溺
徳野壮一
第1話
私がはじめて人を殺したのは小学5年生のころだ。
幼馴染の同い年、家もすぐ隣で肩まで伸ばした黒い髪とコロコロと変わる表情が魅力な女の子を……
アリにバッタにカエルにザリガニ。子供特有の残虐さで殺し遊んだことはあったが、積極的に動物を殺したい衝動は湧かなかったし、ましてや人を殺したいという考えは露ほども頭の中に浮かび上がることはなかった。
友達に付き合ってるのかと囃し立てられもムキになって否定することはなく、相手にせずいつも一緒に登下校するほど私と幼馴染は仲が良かった。赤いランドセルがよく似合っていたのを覚えている。
私たちが住んでいる町は田舎だ。緑が生い茂る山はすぐ見えるところにあるし、大きな川も流れていた。そのため大小様々な水路がこの地域一帯に造られていた。少し深い水路を隣に、見渡すと田園風景が広がる通学路を歩いていた。
「——君はさ私と一緒に帰るの嫌じゃないの?」
「僕は別に嫌じゃないよ」
私は昔、自分のことを僕と読んでいた。
「ふ〜ん。そっか」
車が一台が通れるぐらいの道路の端で私が内側、幼馴染が水路側と横に並んでいたのでどんな表情をしているのかわからなかった。が、頬に小さな窪みができているのは見ることができた。心なしか少しだけ僕との距離が近くなった気がした。
恋愛感情はよくわからない。愛なんて言葉はもっとわからなかった。彼女のことは嫌いじゃないのは間違いなかった。好きかと聞かれれば好きと答えていただろう。
会話がなくても苦じゃなかった。
昨日の大雨で水嵩と勢いが増した水路の水音と僕たちの足音だけが空気を揺らしていた。
心地よい背景音楽の中、急に別の音が乱入してきた。
背後から迫る、アスファルトとタイヤの擦れた音、けたたましいエンジン音が緩く揺れていた空間を呑み込んだ。
僕は後ろを振り向いた。ここら辺では見たことない白色の車だった。田舎には似つかわしくないそれが結構なスピードで走ってきていた。
僕は幼馴染の後ろに周り、道路の端で一列になった。
前を向いて歩いていた、僕の視界の白色が入り込んだ。
——その時。
僕はランドセル越しに受けた強い衝撃に押された。自分の意思に関係なく倒れそうになった身体が前を歩いていた幼馴染を、赤色のランドセルを水路に突き飛ばしてしまった。
水路と僕たちの間に遮るようなフェンスはなく、幼馴染はなす術もなく、濁った水の中へ落ちてしまった。
地面に身体を打ちつけた痛み。ドボンと立つ水柱。浴びる水飛沫。遠ざかるエンジン音。
運良く水路に落ちなかった僕は慌ててアスファルトを両手で押し、立ち上がった。
水路の深さはそこそこあったが、幅は広くはない。
——それがいけなかった。
うつ伏せて落ちた幼馴染は水路の壁に頭をぶつけ、膝が曲がった足は反対側の壁に着き、鼻と口が水の中にある状態ですっぽりとはまってしまったのだ。
水の進行を妨げるようにはまってしまった幼馴染の身体は水で包まれていた。
幼馴染は手をつかってでどうにか起きあがろうとするが水は指の間をすり抜けた。
浮かんでは消える泡沫。
何度も何度も同じ事を繰り返すのを僕は呆然と見ていた。
濁った水に赤色が混じり始めてやっと僕は助けなければと思った。
しかし、どうすればいいか全くわからなかった。
水路に飛び込んで大丈夫だろうか。僕の力で持ち上げれるだろうか。とりあえず息ができるようにしなきゃ。頭をぶつけた時に出血した傷はどうすれば。人を呼ばなきゃ。あの白い車はどこに行った。
いろんな考えが頭に浮かぶが、どれも形を保っていられず消えていく。
気泡が水面に登らなくなるまで、僕は見ていることしか出来なかった。
力なく垂れた両腕と黒い髪の毛が流れに晒されて揺れる。
そこには僕とドアミラーと何も言わない幼馴染の溺死体だけが残った。
犯人は捕まらなかった。
たまたま田んぼの様子を見にきたおじさんが一部始終を目撃していたらしい。
僕は捕まらなかった。
それどころか、沢山の人に
「大丈夫か」
と声をかけられた。
そんなに悲しいそうな顔していだろうか。あの時から一度も泣いたことがないのに……。
お葬式の時に幼馴染の両親が涙を流していた。
「貴方だけでも無事で良かったね」
抱きしめられながらそう言われた僕は平静を保つため唇を噛み切り血を流した。
その時のことを見ていた人が誰かに言って広まったのだろうか。田舎は噂が広まるのが早いから。学校でも友達が心配してくれた。
——おかしい。
車のドアミラーにぶつかったからといって紛れもなく幼馴染を突き落としたのは僕なのに。犯罪を犯した未成年が入ると聞いていた少年院にも入ることはなかった。
——おかしい。
本来なら責められるはずなのに。幼馴染の両親に
「お前が死ねばよかった」
と言われると覚悟していたのに。
——おかしい。
幼馴染が溺れているとき、言い知れないほどの快感が沸き上がだてきていたなんて。
無事で良かったねと言われたとき、笑ってしまいそうになっていたなんて。
自分が周りとは違うと感じ始めたのはそれからだ。居心地が悪くなって学校をサボり自分の部屋に引きこもるようになった。
自分の心の奥底で蠢いている何かを自覚し、嫌悪し、それでも思い出して込み上げる背徳的な快感に陶酔し、自責する。その繰り返し。誰かに相談しようものなら排斥されるのは目に見えていた。親にも相談できず、培った道徳心と反社会的な欲求が僕を引っ張りあっていた。
引きこもって1ヶ月ほど経った頃、家に幼馴染の両親が訪ねてきて、僕の部屋の扉越しに話しかけてきた。
「もう娘のように水路に落ちて亡くなる子供が出ないように水路との間にフェンスをつけようとしてるんだ」
「学校のみんなや町のみんなも手伝ってくれの。でもね私たちは——君にこそ手伝って欲しいと思ってるの」
長い間考えていた僕は、あの時僕を襲った衝動は逃げ出したい思いが生み出した錯覚かもしれないという答えを出していた。
亡くなった幼馴染のために罪を償うことができるなら自分の中にあるこの黒い思いも消えるかもしれない。
そうだ、僕はみんなと同じで優しくてしっかりしていて人が死にかけているのをみて喜ぶような人間じゃない……。
「やります」
そして私は部屋を出たのだ。
それからは私は勉強に運動にボランティアにと一生懸命に生きてきた。進学校に行き、入部した柔道部では全国選手権大会に出場。3位の入賞した。その後、一流大学に入学。首席で卒業し、優良企業に就職した。いろんな国のボランティア活動に参加したこともあった。
大学入学に合わせて田舎を出た私はマンションで暮らしていた。家事も全部しっかりとやっている。
特に料理は好きだ。
お金に余裕があった私は両親と幼馴染の両親にも仕送りを送った。拾った猫1匹飼っていた。
普通の人だと学校でも会社でも結婚生活でも倦怠期を経験するものだ。勉強を頑張って何かいいことがあるのか、今の仕事はつまらない、なぜこの人を好きになったのだろうと思うような状態のことだ。
人間ずっと全力では走ることができない。
しかし、私はずっとだれることなく結果を出し続けることができた。
それは何故か。
それはきっと——
人を殺した記憶があったからだ。
平凡な日常の中で非日常的な記憶をもって生活しているギャップが私を飽きさせることはなかったのだ。
殺してしまった罪を償おうと懸命に努力する裏腹、その罪はスパイスのように私の人生を彩った。
お前は凄いやつだと褒めてくれる人は私がが人殺しとは知らない。
優しくてかっこよくて好きですと惚れてくる女は私が幼馴染が苦しんでいるのを楽しんで眺める屑だとは思わない。
誰も気づかない。
こんなにおもしろいとは。
私は周りの連中とは違うのだ。
小学生の頃、疎外感を感じ引きこもったのが馬鹿らしく思えた。引き篭もるのをやめたときの考えも既に忘れてしまた。
道徳のなんてどうでもよかった。
自分が心の底からの悪人だと理解した。
社会人になって5年が過ぎた頃だった。
私は自分が悪人だと自覚してからの日常が無聊と化した。
……渇く。
もうただ良い人を演じて生活するだけでは物足りなくなってしまった。
日々が過ぎるたび、歳をとるたびにあの強烈な身を狂わせるほどの快感を身体と心が求めていた。酒でも金でも女でも満たすことができないそれを、生きようと必死にもがくあの時の映像を思い返しては沸き出す快感に浸っていた。
だが何度もリフレインするうちに薄れていく感動。
たまらず会社帰りに通り抜ける公園でバッタを指に挟んで潰した。指についたドロっとした液体を見て僅かに満たされるのを感じたが……まだ足りない。
蜘蛛を捕らえて洗面台にためた水の中に放り込んだ。
蛙をうまく踏み潰せば破裂音がする。
ヤモリの尻尾を切って、何回再生できるか試した。途中で四肢も再生するのか気になった。
猫を殺した。
——嗚呼、足りない。心が渇く。
わかっている。全ては誤魔化し、代替品でしかない。
——人だ。
——人をやらねば。もうこの渇きは潤すことはできない。
もう殺す人は決まっていた。
会社の帰りに見かけた女の子だ。近くにある学校に通っているらしく、黒髪の女の子。赤色のランドセルがよく似合っている。
今、目の前にいる女の子。
暗闇を等間隔で僅かに晴らす街灯。その道には女の子と私しかいなかった。
——どう殺そうか。
鞄の中に入っているボールペンを首筋に突き刺そうか。
それともとりあえず首を絞め、気絶させ別のところで殺そうか。
コツコツと波紋を起こす自分の足音がいやに耳についた。革靴を脱いで路地裏に放り捨てた。
夜を揺らすのはペチャペチャという彼女の足音だけ。
大人と子供の歩幅は広さが違う。
一歩、また一歩と距離が縮まる。
不思議と走ろうとは思わなかった。
徐々に、徐々に息を潜めて近づく。
あと一歩踏み込めば手が届く距離、女の子は気づかない。
激しい心臓の鼓動が早く早くと急かしてくる。
伸ばしかけた私の手が不自然に止まった。
それは一瞬のことで、空腹な獣が極上餌を目の前に置かれたときのように、殺しを渇望する僕は気にも留めず両の手を伸ばし女の子の細い首を絞め、血液の流れを止めようと組みついた。
——あれ、なんか濡れてる……。
百八十度ぐるりと首が回り、見上げてくる虚な瞳と目があった。ありえない方向に関節が曲がり、冷たい手が細腕に似つかわしくない力で万力のように私の顔を捉えて放さない。
「ねぇ……どうしてあの時、助けてくれなかったの?」
「……なんだかお宮入り臭いな、今回の事件は」
「不気味ですよね、水気のない道路のど真ん中で溺死体が転がってるなんて……。しかもすごい形相してますよ」
「ああ……。とんでもなく苦しかったんだろうな…………」
溺 徳野壮一 @camp256
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