第27話

 騎士カランシア・グラジオラスがサントリナ辺境伯領地へとやってきて、一週間が経過した夏の日の午後。

 国境にほど近いサントリナ家の別邸、かつての戦時には前線基地として使われていたこともあると伝わっているものの、隣国との関係が良好な現在では主に魔獣討伐の拠点として活用されているそこの一室に、ルースはいた。

 傍らには、本邸から執務を持って追いかけてきた老執事が一人。


「……それで、なぜルース様はそうもコソコソと奥様から逃げ回っておられるのです?」

 一通りの要件を終えた老執事があきれたような表情でそう切り込むと、ルースはぐっと表情をこわばらせ、ついと視線を逸らす。

「別に、逃げてなんかいないさ。ただ、ここのところこの辺りの魔獣が活発化している。おそらく、王都の守護竜が力を取り戻したため追われたものが、その力の及びにくい範囲に集まっているのだろう。だから、こちらに拠点を移して討伐と状況の確認を……」

「その傾向は確かですが、まだあなた様が直接対処しなければいけないほどの状態ではないはずです」

 ルースの語る建前をさえぎえって心底あきれたように老執事がそう言えば、ルースはますます気まずそうな様子で、黙り込んだ。


 うつむいてしまった主にひとつため息を漏らした老執事は、問う。

「まったく、要するに嫉妬ですか? 奥様とあの騎士がいっしょにいる姿を見たくない、と? しかし、あの騎士については奥様の恋人ではなかったと、幾度も申し上げているでしょう。奥様の侍女リリーリアさんの婚約者だそうですよ」


「ああ、エマニュエルからの手紙にも、そう書いてあった。そこはもう疑っていない。そもそも、エマニュエルは、私ごときが独占して良い存在ではない。たとえ本当に彼が彼女の恋人だったとしても、私がそれに嫉妬する権利なんかないと、元から承知している」

 淡々とそう認めたルースをいぶかし気に睨んだ老執事は、硬い声音で、更に問い詰めていく。

「であれば、なにがご不満なんです? かわいそうに、ルース様に拒絶された奥様はすっかり消沈されて、グラジオラス様どころか誰とも会わずに部屋に引きこもっておられますよ」


「……誤解だとは、わかった。しかし、あの二人が並んでいる姿を見て、【エマ】と気軽に呼んでいるその様を見たあの瞬間に……、お似合いだと、彼女にふさわしいのは彼のような人間だと、痛感してしまったんだ」

 しばしの沈黙の後、静かな声でそう言ったルースを、老執事はいたましいものを見る目で見つめる。

「私が持っているのと同等か以上の地位と財の人間など、いくらでも……というわけではない自覚はさすがにあるが、それでもこの国にだって幾人もいる。その上で優れた色の人物だって、彼女だったら魅了するだろう」


 なにか反論しようとするように口を開いた老執事を視線で制し、ルースは暗い表情で続ける。

「エマニュエルは色は関係ないと言うが、世間のあたりや子孫のことを考えれば、見た目が良いに越したことはない。それは事実だろう? 私のような人物が彼女の側にいることは、マイナスにしかならない。彼女にふさわしいのは、彼女をしあわせにできるのは、容姿にもなにもかも優れた人物で……」


「エマニュエル様のしあわせを、勝手に判断なさらないでください」

 瞬間、バン、と荒々しい音で扉をあけ放ちながら、リリーリアがそう割り込んだ。

 その背後には、オロオロとした様子のカランシアが付き従っている。


 ルースから、いるはずのない人物がここにいる事態の説明を求める視線を受けた老執事は、しれっとした表情で告げる。

「誤解を与えてしまった件について謝罪をしたいとの申し出がありましたので、私がお連れしました。ルース様はエマニュエル様については『危険の多いこちらには決して立ち入らせないように』と厳命なさいましたが、この両名については特に言及されておりませんでしたから」


「聞き耳を立てるような真似をしてしまったことについても、合わせて謝罪させていただきます」

 謝罪の気持ちなど感じられないような淡々とした声音でそう述べ深く頭を下げたリリーリアに続き、カランシアも頭を下げる。

「申し訳ありません。なにもかも、軽率でした。とにかく逃げられる前にリリーリアさんのもとへ、と考えただけなのですが、領主様へのご挨拶の前に、夫人のもとへはせ参じたかたちになってしまい……」


「ああ、いや、謝罪は不要だ。今のことについても、特段人払いをしていたわけでもない。それにその、今二人が並んでいる様子を見ても、君たちこそが気持ちを通じ合わせているのだろうとわかる」

 そんなルースの言葉に、ちらりと視線を上げたリリーリアとカランシアは、揃って面を上げた。


「というか、実際にグラジオラス殿が彼女の恋人だとしても……」

「やめてくださいありえません」

 ルースの言葉を遮り心底嫌そうな声音でカランシアがそう言うと、ルースは不快そうに眉根を寄せる。

「それはエマニュエルに対する侮辱か? 彼女ほど美しく善良でこの上なく魅力的な人物の恋人とみられることを、そんな風に嫌がられる理由などないはずだが」


「めんどくさい人だな……。……ああ、いえ、なんでもありません。美しい美しくないの問題ではなく、人妻の恋人なんてものは、大概不名誉な立場でしょう。そもそも、俺はリリーリアさん以外に興味はありません」

「カランシアは、ものすごく趣味が悪いんです」

「心外だな。俺だけではなく、グラジオラス一門もみな、全力で顎を殴りつけても脳を揺らすこともできない細腕の貴婦人よりは、リリーリアさんを評価するはずだ。そして俺は、そこに至るまでの努力を見ているうちに、あなたに惚れた」

「……きっと、脳まで筋肉でできているのでしょうね。要するに、エマニュエル様の魅力の問題ではなく、コレの感性がへんてこなんですよ」

「そんなことはないと思うんだが……。まあとにかく、俺は俺の婚約者以外の恋人などと思われるのは心外だと申し上げたいのです」

 リリーリアに時折まぜっかえされながらも、カランシアはルースにそう訴えた。


 ルースは表情をやわらげ、うなずく。

「ああ、むしろすまなかった。仮定の話にしても、ずいぶん失礼なことを言ってしまったな。……君たちは、本当に思い合っているんだな」

 実に息のあったやりとりをしたリリーリアとカランシアを、ルースはそう言って眩しいものを見るような目で見つめた。


 その視線に居心地の悪さを感じたらしいリリーリアは、わずかに頬を朱に染めながら、エマが『小さくて桜色でかわいらしいのに、開くと辛辣な言葉しか出てこない』と評した唇を開く。

「コレは小児性愛をこじらせた変態なので、私こそが愛おしく他に興味はわかないらしく、近衛の地位を捨ててまで追いかけてきた程です」


「しょ、小児性愛というわけでは……! ……いや、あるのか? 実際、リリーリアさんのことをこの上なく魅力的だと思っているわけだからな……。……いや、しかしリリーリアさん以外の少女めいた容姿の人物にも少女にも興味はないし……」

 ぶつぶつとそんなことを言いながら考え込み始めたカランシアをさらっと無視しながら、リリーリアは続ける。

「こいつにとっては、近衛騎士としての王都での華々しい活躍よりも、それに付随する美しいお嬢さん方との縁付きよりも、……私といることの方が、しあわせなんだそうです。だから、ここまで追いかけてきたとか。エマニュエル様でも誰でもない、私を追いかけて」


「ええ、俺のしあわせは、リリーリアさんと共にあることです」

「もう少しそっちで考え込んでなさい小児性愛者」

 割り込んできたカランシアを、照れをごまかすためか過剰なほどに冷たい眼差しと辛辣な言葉で切り捨てたリリーリアは、こほんとひとつ咳払いをしてから、ルースに向き直る。

「……失礼しました。私が申し上げたいのは、エマニュエル様も同じ、ということです。あの方は、一般的なしあわせになんて興味ありません。もし興味があるなら、公爵家の権力を使ってでも王を脅してでも、それこそ、あなた様と仮面夫婦となった上であなた様を利用してでも、あの方ならどんなしあわせでも手にできたでしょう」


「だからこそ、自分は彼女の邪魔をしないよう、ここにいるべきだと……」

「それで手に入るのかもしれない世間のいう即物的でわかりやすい幸福なんか、それを幸福と思える心がなければ、なんの意味もないんですよ。少なくともエマニュエル様は、そんなもの望んでおられません。でなければ、あなた様の不在にあれほど憔悴することも、それを見かねた私どもがこうして動くことも、ありませんから」

 ルースの後ろ向きな言葉を遮って、リリーリアはそう断言した。

 カランシアと老執事、エマの様子を直接見聞きした二人は、それに同意をするように真剣な表情で頷いている。


 考え込み始めたルースに向かい、リリーリアは淡々と言葉を重ねていく。

「ご存じの通り、エマニュエル様はあの美貌と魔力を兼ね備え、血統も受けた教育も人柄もケチの付け所などなく、その上王家と女神のいとし子はあの方に負い目があります。どのような幸福だって、望めば手にすることができるでしょう。わざわざ辺境まで嫁いでくる必要なんて、ないままに。けれどあのお方は、あなた様を選び、望んでいるのです。あなた様と共にあることが、エマニュエル様にとってのしあわせなのでしょう」


 反論も思いつかないのか黙り込み、けれどその瞳に迷いの中にも希望を宿しつつあるルースにふっと微笑んで、老執事は告げる。

「正直、奥様のことがあってからは特に神殿のことはあまり好きではないのですが、それでもあの愛をなによりも尊び、感情面での幸福を重んじる姿勢は、悪くないと思います。心なんてのは、己だけのものです。誰に何を言われようと、変えることはできません。いい加減、奥様の愛を、信じてさしあげたらどうです? それでどんなことになったって、奥様の望みが叶うのだから、ルース様も本望でしょう?」


「どんなことになったってだなんて、執事さんこそ割と信じてないじゃないですか。まあ、世間の風当たりにさらされるうちに、決意が鈍ることはやっぱりあるんじゃないかな、とは、私自身、思わなくもないですけど……」

 リリーリアの、美しい人の手を取った色素の薄い者ブスとしての言葉に、カランシアは不満そうに唇を尖らせたが、それにふっと微笑んで、リリーリアは続ける。

「でもいつかカランシアが心変わりをしたところで、私の今感じているしあわせは変わりません。思い出をもらえるだけでも、私たちみたいなのには十分すぎるでしょう。辺境伯様も、ぐずぐずしてないでさっさと観念して、早めに今ある幸福を思いっきりかみしめた方がいいですよ」


「俺は永遠の愛を誓っているのだが……。いや、騎士という職務の都合上、早世の可能性は否定できないか……。……なんにせよ、今の幸福から逃げるなんてもったいないので、ちゃんと正面から受け止めてしっかり堪能した方がいいというのは、俺も思います」

 後半はルースに向けたカランシアの言葉に、ルースはとうとう吹っ切れたような笑みを浮かべ、ひとつ、うなずく。


「……ああ、そうだな。……エマニュエルに、明日にはここを発つ、と、伝えて欲しい」

 ようやくの前向きなルースの言葉に、老執事とリリーリアとカランシアはほっとしたようにうなずいた。


 けれどこの伝言をエマニュエルに伝えることは、誰にも、永久に、できないままだった。

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