流れる川に身を委ねて

遊月奈喩多

第1話 いつも出会うあの人

 重さすら感じる鈍色にびいろの空の下、私は今日も川べりをただ歩いていた。別に何が目的とかそういうのも特にない――ほんとにただ気分に任せて歩いているだけ。それ以外に思惑とかそういうものもないし、なんなら家に籠っていたって別に良かった。

 だけどずっと家にいると母がうるさいし、休みの日に一緒に遊ぶような友達もいなかったから、今日も今日とて川岸にある並木道を歩いているのがぴったりだと思ったのだ。


 裸になった枝が風に吹かれて寒そうに震えているのを見上げながら、乾いた落ち葉を踏みしめてしばらく歩く。すぐ隣の幹線道路を走るトラックの排気ガスに風情を奪われることを除けばこの道を歩くのもけっこう悪くない。鳥とか風とかが運んでくるのか季節の花々も咲くし、流れる川の静けさは、表面上だけでもその穏やかな姿で私を癒してくれている。

 近くには、何が釣れるのかわからないけど、糸を垂らしたまま日頃の愚痴をこぼしたり、たまに居眠りしたりしているおじさんがいる。今日はひとりだからかスマホ片手に何かをしているけど、チラッと覗いてみると肝心の釣果ちょうかの方はさっぱりみたいだ。

 それから川向こうを見ると、新駅と併設されるように建てられた大型ショッピングモールとか、それとは対称的に建設途中で投げ出されて解体を待つホテル未満の瓦礫とか、人工的なものが目に入る。近くに高校があったりするからどうせそこの子たちの溜まり場にでもなってるのかななんて想像して笑っていると、「あら、今日も元気ね」と声をかけられてしまった。


「わっ、な、なぎささん? こんにちは……、」

 うわ、絶対見られたくないとこ見られたなぁ。


 声をかけてきたのは、霜月しもつきなぎささん。だいぶ前から見かけてはいたけど、こうやって話すようになったのは先月終わりくらいのこと。

 歩き疲れた足を休めようとベンチに座って、赤々と色づいた葉っぱを見上げていたら、渚さんが目の前で買い物の入った袋を落としたのだ。幸い割れるようなものは入ってなさそうだったけど、困っていそうな人を放っておくのはなんとなく寝覚めが悪くて散らばったものを拾ったりしたのが、私たちの関係の始まり。

 そして、私はそのときに…………。


「今日もお散歩なの?」

「え、えぇ、まぁ……はい、」

「楽しいよね、お散歩。たまにこうやって川の近くを歩いて季節を感じたり、静かな時間を味わったりするの……わたしも好き」

 渚さんは、とても綺麗な人だ。

 全体的にふわっとした趣味の服は可愛い系だけど、落ち着いた雰囲気とその笑顔の包み込むような柔らかさが、大人っぽく見える。……見えるっていうか、本当に大人なんだと知ったのは何回か話した後のこと。渚さんが私の母と同じくらいだと知ったときはこの世の不条理というものに思いを巡らせそうになったものだ。

 母と同じくらいの――もう少ししたら50歳になってしまうような人なのに、すごく綺麗で、美魔女という言葉はたぶん渚さんの為にあるような気がして、咲いてる花とか空で輝く星とかも照れて顔を隠すんじゃないかってくらいで。たぶん母と一緒に並んでいたら親子に見えてしまうこと請け負いな、そんな人と、私なんかが並んで話している。


 なんか、偶然だとは思いたくない。

 運命だとか自惚れたことを言いたいわけじゃないけど、渚さんとの出会いを偶然って言葉で片付けられてしまうのは、ちょっと違うような気がした。

 そんな彼女が何気なく発した「好き」という言葉に、どうしてだろう、こんなにも胸が震えて、もうどうにもならないくらい、叫び出しそうなくらい動揺している。

 落ち着け、落ち着け私、彼女が言ってるのは『散歩が好き』っていうことだ、それはそれで私と同じものを好きでいてくれている嬉しさはあるけど、こんなに胸を騒がせるようなことじゃないっていうか、そうだ、落ち着いた方がいい。


 だって、見えたじゃないか。

 初めて話すきっかけになった荷物のなかに、薄い箱が。こんな清楚をそのまま擬人化したような見た目の人でも、することはするんだっていう証明みたいに、その箱は彼女の荷物に入っていた。それはつまり、そういう相手もいるっていうことでしかなくて。

 当たり前と言えば当たり前だ、渚さんくらい綺麗な人ならそういうことしてたって不思議じゃない。きっと彼女と釣り合いのとれた、どこかのモデルみたいな人が相手なんだろうか?

 あぁ、おかしい。自分でもそんなのわかってるのに。


「? どうかしたの、沙織さおりちゃん?」

「ぁ、い、いえ……なんでもない、です」

「なんか元気なさそう、もしかして具合でも悪いんじゃないの?」


 違う、違うんです、悪いのは身体の具合なんかじゃない――あぁ、ほんとに我ながらどうかしてる。

 彼女が優しく微笑んでくれるたび、彼女の栗色の髪が風になびくたび、彼女が私の顔を覗き込んでくるたびに。


 私は、彼女を穢す想像をしてしまう。

 あの日から今までずっと、そして今日も、たぶん明日からも。


 渚さんは抵抗するだろうか。しそうだな、だっておかしいから。普通じゃない、頭がおかしいとしか思えない――自分ですらそう思うんだから、渚さんだってそう思うに違いない。

 どう考えたっておかしいってわかるのに……私は、私の中に芽生えたこの感情を止められそうになくて、苦しくて、目が回って…………。


「落ち着いて、沙織ちゃん。ゆっくり息を吸って、しっかり呼吸するの。ほら、ゆっくり……ゆっくり……」

「すぅ、はぁ……、――――、」

 倒れそうになった私を優しく抱き止めて、渚さんがさざ波のような声で囁きかける。言われるように呼吸してみると、なんだかすごく落ち着く香りが鼻に入り込んできた。渚さんの香水なのかな、落ち着くし、なんかいつもの自分を取り戻せそうな…………


「やっぱり、沙織ちゃんもこの香りが好きなんだ」

「え、……」

「お母さんはまだこの香りのアロマ焚いてる?」

 ……あ、そうだ、この香りは母がいつも居間とか寝室で焚いてるアロマと同じ――でも、なんでそれを渚さんが、


「――――」

 え?


 混乱している頭を更に掻き回すように、渚さんは私にキスをしてきた。

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