自己ブランディングの挫折

 僕はWebメディアを使っての自己ブランディングが、ものすごく下手な人間だ。20以上のペンネームを持ち、ブログやWordPressや手打ちHTMLのサイトで活動をしてきたが、どれも零細メディアに終わっている。一貫した「自分」というものを、僕は持てない。何かを書けば書くほどに、自己同一性が拡散してゆき、自分が何者であるのか分からなくなってしまう。そういう類のニンゲンだ。


 きっと何者にもなれない。何者でもない。書かれた文章がそこにあるだけで《私》は実在しないのかもしれない。


「ブロガー」「メディアクリエイター」「アフィリエイター」「Webライター」何だって構わない。自分が何者であるかを知っている、――否、自分が何者であるかを自分で決められる人たちは、すごい。僕は彼らに憧れているリスペクトし、妬んでもいるルサンチマン。同じ場に、自分では辿りつけないことを知っている。


 自分が何者であるかを決めるのに、優劣はない。ブロガーの人は、自分のことをアフィリエイターだとは名乗らないだろうし、アフィリエイターの人も自身をブロガーとは呼ばない。第三者からは彼らのやっていることが同じに見えたとしても、本人にとっては全然違う。「アフィリエイターとブロガーを一緒にするな」と双方から怒られてしまう。


 この問題は「純文学とライトノベル」を語る問題に似ている。両者の関係に、優劣はない。純文学がライトノベルを馬鹿にすることはないし、ライトノベルが純文学を殺すこともない。けれど、人によってそれぞれの立ち位置ポジションがあるわけで、自分の属している場所こそ良いところだと信じたい。


 僕は活字中毒で、お腹の空いた青虫のように、文章であればどのようなものでも読んできたし、書いてきた。純文学、海外文学、ライトノベル、ケータイ小説、児童文学、BL小説に、妹萌えの官能小説。すべてのジャンルを読んで、同じだけを書いた。変に手を広げすぎたせいで、小説のジャンル間にある差異が分からなくなってしまった。


 どのような小説も、主題があり、構成を持ち、描写によって成り立っている。どれだけレトリックや脚本構成を細かく分析しようが、純文学とライトノベルのあいだに差異は見つからなかった。あるのは傾向の差のみである。差異が存在しないことは、アイデンティティを剥奪されることと同義であり、人を不安にさせる。認知的不協和から逃れるためにも、人々は《差異》を見いだすことを余儀なくされる。


 話を戻すと「メディアクリエイター」とは、差異である。ブロガーとの差異を見いだすことにより、自分自身の価値を創造している。これは自己ブランディングのもっとも有効な手法だ。差異があるから価値が生まれる。価値がないのなら、差異を見つけるしか無い。


「ブロガー vs メディアクリエイター」の対立構造は、本当はどこにも存在しない。両者に優劣はなく、争う必要だってない。けれども、私が私であるために、僕たちは差異を求めて他者と戦うのだ。


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