夢想青猫喫茶店

双 平良

今夜は青い猫と踊るに良い日

「疲れた……」

 身体の奥に残る唯一の力を振り絞るように、恭一は息をはいた。

夜闇を吸い青黒くなった滑り止めが入った硬い坂道をとほとほと上る。肩に斜め掛けにしたビジネスバックの中身はいつもと同じ重さのはずなのだが、四日連続の終電帰りを達成した身には、ずいぶんと堪えた。

「来週も残業続きなんだろうなあ」

 明日は土曜日でやっとの休みだというのに、恭一は早くも来週のスケジュールを考え、陰鬱な気分だった。重たい足取りに重たいため息を下げて、それでも坂を進むのは、とにかく家に帰りたいが故だ。狭いが窓から海が見える見晴らしの良いアパートの部屋に戻り、どっぷりと眠りたい。

 ただただ、それだけの思いを胸にひたすら前へと進む。背後では、波の音が聞こえてくる。今日は満月だ。振り向けば、月光を反射した海の美しい景色を見ることができるだろう。見てみたい気持ちはあったが、ここで止まってしまったら、重くて足が動かなくなることは必至だった。

「そんなことより、ベッド。ふとん。まくら。おやすみなさい……」

 恭一が住むアパートは、駅からなだらかに上る坂道の先にある。一本道の両側には築何年か分からない昔ながらの住宅もあれば、建って数年程と思しき新しい住宅もある。新旧和洋の建物が混じり、適度に森もある閑静な住宅街だ。その中に点々とある街路灯と家々のカーテンの隙間から漏れる光を頼りに、恭一は帰りを急ぐ。坂道を登り切ればアパートはもうすぐだ。我が家の目印は左手の鬱蒼とした森と瀟洒な洋館を改築した喫茶店である。その喫茶店の赤い屋根が徐々に見えてきた。

 その喫茶店の店名を恭一は知らない。赤い屋根と茶色の落ち着いた壁が海辺の町に似合う木造の洋館で、看板がないのが特徴だった。昼に通りかかると、道沿いに面した大きなガラス窓の向こう、淡いオレンジのランプ照明が天井からつるされた薄暗い店内の奥で、カウンターの上に並んだコーヒーサイフォンがフラスコへ珈琲の雫を落としていた。店内では、老若男女の人々がお洒落な食器と共に優雅な一時を過ごしているのを見たことがあり、喫茶店であるのは間違いない。

 恭一は店を利用したことがないが、休日にこんな優雅な店で文庫本片手に珈琲を口にできたなら、さぞかし気分は良いだろう。と、夢想は何度もしていた。特に青い硝子製の猫の置物が飾られた窓辺の席に座れば、町と海が一望でき、贅沢な一時となるだろう。

「いいな、それ。最高の休日だ。クリームソーダもいいな……」

 いつもより強めの妄想をしつつ、憧れの席がある窓辺を横目に通り過ぎて行く。カーテンのない窓辺には、いつも通り、猫の置物が月と街路灯の光を吸って、きらきらと輝いている。

「って、光り過ぎじゃないか!?」

 思わず声を上げる。恭一は窓際に駆け寄り、硝子越しに中を覗き込んだ。そこには定位置に飾られた、等身大サイズの猫の置物があった。三画の耳はピンと立ち、尻尾は長くS字に曲がっており、リアリティの高い硝子細工だった。

「すっげー」

 恭一が覚えている限りでも青い硝子製だった置物は昼に見かける時以上に青く光り輝いていた。置物の内側から湧き出るような光の粒が猫の形を満たし、海にも空にも宇宙にも思える深い青色を周囲に乱反射させている。

「暗くなるとこんな演出してるのか。よくできてるなあ。電池式か?」

 恭一は感嘆の声を上げ、よく見ようと窓に手をかけたその時だった。

「うわっ、っと!」

 ぎぃっと窓が内側へと開いた。

「不用心な。内側に開くのか」

 己の不用心さを棚に上げて窓を見回すと、大きな格子窓の上部には十センチ程の鎖が繋がっており、窓が全開になるのを防いでいた。閉めようと手前に引けば同じく外側にも開くので、建て付けが悪くなっているのかもしれない。矯めつ眇つ、恭一が窓を閉め直そうとした時だった。左手、視界の縁で青いものが伸びやかに動いたのを恭一の眼は捉えた。

(ん?)

 見間違えかと二度見をし、それが見間違いではないと確信すると瞬きをひたすら繰り返す。そうこうしている間にも視界の青いもの……猫の置物は、準備体操をするかのように前足を伸ばし、後ろ足で首の根元をかき、最後に欠伸をする。そして、かたまって動けない恭一の目の前で、窓の隙間をするりと抜ける。音もなく地面に降りると、道の真ん中に出て行った。

 月明かりと猫の中から発せられる青い光が暗い夜道を照らす。ふと青い猫と目が合った。窓際にあった時と同じ、硝子製の凹凸で模した青い目だ。身体と同じように内側から輝く青い光があるだけで、目とは言いがたかったが、恭一には目が合ったと認識した。

 その"猫"は悠々と伸びをした後、道を超え、喫茶店の向いにある住宅と住宅の隙間へと入っていた。長い尻尾が旗のように揺らめいて遠くに消えていく。

「え?え?! えっ!!」

 恭一は猫が消えた隙間と先刻まで猫がいた窓辺を交互に見た。頭がもげるほど見比べても、どちらにも猫はいない。

(これは俺が"逃がした"ことになるのか!?)

 いや、この場合は紛失?窃盗?いや、でも勝手に出て行ったし!

 目の前の出来事についての考えを高速でめぐらす。これは夢ではないか?猫の置物が動くわけない。見なかったことにして、家に帰ってしまえ。そこまでの思考が出揃った時、喫茶店の窓の上、屋根の縁にこちらを見つめるものを、恭一は見つけてしまった。

 防犯カメラだ。

 窓から店の入口に向けて取り付けられたそれと目が合う。瞬間、恭一の腹は決まった。

「待てーーーっ!」

 真夜中の住宅街という後ろめたさから、極力小声で、しかし自分を鼓舞するように叫ぶと、恭一は猫を追いかけて走り出したのだった。

 猫が入って行った住宅と住宅の隙間を、恭一は塀と塀に身体を擦られながら、なんとか通り抜けた。抜けた先は大人が数人は立てる広い空間だったが、四方はよく似た作りの住宅に囲まれている。このまままっすぐ行けば、恭一の通勤路の反対側の道に出るのだろう。猫はいない。

 右、海がある東を見れば、背中合わせの住宅の隙間が段々畑のように下って連なっている。猫の気配はない。

ならば!と見た左、西側は住宅一つ分の先は藪だった。月明かりを通さぬ青黒い影を作り出した木々の手前にこんもりと青い光があった。

 例の猫だ。

 遠目でも分かる輝く猫は、恭一が再び住宅の隙間に四苦八苦し始めたのを確認したかのように、藪の中へとひらりと消えた。

「待ってくれ!」

 掛け声もむなしく、猫は待つことも戻ることもなかった。ただ、暗闇の中、青い光が点る。

 今にも消えてしまいそうな海蛍の一粒のような光に向かって、恭一は藪に飛び込んだ。勢いよく突っ込んだ低木はまったく手入れをされてないようで、枯れた小枝や葉、小虫が飛び散る。

 痒いやら痛いやら。感想も浮かばないまま、目標を掴んだと思った腕は空を切り、光が逃げた方を見れば、森のさらに奥で青い猫が毛繕いをしている。毛があるようには見えないつるりとした表面をあたかも普通の猫のようにくつろぐ姿に、恭一は無性にもやもやとした気分がわいてきた。

 猫は藪に引っ掛かったまま、呆然としている恭一を尻目に背中を見せると、ゆらりと森の奥へと消えた。暗闇の中、再び尻尾の光だけが道標のように揺れた。

「くっそ!あの猫~~っ!」

 勢いよく飛び出すと無我夢中だった。藪がなくなり、生え放題の草々と木々の間を抜けては、チャンスを逃さず猫へと飛び込む。その度に猫にさらりひらりと避けられ、残光を掴むこととなった。

「――もう、帰ろうかな」

 諦めて。

 弱音とともに空を仰げば、方々に繁った木々の隙間から、濃紺の夜空に満月が小さく淡く浮いている。

 (てか、今、どのあたりにいるんだ?俺……)

 ふと、我に返る。無我夢中で猫を追いかけて来てしまったが、そんな大した時間も経っていない体感はあるが、妙に深く感じる森に恭一は首を傾げた。この街の、この地域に引っ越して来て約半年。多忙に追われ、地理の多くを把握しているとは言い切れないが、それでも住宅街の隙間を埋める緑は森と林の中間のような草木の集合体ばかりで、どこも迷うほどの広さがないのは把握済みだ。のはずが、来た方も猫が消えた方も全方向見回してもあたりは深い森だった。気の早い夏虫が鳴く声が闇から響くばかりで、人工の明かりが見えない。

「こんな深い森もあったのか……」

 かいていた汗が瞬時に冷や汗に変わり、心拍数が上がっていく。そこへぬるりとした物体が足元をこする。

「うひゃえあばららららっ!?」

 意味不明な叫び声をあげ、生暖をまとった物体から何とか距離を取ろうと、恭一は踊るようにたたらを踏んだ。

「にゃあ」

「おおう!」

 慌てる恭一なぞ気にした様子もない間の抜けた声が足元に響いた。とっさに足元を見れば、件の青い猫が足にすり寄っている。頭から体、長い尻尾、全身を使って八の字に、恭一の両足に絡まってきた。

 猫はあいかわらず青く光っており、足元を照らしている。暗い中、青い猫型のランプが動く様は、恭一にいつぞや行ったテーマパークの夜のパレードを思い浮かばせた。音楽とともに賑々しく登場したパレードの電飾のフローの先頭ではなく、その殿を務めるフローの後ろ姿。音楽も人も静かに遠ざかっていく、どこか寂しい後ろ姿と猫の灯りはどこか似ているようで、心の奥底がきゅっと掴まれる感覚があった。併せて、どっと疲れが押し寄せてきて、身体が眠りを要求している。それもそうだろう。思い返せば、連続夜勤の帰り道だったのだ。一刻も早く布団にダイブするはずだったのではなかろうか。

(そうだ。この猫を捕まえて、早く元の場所に戻して、俺は家に帰るんだ)

 恭一はすぅっと息を吸った。まだ足元に絡みついている猫に悟られぬよう、構える。静かに慌てず、そっと猫の脇に手を突っ込んだ。

「お! よし、いい子だな~」

 想像よりも軽い猫をあやすように抱き上げたその時だった。

ごぽり。

 どこかで水泡がはじける音がしたのを、恭一は聞き逃さなかった。同時に視界が回転した。

「へ?」

 自分は転んだのだろうか。そんなことを他人事のように考えたのは、転んだわりには背中にさしたる衝撃がなかったからだ。だが、自分はいつの間にか空を見ていた。

少し黄色味がかった青い空だった。遥か上空ではカモメらしき鳥が何羽か飛んでいる。背中についた地面はやわらかな砂地で、自分があおむけに大の字で地面に転がっていることは分かる。足の先の方では波の囁きが耳をくすぐる。

 猫を抱いた瞬間に転んだのだろう。そう理解に及ぶが、それにしても青い空も砂地も海も見覚えがない。先ほどまでいたのは蚊や見たことがない小虫ばかりが大量にいる夜の藪だったはずだ。

(なんだこれ)

 あたたかい砂地に目に沁みるような青空、心地よい波の繰り返しは幻にしては随分としっかりと感覚があった。恭一は立ち上がろうと試みたが、どうにも起き上がれない。数日の疲れが原因なのは明白だった。砂地のちょうどよい手触りや温度、クリーム色がかった青空と城のようにそびえる入道雲、カモメの空中遊泳、定期的な間隔で耳の奥を打つ波音。すべてが、恭一が今夜求めていたものだった。

(なんか、もう、どうでもいいかも……)

 うとうとと眠気が瞼を強制的に閉じさせようと襲った。一瞬、今のこれが現実なのかもよくわからないが、恭一は静かに目を閉じた。否、もう開けられないぐらいに瞼が重かった。

(そういえば、あの青い猫、海の色に似てたな……)

 そんなことを思いながら、意識が波音にさらわれていくのを恭一はよしとした。

その日、恭一が見た夢は、いくつもの気泡が地中から空へとしゅわしゅわと舞い上がる誰もいない異国の海辺の景色だった。遠くで鯨の鳴き声も聞こえた気がした。



「大丈夫ですか!?」

 いつもならスマートフォンのアラームで起こされるはずなのだが、何故だか今日は人の声で恭一は目を覚ました。しかも、全く知らない人の声でだ。

「あへ?」

 突然の声掛けに変な声を出してしまった。その声の勢いで起き上がると、目の前には初老の男性がしゃがんでいた。ロマンスグレーの髪に同じ色の口髭を蓄えた彼は、背筋が伸びており、見た目より若く見えた。目鼻のほりが深く、碧がかった薄い灰色の瞳の色に日本人ではないようだったが、その口からはひっかかりのない日本語が繰り出された。

「大丈夫ですか? どこか、ご気分でも悪いとか?」

 最初に聞いた言葉を再度述べ、彼は心配げに恭一の様子をうかがった。

 それに恭一は困惑した。自分は家のベッドで寝ていたのではなかったのだろうか。頭を傾げるが、ここはどう考えても自分の家ではなかった。それどころから帰路の途中にある喫茶店の前ではないか。しかも格好はよれよれの砂っぽいスーツのズボンと半袖シャツという、仕事帰りのままの姿だ。いつもの仕事鞄は丁寧に喫茶店の窓の下の壁に立てかけてあった。その窓辺には硝子製らしき猫の置物があり、陽光できらきらと輝いていた。

 「あー。あー。あー!」

 そこに来て、恭一は思い出すようにこめかみを押さえた。そうして思い出したのは、帰り道にこの喫茶店の猫の置物を見たことだ。そこ以降の記憶がおぼろげだが、妙な爽快感があり、自分は家に戻って寝たのだと記憶は断じていた。しかし、実際はそうではなく、喫茶店の前で寝てしまったということになる。認めたくないが、実際、喫茶店の前でこの店の主人らしき人物に起されているのがその証拠だ。

 恭一は居心地が悪くなり、首の後ろをかいた。

「すみません。大丈夫です」

 恭一の一人問答を気にするでもなく、待ってくれている彼の右手にはスマートフォンがあり、もしかしたら救急車かあるいは警察を呼ぼうとしていたのではないかという気配があった。救急車はまだしもさすがに警察のご厄介はごめん被りたい。

「ご迷惑をおかけして申し訳ないです。俺、どうもすごく疲れていたみたいで、ここで寝てしまったみたいなんです」

 いくら疲れていたとは言っても、素面でやすやすと野外で寝られる人間はいない。苦しい言い訳だとは思うが、恭一は誠実が大事だと言わんばかりに述べた。

「そうなのですか? 確かに顔色があまりよくないようです。救急車を……」

「あー、大丈夫です! 救急車を呼ぶほどひどくないです!というか、むしろすっきりしているというか……」

 最後の言葉は小声で。

「 なら、家までお送りしましょうか? 私の店は朝八時開店なので、一時間ほどで戻らないといけないのですが、近くまでならお車でお送りできますよ」

 どこまでも親切な人なのだろうか。見ず知らずの変な行き倒れに対する丁寧な対応に恭一は目を丸くした。

「あ、いえ、そんなことは! 俺の家すごく近くなんです。この坂を上ったところなので、本当に大丈夫です。ありがとうございます」

 慌てて立ち上がると、恭一は鞄を抱えるように持った。こういう時に適切な言葉が出てこない所に、己の人間力だか社会人力だかの不足を痛感する。

「そうですか? でも、少し休憩されて行っては? 随分とお疲れのようです。幸いにうちは喫茶店です。よければ何か飲んでいきますか?」

 これは半分宣伝なのですが。

 にこりと静かに笑う彼は、やはりこの店のオーナーらしい。

「いや、でも、まだ開店前だし。俺、こんなよれよれですし。いったん着替えてから戻ってきます」

 謙虚なことを言いつつ、内心、店には興味があった。行き倒れる前にも確かにそんなことを考えていた気がする。窓辺の席で猫の置物を傍らに海を眺めての喫茶は最高だろう、と。

「家に帰るとまた外出するのは億劫でしょう。それに開店前ならなおさら誰もいないので私は気にしません。これも何かの縁ですし。私も下心が無いわけではなく、できれば少しでもお客さんを増やしたいので、宣伝の一環でもあるのです。なので、あまり遠慮なさらずに。モーニングもご用意できますよ」

「モーニング!」

 思いがけない提案に、うっかり謙虚さが宙に散った。腹の虫も悪びれずに鳴る。

「では、商談成立ですね」

 店主は再び丁寧な笑みを浮かべると、店の扉に鍵を差し込んだ。

「中へどうぞ」

 無駄のない動きで店主が先に店に入ると、店内の灯りが付いたのが窓越しに見えた。店内の淡い灯りが猫の置物にすっと集まっていくが、特に輝く様子はない。それを確認すると、恭一は店主に続いて扉を開け、思い切って彼に訪ねてみた。

「あの、クリームソーダはありますか!?」

 カランカランとドアベルが鳴り、閑静な住宅街の朝に溶けていく。

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