第34話 ☆アクマノショギョウ
「え……12週……?」
私が聞き返してから先の医師の言っていた事は頭にあまり入っていない。
そういえば、先月来てなかった。
今月も……
そういわれてみれば何度か吐いた時期もあった。最近は収まったけど。
バカだ。
そんな事にも気付けない程のめりこんで……
ど、どうしよう……
医師が気遣ってくれたが、それすらテレビの画面を見ているかのように他人事のように頭に入らない。
頭がサーっとするというのはこういう事なのかな。
このまま気を失いそうだ。
その後どうやって家に帰ったのか覚えていない。
正確には部分的には覚えているけど、タクシーを使ったとか、お金を支払ったとか。
産婦人科では母子健康手帳を貰うための妊娠証明書を受け取っている。
早めに役所に行って母子健康手帳を貰ってきてくださいと言っていた。
通常妊娠5~6週でもらうそうだけど、私の場合全然気付かず12週まできている。
一気に色々なものが押し寄せてきて気分が悪くなってくる。
家族には相談出来ない。当然真秋にも……
本当は相談するべきだと分かってる。
でも出来ない。
相談するという事は貴志との事を話さなければならないわけで。
真秋を裏切った事を認めるしかないわけで。
いや、身体を許した時点で認めてるようなものだけど。
ぼんやりとした記憶で残っている。
本来この時期に言う事ではないけれどと切り出されて言われた事。
それは中絶について。
母体保護法で決まっていると。
21週と6日までと。
22週以降は産むしかない。
私の場合12週のため死亡届が必要になる。
そんな事出来……ないよ。
たとえ11週目までだったとしても。
命だもん。
何も考えてない私が悪い。
頭の中を色々な考えと、もし真秋や家族に相談した時の事を想像して、ぼろぼろになる自分を想像して……
勝手に涙が出てきて、不安が段々ぼやけてきて……そのまま意識を手放した。
朝起きたら酷い顔と髪だった。
洗面所の鏡を見て誰だお前と言いかけたけど、これは今の私だ。
ちょうどその時妹の悠子が通りかかる。
「あ、お姉ちゃんおっはよー……って凄い顔になってるけど大丈夫?」
今は明るい妹の声は傷口に塩を塗り込むような、爪の間に爪楊枝を刺すような、胸にズキンとくる凶器に感じた。
悠子が悪いわけではない。
悠子の属性が聖なら私は幽鬼。
何を言われても何をされてもダメージが突き刺さる。
「ん、だいじょばない……けど大丈夫。」
「それってどっち?あまり無理しないようにね。もしかしてお兄ちゃんと喧嘩でもした?だったら早く仲直りしなよー。」
それだけ言って悠子は行ってしまった。
部活の朝練があるため家を出るのは早い。
私はさっきの悠子の言葉でオーバーキルされていた。
会社に連絡し、今日は体調が優れないので休ませて欲しいと連絡を入れる。
どうにか人様の前に出れる程度の身だしなみを整え、役所へ向かう。
どう転がるにしても母子健康手帳は必要だ。
役所では担当の人が親切丁寧に対応してくれた。
最近見かける事の多いマタニティマークのワッペンも貰った。
その足で再び産婦人科へ行き、現在の状況を記入する。
自分の事なのに未だ他人の事のように感じるのは、まだどこかで何とかなると思っている気持ちがあるからかもしれない。
本当はもうどうにもならないはずなのに。
真秋に相談をすればきっと怒られる。
家族に相談してもきっと怒られる。
貴志に相談したら……?何を言われるのだろうか。
香奈美ちゃんには相談出来ない。人の旦那と何してんのと激怒されるに違いない。
気が付いたら……あのホテルにいた。
今は私一人しかいない。
ここで……
あんな事をしたから……
もうモドレナイ。
戻れないのなら……
がちゃっ
何故かホテルの部屋の扉が開いた。
この部屋、会社が帰れない人用になんたらというのは嘘だった。
正確にはそういう部屋があるのは事実だけど、もっと質素な部屋だった。
この部屋は貴志専用だといつかの行為中に貴志は吐いた。
貴志の、父親の息のかかった者しか清掃も対応もしない特別ルーム。
だから風呂とトイレが別部屋だったのだ。
ベッドも大きいのだ。最上階なわけだ。
そんな部屋が勝手に開くという事は。
「あぁやっぱりここに来てたか。」
スーツ姿に香水の匂いを纏わせた貴志が入ってきた。
貴志は荷物を置き、ベッドに腰を掛け私の隣に座り、身体を寄せてくるとそのままない胸に触れてくる。
「た、貴志……は、話があるの。」
「そんなもんヤりながらで良いだろ。」
「だめ。本当に大事な話なの。」
私の真剣さが伝わったのか、興が削がれたのかはわからないけれど、貴志の手が胸から離れていく。
「わ、私……出来ちゃった。12週、3ヶ月だって。貴志との子供……出来ちゃった。」
自分で言っていて最低だと思う。殴れるものなら殴りたい。
「そうか。まぁ、こういう事もあるよな……」
数秒の間、二人して無言となるがその空気が重苦しくて息苦しくなる。
「俺な、香奈美とは政略結婚なんだよ。香奈美は本気だけどな。」
突然貴志が自分語りを始めた。私はこれから何を聞かされるというのだ。
「同年代という事もあって10歳の頃に家同士で許嫁の関係を結んだ。」
「まぁ俺も嫌いではなかったし、周りの女と比べても一番だったのは認めてるから、将来一緒になっても良いとは思ってた。」
「家の都合で香奈美と結婚する代わりに、多少好き勝手させてもらったけどな。高校時代100人斬りとかやっていたのもその一環。」
「香奈美は他の女と関係する事に関しては目を瞑っていた。自分を一番に見てくれるなら大目に見ると。」
「ウチの会社より香奈美の会社の方が大きいし、会社の拡大や存続を長い目で見た時に高梨の血を入れるのは大事だったと親父は言っていた。」
自虐的な笑みを浮かべて貴志が話す。
「親が決めた許嫁で、香奈美は本気で俺に惚れていて、俺は別に構わないかなという認識だった。」
「高校で目標を達成し、社会人になって多少なりとも金を自由に出来るようになったら今度は、旦那や彼氏のいる相手から巧みに寝取る事が目標になった。」
「高校の時も社会人になってからも、何だかんだ裏で親父が綺麗にしてくれた。」
「やってる事がクズなのは自分でもわかってる。お前も自分が抑えられないからわかると思うけど。」
「俺も抑えられない。だからクズみたいな目標を掲げて発散してきた。俺はお前のように禁断症状みたいなのはなかったけどな。」
「政略結婚でも心は満足はしていないけど、身体は満たされてはいたんだ。だから子供が生まれてからは香奈美だけで良かった。」
「良かったんだったんだけど、お前を見た時に眠っていた心が再燃した。」
「思い返せば、高校の時あの目標を立てたのは、お前を初めて見た後だった。」
それはどういうことだろう?私が引き金だと言っているように聞こえてくる。
貴志は立ち上がり、冷蔵庫から冷えたサイダーの缶を取り出しプルタブを開ける。
ぷしゅっと炭酸の噴き出る音が部屋に木霊し、貴志は一気に喉に流し込む。
「俺が本当に見ていたのは、お前だったんだ、ともえ。俺はお前の目に留まるよう色々していたんだ。」
「それに気付いたのはともえと最初にした時だったけどな。」
「今までは身体はともかく心まで満たされる事はなかった。香奈美では次点止まりだった。」
「こんな事言っても信じられないだろうし、ドクズなのはわかってる。」
「ともえ、その子供が本当に俺との子ならば産んでくれ。」
貴志の話をどう受け止めて良いのか直ぐには判断出来なかった。
今の話を要約すると、貴志は高校の頃から私を見ていた。もしかすると好きだったという事。
「で、でも……真秋や家族に合わせる顔がない。」
不安そうに貴志に縋りつく。もうそれしか出来ない。
全て飲み干したサイダーの缶をテーブルに置いて、貴志は考え込んだ。
「……一緒になるのには金がいる。親父の息のかかっていない金が要る。」
「ここまで来たら、俺はお前と一緒にいたい。だけど今表だって何か出来るわけでもない。」
「3年……3年時間あれば、どうにかする。今現在香奈美に落ち度がないから香奈美を悪者にしての離婚は簡単にはいかない。」
「だから3年かけて俺が悪くないというていで離婚まで持ち込む。」
「お前は、お腹の中の子をあいつの子だと認識させて結婚してくれ。そして頃合いを見計らってあいつを悪者にして離婚して欲しい。」
「慰謝料と、養育費という名目で金が手に入る。」
「それがあれば、親父にたとえ勘当させられたとしても、俺もともえも産まれてくる子も生活できる。」
「戸籍的に傷はついてしまうが、こうするのが自然と一番良いと思う。もちろん、計画の詳細は変更もあるかも知れない。」
「でもその計画……私が貴志を愛していないと成立しない。私は真秋を……」
「言えるのか?相談できるのか?妊娠してる事を?誤魔化すのは難しいぞ。もう医者に診てもらったのだから記録は残ってるだろ。」
そういえば役所にも行ってるし、産婦人科のデータベースにも記録は残っている。
「俺ならばそんな相談いらない。産んでくれ。俺のためにもともえのためにも産んで欲しい。」
悪魔の所業だ。
お腹の子を、本当は貴志との子なのに、真秋の子として偽り産んで。
結婚してしばらくして真秋を悪者にしたてて、慰謝料と養育費として金銭を得る。
「それでも私は……真秋……どうしたらいいの。」
貴志に聞こえない声で、この場にいない真秋に縋る。
妄想の中の真秋は……
「ともえがそんな女だとは思わなかった。汚らわしいっ。」
妄想の中の真秋は私に辛辣な言葉を浴びせていた。
「そ、そうよね、私が苦しんでいる時に真秋は何もしてくれなかった。あの時私を救ってくれたのは貴志。」
「私……もう苦しまなくて良いの?」
それは精神的にも性欲的にもだった。
「俺達の相性がぴったりなのは実感しているだろう?俺もそれは感じている。身も心も俺とともえはぴったりだ。」
貴志が両手を握ってくる。貴志の体温を感じると、何故か不安が霧散していく。
「だけど、計画が上手くいくまでは、これまで通りの関係を続けなければならないよ。」
「俺は香奈美と夫婦を、ともえはアイツと恋人を、じきに仮初の夫婦を。」
「そして二人の密会という真実の愛を語る場と。」
私はそれに誘導されるように一度頷いた。
「こんな事を今更言ってもどうしようもないけど……俺はともえに一目惚れしていたんだ。」
「だから、俺とともえが一緒になるためならば、超クズでも悪魔にでもなってやる。」
「私は真秋を愛してる。でもそれ以上に貴志を……」
7月から始まった関係が、23年の積み重ねを道端の石ころを蹴飛ばすように無造作に手放した瞬間だった。
もう戻れない。香奈美と真秋を陥れて自分達が倖せになるための計画はこうして動き出した。
同時に崩壊も始まっていた。その崩壊が誰に対するものなのかもわからずに。
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