雨と星屑とブラックコーヒー

 この夏、さゆりは失恋をした。


 付き合って約一年というところで、相手から切り出されたのだった。

 カラン。

 冷房の効いた喫茶店の片隅で、アイスコーヒーを飲み切って、取り残されたグラスの氷が揺れる。

 行き付けの駅ビル内の喫茶店は今日も繁盛していた。駅を行き交う人々を窓越しに眺めながら、さゆりはため息をつく。

 元カレとは、お互い上手くやれていると思っていたところだったため、さゆりはその時は愕然としたものだった。当初は自分の何が行けなかったのだろうかと、悶々とした。デートの時の服装がいけなかったのだろうか。しゃべり方が悪かったのだろうか。食事の時の箸を少し上に持ちすぎていたのが原因ではなかろうか等々。事細かなことにまで一人問答は尽きなかった。

 答えが出ることはなく、あの日以来、元カレを、さゆりは会うどころか姿も見ていない。それもそのはずで、元カレはこの春から社会人。さゆりは学生。二年の歳の差があり、会おうと意思を合わせなければ、時間が合わないのは当然だった。

 元カレとは二年前のサークルで知り合い、趣味や考えが意気投合した結果、半年後付き合うこととなった。その後、彼が大学を卒業し、会う回数は減ったが、生活に変化があっても上手くいっていた。と、思っていたのはさゆりだけだったらしく、空だけは秋めいてきた八月のある日、駅前のファミレスで唐突に別れを告げられたのだった。理由を尋ねると仕事が忙しい。という、ありきたりな答えが返ってきた。

 就職したばかりで、新生活に慣れたか否かの時期のため、そのようなことを言うのだと考えたさゆりだったが、バイトでしか社会経験がない自分が何を言っても説得力がないのは承知していた。

 すがりつくのもみっともない気がし、時間を置けば、考え直してくれるかもしれないと考えたさゆりは彼の言葉に頷いた。

 それから三週間が経った。

 彼からの音沙汰はない。彼の住まいや通勤経路は知っているが、なんだかストーカーじみている。繋がったままのSNSで反応を見るのも考えたが、あの別れが彼にとって“本物”だった場合、やはり自分は未練たらたらの元カノになってしまう。

 いや、もしかしたらすでに拒否をされているかもしれない。

 いずれにしても反応が怖くて、そのままにしていたのだ。テーブルに置いたスマホの黒い画面をじっと見つめる。

 好きなら、なりふり構わずつっこめよ!

 天使か悪魔か、正解か不正解かわからない心の声が頭に響く。

「でもなあ。ストーカー認定はやだよ~」

 所詮、その程度の情だったのだ。と、言う心の声も聞こえる。

 悶々と頭を抱え、駅前の喫茶店のテーブルにつっぷした。

 目の前にはノートパソコンの画面が煌々としている。文章作成ファイルを開いているものの、中身はこの店に入ってから約三十分、ずっと真っ白のままだ。

 大学の課題を進めなければいけないのだが、この問題がさゆりからやる気を失わせ、学業、バイト、生活の何もかもを気だるくさせていた。

(有明の、つれなく見えし、別れより、暁ばかり、憂きものはなし)

「昔の人は良いこと言うなあ。思い出がいっぱいって、……つらい」

 課題の参考資料に借りてきた本を意味もなくめくり、目にとまった歌を詠む。

(失恋とか未練って、こんなに気だるいものなんだなあ)

 この喫茶店も、元カレとの思い出がある場所だった。さゆりの住まいの最寄駅にあるこの喫茶店に、彼はいつも自分の最寄駅から七駅乗り継いで会いに来てくれていた。

 判を押したような全国チェーンの店だったが、待ち合わせ場所として最適なため、ちょっとした時間を二人で緩やかに過ごす場所だった。

 元々、彼と付き合う前から、この店で小説を読んだり勉強や課題をしたりしていた。さゆりにとっては、いつも通りの過ごし方である。一方で、そんなことも思い出してしまう場所になってしまっていた。

 未練を断つなら、思い出がある場所に行かなければよいのだが、それを実行すれば、さゆりは他県に引っ越さないといけなくなる。

 それぐらいに二人の思い出があちこちに詰まってしまっていた。

 今日何度目かのため息を吐いた時、店頭のドアベルが鳴った。新しい客が入ってきたようだ。何気なく店の出入口を見て、さゆりは驚愕した。

「え、うそ。なんで!?」

 新しい客は、元カレだった。

 一瞬、立ち上がって手を振る半年前の自分が脳裏に浮かぶ。さゆりは、こちらに気が付いた様子もなく入店した彼を、目が飛び出さんばかりに凝視した。彼は店員によって、さゆりがいる席の方に案内されて、近づいてくる。そして、後ろに連れがいることに目に留まった。

 女性だ。

 光に反射する程度に赤く染めた黒髪を後ろでひとまとめにした、二十代後半のスーツ姿の人物だった。元カレもスーツ姿なので、職場の同僚か取引相手か。

 二人は、席に案内される間も親し気に会話をしている。

 元カレがこちらを見る(ような気がした)。

「ひゃっ!」

 さゆりは咄嗟にテーブルの下に飛び込んだ。

(私の馬鹿!なんで隠れちゃった!?)

 心の中で叫ぶも思いもよらぬ行動に、さゆりは動揺した。

「こちらの席でお願いいたします」

 店員が促したのは、さゆりが座っていたテーブル席の後ろの席だった。さゆりには気が付いていないようだ。席と席の間には衝立代わりの背の高い観葉植物が設置されている。背中を向けて座ってしまえば、両席の相手が誰かは、簡単には気が付かないだろう。さゆりは、早鐘のように鳴る胸を押さえた。這うように席に座り直すと、低空姿勢で二人の様子を伺った。

 喫茶店のBGMや他の客の声が入り込んでくるが、耳に全神経を集中させる。

 彼らは注文が終えたばかりだった。とぎれとぎれに聞こえる二人の会話は、ありきたりな日常会話だった。内容から察するに、彼らは会社の同僚のようだ。仕事の今後のスケジュールを話している。

(なんだ、本当に忙しいんだ)

 どこかで彼の言葉を疑っていたことに、さゆりは勝手に傷つきつつも、納得した。

 自分が気にすることは何一つないと考え、体勢を戻そうとしたその時だった。

 聞き捨てならない言葉が飛んできた。

「ねえ、来月の――は、どこに行く?私たち、付き合って3年目じゃない? 記念に―――とか、――――う、かな?」

「――――。―――――」

 ザーッと周りの音がうるさく、彼女の質問に対する男の返答は聞こえなかった。

 否、周りがうるさいのではない。さゆりが外の音を聞き取れてないのだ。

 目の前が真っ黒だった。



 その後、どのように店を出たかをさゆりは覚えていない。

 普段の慣れだけで、支払いを済ませ、駅ビルの中を帰り道である東口に向かった。

 外は雨が降っていた。突然の夕立だ。今しがた降って来たばかりらしい。地面に叩きつけられた雨は、アスファルトの熱に溶け、地面は雨足ほど濡れてはいない。どこからか土の香りが漂っている。蜃気楼のような湯気が見える。

 耳の中にはずっと音が鳴っている。電波の届かないラジオ放送のようだ。雨音も伴い、嵐の中にぽつんといるみたいだった。ふと、脇に抱えたキャンパスバックの中で、スマホが震えていることに気が付く。

 友人の桃香からの着信だった。

 誰かと話す気分にはなれなかった。勝手に切れるのを待ったが、一向に切れる様子がない。

(明日、大学で会うのに)

 よほどの急ぎか。仕方がなく電話に出た。

『あ、さゆり!やっと出た~!ねえ、聞いてよ!あ、今、電話大丈夫?』

 桃香は慌てた様子だったが気遣いは忘れない。さゆりが「大丈夫」と応えると矢継ぎ早に話を進めてきた。

『今日ね、バイトの先輩に聞いたんだけど、あいつ、二股かけてたんだって!あいつって、さゆりの元カレね!さゆりにサークルで声かけておきながら、それより前からバイト先の、別大学の年上と付き合ってたの!信じられない!』

「そう……」

 桃香は興奮と怒りがスマホの画面を叩き割らんばかりに響く。

『この話、私の同高友達からの情報なんだけど、今二人は同じ会社にいるんだって!! さゆりの話をしたら、同じバイト先って分かってね、二人の就職先聞いちゃったの!絶対、二人で示し合わせたのね!一昨年、彼女の就活中に時間が空いたから、さゆりに声かけたんだよ!最っ低っ! 』

「そう」

 捲し立てる桃香に「もう知ってる」とさゆりは返した。つもりが言葉は喉でひっかかり、うまく出なかった。

『さゆり?大丈夫?』

 流石に反応がないさゆりに気がついた桃香が心配気に問う。

『今、どこにいる? わたし、そっちに行こうか?話、聞くよ?』

 戸惑いながらも気を遣ってくれる桃香の優しさが、さゆりの強ばった喉を弛めた。

「うん、ありがと。今日は、大丈夫。明日、大学で話聞いてくれると嬉しいな……」

 止みそうにない雨に消え入りそうな声だったが、友人には伝わったようだ。桃香はさゆりの提案に躊躇っていたが、最後は「また明日」と通話を切ってくれた。

 ふうと息を吐き、墨汁をこぼしたような空を駅の端から見上げる。雨が止む気配は一向になく、雨足はどんどん強くなってきている。雨具なしで濡れずに帰ることはできないだろう。遠くで雷も鳴っている。外に人の気配はなく、駅の中は突然の雨に立ち往生する人が増えてきていた。

 人が増えるとさゆりは心の奥がざわざわした。

 孤独感が妙に増す。

「よし」

 意を決すると、傘をささず、さゆりは大雨の中へと突っ込んだ。

 駅前の交差点を渡り、商店が並ぶ区画の通りを抜けて、住宅街の真ん中を抜ける長い坂をなりふり構わず駆け上がる。

「ばかやろおおおおっ!!」

 さゆりは大声で黒い空に向かって吠えた。すべて雨がかき消していく。

 まるで孤立無援の大海原に放り出された気分だった。



「ぎゃんっ!」

 川のように坂を流れる雨水に足を取られ、さゆりはみごとに転んだ。帰り道半ばほどの場所だった。

「痛ぁ······」

 夕立は雨足を弱めており、少しだけ空が明るくなってきていた。全身ずぶ濡れで今さら急ぐのも馬鹿らしくなったさゆりは、のろのろと荷物を抱え立ち上がろうとした。すると、そこへ頭上から声がかかってきた。

「大丈夫ですかっ?!」

 見上げると、二十代半ばほどの男性がさゆりの頭上に黒い傘をさしてくれていた。半袖シャツにスーツズボン、ネクタイを緩くしめたサラリーマン風の男性は、心配そうにこちらの様子を伺っている。

「大丈夫?すごい勢いで転んだみたいだけど」

「あ、はい……。大丈夫です」

 大雨の中、自分以外いないと思っていたところに、現れた人物にさゆりは驚きつつも、ゆっくりと立ち上がった。

「いやいや、大丈夫じゃないよ!足!血が出てる!」

「やだっ! 本当っ!」

 指摘された右足を見ると、スカートの裾に見え隠れしている膝から盛大に血が噴き出ていた。当然転んだのが原因だ。雨に濡れて水で薄く引き伸ばした赤い絵の具のように、血が膝から下へと落ち、サンダルと素足を浸している。

 その様を見て、急に膝が痛みを感じ始めた。じわりと涙が目を覆い、目頭が熱い。唐突な膝の痛みが、みじめな気持ちに拍車をかける。今すぐ、家に帰って引きこもりたい気分だった。

 そんなさゆりの気分など知る由もなく、男性は提案をしてきた。

「今すぐ手当てをした方がいいね、これ」

「あ、はい。そうですね·····」

 気のない返事をすると、男性の背中越しに見える建物から誰かが出てきた。

 黒いエプロンを腰に巻いた、飲食店の店員らしき人物だった。青い傘をさして二人に近寄ると、心配げにさゆりの様子を伺った。

「どうしましたか?」

「あ、マスター。彼女、今ここで転んだみたいで」

 ロマンスグレーと黒が混じった短髪に灰がかった碧眼にさゆりは目を見張った。

 怪我の痛みも何のその、ナイスミドルと言っても過言ではない整った顔立ちと落ち着いた雰囲気にさゆりは思わずマスターと呼ばれた彼を、足の先から頭までくまなく観察してしまった。

 初老にしては背筋がよく、しっかりとした立ち姿の彼は、最初の印象通り何かのお店のマスターらしい。男性とは知り合いのようだ。二人は何やら話している。

「では、お嬢さん。歩けますか?」

「え?へ?」

 ナイスミドルとしか形容できないマスターの話す姿に見惚れて話を聞いていなかったさゆりは、唐突にかかった声に慌てた。歯の根が浮くような呼びかけ方をされたが、彼が言うとなんとも似合っていた。

「私の店で手当てをしましょう。こちらへどうぞ」

「え、で、でも、そんな」

 彼は優しい笑みを浮かべると、彼の店だと言う赤茶色の屋根の洋館へと彼女を誘導した。

「大丈夫、ただの喫茶店だから。怪しいところじゃないよ。俺もこの店の常連ってだけだし」

 よほど不安気にしていたのか、常連客を名乗る男性がフォローをする。彼はほんの少しの距離なのに荷物を持ってくれた。そして、自分が濡れるのも構わず、傘をさゆりにさしてくれた。見ず知らずの二人の唐突な優しさに戸惑っている間に、さゆりは店の中へと促されていった。



 ドアベルの音が心地よく鳴る。

 入った途端、ふわりと珈琲豆の焙煎した薫りが鼻腔をくすぐった。

 店のマスターとその常連客に勧められて入った店は、テーブル席ごとに天井から吊るされた電気ランプが、うす暗い店内を優しいオレンジの明かりで満たしていた。窓からは灰褐色の雨景色が淡く入り込んでおり、外の世界とは別世界のようだった。

 奥のカウンターには、サイフォン式のフラスコとロートが並んでいる。調理スペースを挟んだ後ろには高級そうなカップとソーサーが四角に仕切られた棚にいくつも飾られ、まるで美術館の展示作品のようだった。

「こちらの席にどうぞ」

 マスターに案内された席は入口に一番近い、窓際の四人席だった。窓際には硝子製らしき猫の置物が置かれており、外光に当てられた深い青色が、置物の中に溜まっているのが印象的だった。

 窓からは住宅街の坂道が見えており、さゆりがころんだ場所もよく見えていた。

 向かいの椅子には黒いビジネスバッグ、テーブルには飲み物が置かれたままになっていた。グラス内に、あと一口といった程度に残された青い液体はソーダ水だろう。氷が音を立てて動き、ストローが揺れる。

 それらを見て、さゆりは合点が行った。この席はあの常連客の席だったのだろう。この席から雨の中、坂道で盛大に転んださゆりを目撃し、濡れるのも構わず、様子を見にきてくれたのだ。そして、荷物を置いたままの客を追って店のマスターが出てきたのだ。

「はい、ティッシュ箱とタオル。マスターがこれで拭いてください。って」

「あ、ありがとうございます。」

 席に戻ってきた常連客が持ってきたタオルでさゆりは髪を拭いた。真っ白なタオルは軟らかく、雨の日とは思えない太陽の匂いがした。タオルが汚れないようにしながら、ティッシュで足についた血を吸い取る。流血は止まっていたが、傷口からはじんわりと血が滲んでおり、ジンと痛む。大したことではないとも軽傷とも言いきれないが、雨によって血が引き伸ばされてしまい、酷い見た目になっているのは間違いない。

「救急箱も。自分で手当てできるよね?」

「はい。何から何まで、ありがとうございます。あの、マスターさん、は?」

 慣れない呼び方に戸惑いつつ尋ねる。

「マスターは奥のお客の対応で、手が離せないみたい。いつもは助手アシスタントくんやバイトの人がいるんだけど、今日は一人なんだって」

「そうなんですか······」

 人手が足りない時に厄介になってしまったことに、さゆりは恐縮した。

「じゃ、俺······僕はもう帰るから。この席は気にせず使っていてね」

 常連客は鞄を持つと、テーブルの上に伝票とお金を置いた。

「え、は、えっと」

 見慣れない行動にさゆりが目を丸くしていると、「この店、テーブル支払いだから」と返ってきた。

 店の内装の雰囲気も相まって、まるで異国に訪れたみたいだった。

 さゆりがしきりに礼を言うと、常連客は照れくさそうに店を出ていった。



 怪我の手当てを終えると、手持無沙汰になったさゆりはだんだんと落ち着かなくなってきた。

 助けてくれたマスターに黙って出ていくわけにもいかず、かといって寛げるわけもなく、そわそわと店の様子を見ていたその時だった。

「お怪我は大丈夫ですか?」

 穏やかで、響きの良い声に不意を突かれる。さゆりが上を向くと件のマスターが様子を見に来てくれた。

「ありがとうございます。血も止まりましたし、怪我も見た目より大したことなかったみたいです」

「それはなにより」

 マスターは常連客の飲んだ食器類を下げながら小さく笑みを浮かべた。そして、隣の席に控えてあった新しいコーヒーカップをさゆりの前へ置く。

「え?」

「コーヒーがお嫌いでなければ、どうぞ。暖まりますよ」

 置かれたコーヒーはガラス製のカップに入っており、黒く透明な光がテーブルに乱反射している。

「ありがとうございます」

 お代を払います。と、言いかけたが、見越したマスターは「サービスです」と優しく述べると、静かにカウンターへと戻っていった。

 姿勢の良い後ろ姿を見送ると、さゆりは店内を改めて見渡した。淡いオレンジの光と珈琲の香ばしい香りが満たす、薄暗い店内はどこかほっとする雰囲気を持っていた。窓から見える空は明るくなってきており、雨も落ち着いてきたようだった。窓際に飾られた青い猫の置物が、西に傾き始めた陽光を吸い取り、テーブルに青い影を落としている。

 さゆりはコーヒーカップに口をつけた。いつもは砂糖にミルクを入れるところだが、何となくそのまま飲む。

 コーヒーの深みのある苦味はさゆりには刺激的で、傷心と見ず知らずの人々の唐突な親切と相まって、泣きたくないのに涙が出た。




 その晩、さゆりは夢を見た。

 午後の出来事が原因だろう。少し熱っぽく、寝ているのに起きているような不思議な感覚があった。

 暗闇の中、さゆりは青い猫を追っている。猫は親切にしてくれたマスターの喫茶店に飾れていた硝子製の置物の猫だった。

 それが、生きているようにさゆりの前を走っていく。

 その猫がいなければ、さゆりは天地すらわからなくなるため、とにかく数メートル先の猫が発する淡く青い光を追いかける。すると、黒い穴のようなものに遭遇した。

 暗闇の中でもひときわ黒いそれは広大で、中心部に向かってグルグルと渦を巻いていた。少しでも触れば、その渦に巻き込まれてしまいそうだった。青い猫も渦の縁の前で止まっており、さゆりもその隣で立ち止まった。

 渦の中を覗くと、中央に何かがいるのが見えた。じたばたと動いている。

「えっ⁉ なんで??」

 それが何かが分かると、さゆりは思わず声を上げた。

 いたのは、元カレであった。

 元カレ、もとい二股浮気男が黒い渦に腰から下をはまらせて、両手をじたばたと振り回している。遠くてよく聞こえないが、「助けてくれ」と叫んでいるようだった。

「ど、どうしよう?!」

 おろおろとしてる間にも、彼の身体はずぶずぶと渦に吸い込まれていく。そこに、何が落ちてきた。こつん、と音を立て、さゆりの足下に転がったのは、小さな白い塊だった。

「ん、何?」

 さゆりは恐る恐る、それを拾って検分してる間にも、同じものがどんどん頭上から落ちてくる。

「これ、角砂糖?」

 それはまぎれもなく角砂糖であった。ざらついた白い表面にほんのり甘い香りがする。その一センチ四方の立方体が、見る見る間に雹や霰のようにあちこちに降り注ぐ。不思議なことに、角砂糖はさゆりや猫が立つ場所には溜まらず、黒い空間へと飛んでいったり、消えて行ったりした。

 渦に当たった角砂糖は、黒い穴にどんどん吸い込まれていく。どういうわけか角砂糖の雨は、彼女や猫には一度も当たらなかった。猫は悠々とした様子で、渦の中央を見つめ続けている。それでも当たってしまうのではないかと、身を屈めてた。上の方から、また何かが落ちてきた。

「へ?」

 大人の頭ほどの大きさがある角砂糖だった。他の小さな角砂糖を押し退けるように、暗闇から現れた。

「大きっ!」

 ひゅーっと打ち上げ花火のような音を立て、大きな角砂糖は渦の中央目掛けて、飛んでいく。

「あうっ」

 そして、元カレの頭に見事に当たった。

 かつーーん。

 ホームランが打ちあがったような軽快な音が鳴った。彼の頭に当たった勢いで、砂糖の粉がキラキラと星のように煌めいた。

 こうして、彼はなんとも形容し難い声をあげると、降りやまぬ角砂糖とともに黒い渦の中へと吸い込まれていってしまった。

「…………」

 何が起きたのか理解が追いつかなかった。呆気に取られていると、隣にいた青猫がわしゃわしゃと後ろ足で耳の後ろを掻いている。

 角砂糖は、相変わらず降り注ぐ。

 霰や雹というより、流星群のようだった。

 足下を見ると、頭上同様、広大な空間が広がっており、遥か遠くに一筋の白い光が横たわっていた。

 遠すぎて、川のようなものとしか思えないそれを、さゆりは何故か間近で見てるような気がした。

 一部の角砂糖はその川に集まって、どこかに流れて行く。

「ああ、天の川ね……」

 声に出して言ってみると、なんとも心地の良い響きだった。

 妙に現実的な夢だなあと思いつつも、今自分は寝ているのだという自覚があるのは不思議だった。ただ、元カレについては、夢にまで出てくるなと思った。一方で彼に向って「ざまあみろ」と思ってしまった自分がいるのも本当だった。さらに、その一方で、そんな考えが出てしまう自分が切なかった。

「宇宙から見たら、私の悩みなんて小さいことなんだろうな」

 小さく息を吐くと、さゆりは逃げない猫の隣に座った。なかなか目覚める様子がないので、しばらくこの不思議な宇宙を猫と眺めることにする。

 眼下に広がる角砂糖の星々と天の川ミルキーウェイは、さゆりの悩みを飲み込んでくれるぐらいには美しかった。

 どこからか、煎れ立て珈琲コーヒーの芳ばしい香りがしてきた。

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