第2話 やっと会えた運命の人

 え、なに、えっ、えっ、なんで、え???


 生温かくてぬるぬるしたものが、反射的に閉じた唇を割り開くように侵入はいってくる。それがなぎささんの舌だと気付いたのは、私の舌を絡め取られてから。

 探し当てられて、まさぐられて、表も裏も余さず愛撫されて、頭がチカチカして。渚さんが唇を離した後も、身体の奥から湧いてくる震えは止まってくれなかった。


「…………、ぁ、な、渚さん?」

 なに、何があったの? なんで、え、わかんない、何これ? あまりにもわからなくて思わず見上げた先では、渚さんがいつもの優しい微笑みのまま、じっとりとした視線を私に向けていた。

 唾液で濡れた唇がどこか艶っぽくて、意味がわからない状況なのに、なんでこんなに胸が高鳴ってるの……!? おかしい、渚さんもおかしいけど、私も――――


「ちょっとだけ、前のことなんだけどね」

 頬を染めたままの渚さんが、実年齢よりもずっと若いギラギラした眼差しのまま、話しかけてくる。

「わたし、付き合ってた人がいたの――女の子なんだけどね? その子ともここで出会ったんだったかな……、とっても純粋で可愛くて、素敵な子だった。最初はお互い戸惑うことばっかりだったけど、たぶんわたしたちお互いにとって初めての真剣な恋だった。ずっとふたりの関係は続いて、この想いは永遠不変だなんて、恥ずかしげもなく信じてたんだよ。

 でもね、そこにある男の人が現れて、彼女は変わってしまった。会社の付き合いとかでほぼ強制的に連れられていった忘年会で何かあったんだろうね、わたしよりもその人との時間をとるようになって、それからそう間を置かずに子どもができて、そのまま結婚したんだ。さすがに気まずく感じたのかもしれないけど、式にも呼ばれなくてさ。わたしがそのこと知ったの、親子3人連れで歩いてるのを見かけたときなんだ」

 渚さんの目が、私を透かしてどこか遠くを見ているようだった。私の後ろにある、私たち親子の影をじっと見つめるその視線は、今まで優しいとしか思ってこなかった渚さんの、まったく知らなかった一面を如実に表しているようだった。


「声はね、かけられなかった。3人が幸せそうだったからじゃないよ、そんなの気にしないし。その人はもう、わたしの会いたかった子じゃなかったんだよ――別の人を好きになって、結ばれて、寄り添ってるその人はね、もうわたしが好きで、わたしを好きだった“あの子”じゃなかったの」


 渚さんの話を聞きながら、私は考え付いた――考えずにいられなかった。

 苦しそうに、重い声で渚さんは語る。その過去に登場する“あの子”は恐らく――いや間違いなく私の母のことで。どうしてだろう、パート先のスーパーのエプロンを洗って干したり、お菓子を食べながらワイドショーを見たりしている母の姿と、めくるめく恋物語に登場する“あの子”は全然イメージが重ならないのに、帰ってからどんな顔で母を見たらいいかわからなくなってしまった。

 たぶん、もう私は母を今までと同じ目で見られない。だって母は、きっと渚さんのことを私よりもよく知っている、私の見ていない渚さんを見ている……。そう思うだけで、実の親に向けるようなものではない感情を向けてしまいそうな自分がいた。

 渚さんにこんな切ない表情をさせられるのはひょっとしたら母だけなのではないかと思うと、胸の奥から冷たい熱が込み上げて、お腹の中がねじ切れるように痛くて、喉のどこかがヒリヒリと痛くて。


「だからね、」

 小さく、ほとんど吐息に隠れてしまいそうな声で囁きながら、渚さんは私を抱き締めた。反射的に吸った空気には母のよく焚くアロマと同じ香りが染み付いて、それが更に胸を締め付けた。

「だから、わたし決めたんだ。もうあの子はいなくなってしまった。ちょっと誘惑されたらあっさり奥さんと子どもを裏切るような男のせいで、いなくなってしまった……それなら、あの子の代わりを探そう、って。あの子が連れている子が出会った頃のあの子と同い年になったら、またこの場所で会おうって」


 代わり。

 囁かれた言葉が、胸に重く沈んでいく。

 酷いこと言われてるっていうのは、わかっているつもりだった。私のこの気持ちは唯一無二のもので、薄れることなんて想像もできないほどなのに。


「今日、お誕生日でしょ? おめでとう、沙織さおりちゃん」


 それなのに、渚さんの言葉がとても気持ちいい。胸の奥に沈んでから、欠けていたパズルのピースを埋めていくように、ピタッと落ち着いてしまう。

 だけど、息が苦しくて。


「ねぇ、まだ具合よくなさそうだけど? わたしの家この近くだから、よかったら休んでいけば? 大丈夫、部屋はあの頃のままにしてあるから、邪魔なあいつはもうどこかへ流れていってしまったもの、今度こそ、わたしたちは誰にも邪魔されないから、ね?」

 嬉しそうに、まるで甘い夢をむさぼる少女みたいに微笑む渚さんの瞳には、誰が映っているのだろう。


 考えようとすると息苦しくて、つい口を開いて求めてしまう。

 私はもう、前までの私じゃなくなってしまった。前までの私と同じ空気では、きっと生きていけない。


 空気がほしかった。

 渚さんの空気を、私の中に。


「んっ――――、」

 唇を重ねた瞬間、全てが鮮やかに色づいたような気がした。

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流れる川に身を委ねて 遊月奈喩多 @vAN1-SHing

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