌でも新学期、新学年は始まってしまう。
学校に通う事が出来るだろうか。
恐怖で不安で一杯でガクガクと震えが止まらない。
そんな日々が続く。
ある日お兄ちゃんの部屋にあったものだろう、お姉ちゃんの私物が段ボールに詰められて着払いで送られてきた。
応対したのは両親だったけれど、荷を開封して理解した。
お兄ちゃんが自分の中からお姉ちゃんの全てを抹消しようとしている事を。
それは仕方がない事だと思う。お姉ちゃんのモノがあると嫌な記憶が浮かんで苦しいんだという事は容易に想像がつく。
さらには深雪ちゃんからのメッセージでお兄ちゃんが引っ越しを考えているというのを知った。
このままだと、お兄ちゃんとの接点が、繋がりがなくなってしまう。
そう思ったら外に出たくないとか、奇異な目で見られるかもとかは頭の中から離れていった。
外行きの恰好なんてしている余裕はない。
服だけ着替えるとそのまま家を飛び出していた。
お兄ちゃんのアパートの前に付くと呼吸が乱れてくる。
走ったからだけではない。言い換えようのない不安と恐怖が頭を過ぎっているからなのはわかっている。
一歩また一歩と近付き、階段を昇り、部屋の前に到着する。
荒ぶる呼吸を整える余裕のないまま、インターホンのボタンを押す。
もう後戻りはできない。何を言おうかという言葉すら浮かんでいない。
玄関の扉が少しだけ開いた。中からは焦燥したお兄ちゃんが半身だけ姿を現した。
「あ……ぅ……」
私は声にならない声が漏れていた。
激しい動悸を押さえてどうにか落ち着かせるように努めた。
「お、お兄ちゃん。」
ようやく出せた言葉がそれだった。
「お兄ちゃん……入れて。」
部屋の中に入れて欲しいだなんてどの口が言えたものかと思う。
だからこの玄関先だけで良いから話を聞いて欲しかった。
「……とは言えないのは分かってるから。ここで良いから、聞いて?お姉ちゃんの荷物届いたよ。開けてみて色々驚愕だった。」
お兄ちゃんがお姉ちゃんを完全に抹消しようとしている事が垣間見れたから。
楽しそうに映っている写真ですら何枚も……
焼いた燃えカスじゃなかったのが救いに思える程度にはマシに思えたけど。
「言いたい事も思う事もあったけど……お兄ちゃんはもう私達と関わりたくないの?お姉ちゃんは無理でも、私達家族とは元のようには無理でも、関わりなくなっちゃうの?」
本当はこんな事がいいたいわけじゃない。でも何か言葉を発しないと今すぐにでも扉を閉められてしまいそうで。
「今言う事じゃないかも知れないけど、私はやだよぉ。これからもお兄ちゃんと呼びたい。それすらも否定されるのは嫌だよぉ。」
こんな泣き言を言いたいわけじゃない。でもこのままだとお兄ちゃんはどこかわからないところに行ってもう二度と会えなくなる、そんな気がして……
「帰ってくれ。悠子ちゃんが悪いわけじゃないのは頭の中ではわかっているつもりだ。だけど今悠子ちゃんが訪ねてきた事で動悸が激しい、少し吐き気もしてきている。」
「今は必要最低限しか絡みたいとは思えない。悠子ちゃんも俺の事は放って置いて自分の事を考えた方が良い。来週から新学年だろう。」
やっぱり高校時代のお姉ちゃんと似ているという事でお兄ちゃんの心が破裂しそうなんじゃないかと思った。
私のこの行動が時期尚早なのはわかってた。
分かってたけど、動かないといけないとと飛び出していた。
かけるべき言葉も何も思いつかないままだったから余計拗らせただけになってしまった。
でも、本当はずっとお兄ちゃんが好きだったとか言ったらもっと苦しめてしまう。
もう寝る……とお兄ちゃんが言い、玄関扉を完全に閉めて鍵をかける音が聞こえる。
「うっ、うぅっ……」
私は泣いていた。
玄関扉に額を擦り付けて。
扉を見上げて。
扉に背中を預けて空を向いて流れる涙を少しでも落とさないように。
徐々に身体が重量に惹かれて低くなる。
やがて地面にお尻をつけて背中に玄関扉をつけて体育座りで顔を抱えて泣いていた。
そして気付けば目の前には深雪ちゃんが声を上げて身体を揺すっていた。
なんて言っていたのかは聞き取れなかったけど、心配してくれているのだけは伝わってきていた。
時刻を見れば22時近くになっていた。
その後深雪ちゃんに寄り添われながら帰った。
家の前に着いた時、私は深雪ちゃんの袖から手を離せなかった。
心配だからと背中をさすってくれる深雪ちゃんの手が暖かった。
不安なら暫く一緒にいてあげると優しく言ってくれる。
こんなのは卑怯だし、おこがましいのは分かってる。
それでも深雪ちゃんの好意に甘えて、黄葉家の中に連れていってもらう。
おじさんは残業で遅いらしくおばさんしかいなかった。
家には私が見つかったという連絡を入れてくれた。
落ち着いたら送り届けるからと付け加えて。
温かいお茶で身体を温めると、話を聞くからと深雪ちゃんと一緒にお風呂に入った。
正直どういう行動をしたかは覚えていない。
久しぶりに疑似姉妹よろしく入浴をした。
身体を洗いながら、髪を洗いながら、湯船に浸かりながら先程の事を話した。
「お兄ちゃんも頑なだからね。ともえお姉ちゃんの事はともかく、悠子お姉ちゃんに非がない事は理解してるはずだよ。」
「でも、まだ時期が早かったんじゃないかな。煽るような引っ越すかもなんてメールを送っておいてなんだけど。」
「お兄ちゃんは立ち直るよ。いつかはわからないけど。私達家族は支えたり励ましたりは出来るけど、隣で温もりや安らぎまでは与えられない。」
「その時の隣にいる人が誰かはわからないけど、私はそれが悠子お姉ちゃんであっても良いと思ってる。」
真剣な目で見つめる深雪ちゃんの眼差しに心にズキンと響いてくる。
「お姉ちゃんの事がなければずっと心の奥底にしまっておこうと思った感情なのに。日に日にしまっておくのが苦しくなった。」
「いつの間にかいなくなるくらいなら……伝えるだけ伝えて拒絶された方がまだ良いと思ってたけど……」
「いざ目の前にくると伝える事すら出来ない。悲壮感の垣間見れるお兄ちゃんを見ると自分のわがままを押し通す事が出来なかった。」
私は再び涙を流しながら思いの丈を漏らしていた。深雪ちゃんはただ黙ってそれを聞いてくれている。
零れた涙が湯船で波紋となって広がり私と深雪ちゃんの身体にまで届く。
「それでも姿を現すなんて事はしてしまったけど。」
「拒絶されてしまったと思うと心が破裂してしまったような感覚になっちゃった。そしたら深雪ちゃんが来るまでずっと泣いてた。」
「嫌だよね、酷い仕打ちをした人と同じ容姿の人に好かれても。お兄ちゃんは優しいからもう寝るって拒絶の仕方だったけど。」
「本当なら近寄るなとか二度と顔を見せるなと言われても仕方がないはずだった。」
「そうかなぁ。確かに心の整理はついていないとは思うけど。でもまぁ少し時間を置いた方が良いかもね。」
以前なら一緒にお風呂に入れば女の子同士きゃっきゃうふふなボディタッチをしていたけれど、今日はどちらもそのような事はしない。
雰囲気を変えるためには良いのかもしれないけれど、ふざけている場合ではないと悟っているのだろう。
「ありがとうね、話聞いてくれて。私には私にしか出来ない事、見つけてみようと思う。諦められないなら納得いく方法や答えを探してみる。」
玄関を出る前に深雪ちゃんが頭を撫でてくる。
「あんまり考えすぎないようにね。難しい事は大人の役割だよ。私達子供は、思った通りの行動をしても良いんだよ。」
「そこで思い詰めて苦しむのは悠子お姉ちゃんもお兄ちゃんも間違ってるよ。悩むのは良いけど思い詰めちゃだめだよ。」
「うん。わかった。今日は本当にありがとう。じゃぁ……またね。」
自分に何が出来るか何を言えるかはわからないけど、お兄ちゃんを支えたい、安心してもらいたい、その気持ちに嘘偽りはない。
まずは……来週始まる学校をどうしよう。
現実は非情で無慈悲だという事はわかってる。
みんながみんな深雪ちゃんのように考えてはくれない。
他人のゴシップ大好きな高校生がみんな優しいとは限らない。
耐えられるかどうか。
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