出席番号7番「遅刻常習犯」①遅刻します、母は言わず
今日、道の真ん中で猫が落ちていた。赤く潰された腹からは、何かが出ていた。
昨日、道の隅でカエルが落ちていた。ぺったんこになった体はかぴかぴに乾いていた。
気づくのは明日になるのか。
気づかれるのはそれより先になるのか。
それとも、誰にも気づかれずにいつの間にか消えていなくなってしまうのか。
俺は、遅刻常習犯。
いつだって誰かを、何かを待たせて遅れを取る。そんな性分に生まれた遅刻野郎。
最期に一度会おうと、古い友人から手紙が届いた。
これが最期だと、俺は間に合うように張り切った。
待ち合わせの時間は、手紙が届く一年前だった。
俺は遅刻常習犯。
どうしたって、どうやったって遅れてしまう。そんな、奴。
みんな。知ってるだろ?
知ってて、受け入れてくれるから、いつだって俺のこと待っててくれるんだろ?
こんな俺でも、みんなは振り返って見てくれるんだろ?
俺が産まれたのは寒い冬のことだったらしい。寒くて寒くて、雪が降るどころじゃないくらいの寒さだったらしい。
それを俺に教えてくれたのは、母でも父でもなくて、助産師だった人だった。
俺が産まれて何年か経った後。物心がついて周りを見るようになった頃。煩いくらいに俺はこの言葉を叫んだ。
「なんでおかあさんがいないの」
俺は母親を知らなかった。顔も、名前も。じゃあ、どうやってそれまで生きてこれたかって? 覚えてないよ。
でも、誰かが俺を助けてくれていたんだろうな。ミルクを与えて、おむつを替えて、寝かしつけて。それをしてくれたのは母親ではない。それだけは確かなんだ。
だから、俺は理解するまで泣き叫んだ。
「どうしておかあさんがいないの」
俺は、産まれてからずっと母を知らない。いや、違う。産まれたその瞬間にだって、俺は母の温もりを知ることができなかった。母になった女性の、務めを果たしてやりきった笑顔にさえ出逢うことはなかった。
俺の知っている母というものは、冷たくてかたい。そういうものだ。どろりとした赤い液体と、売っている肉よりも色味が悪くてかたい肉の塊。うん、生き物ですらなかった。と、思う。その時はもう既に。
俺の母は自分では子どもを産めなかった。身籠って、腹を大きくして、俺は彼女の胎内で優しく育てられたんだと思う。
誰もが漂っていた羊水の中で、俺は同じように膝を抱えながら。丸くなって。体温を分け与えられていた。
そんな気がする。
そのまま起きずに、ゆらゆらと夢の中で揺られていたら、誰も辛いことなんて知らずにいられるんだろうな。
きっとみんなも思ったことがあるはずだ。
産まれる前のあの場所へ還りたい。
あの温かくて、優しくて、何も知らなかった頃に戻りたい。
たぷん。たぷん。母の胎の中で揺られていたい。
誰だって、きっとそう思うんだよ。
まあ、俺は嫌だけどな!
言っただろ? 俺がいた母親の胎っていうのは冷たかったんだ。
冷え性とかじゃなくて、さ。
俺の母さん、俺が外に出る前に死んでたらしいんだ。
俺の母さん、俺が産まれる前に死んでたんだ。
俺は。
俺は。
産まれてくるのさえ、遅刻してきてたんだな。
俺は、今も昔も遅刻常習犯だ。
きっとこれからも、この遅刻癖はなおらない。
大事なときほど、遅刻する。
大切なことを知るのはいつだって一歩遅い。それが、俺なんだ。
母さんがどうして死んでたのか。それは知らない。知るべきことじゃないって、俺は思ってる。
例えば、事故だったとか
『ダレカニツキトバサレタンデスッテネ』
『テヲヒッパラレタミタイニトビコンダラシイワヨ』
『ナニソレ、コワイ』
『タダノジコジャナカッタノ?』
『シラナイワ』
『シラナイワ』
例えば、体が弱かったとか
『ニュウインシテレバチガッタカモネェ』
『ショウガナイジャナイ、イマハドコモイッパイヨ』
例えば、状況が変だったとか
『ダンナサンハ?』
『ルスダッタソウヨ』
『ニンプサンヒトリノコシテドコイッタノ?』
『ウワキカモネ』
『マサカァ』
例えば、状態が変だったとか
『オナカガイジョウニフクランデタラシイワ』
『ビョウキ?』
『ソレガワカンナイラシイノ』
『ニンシンノジョウタイジャナカッタトカ』
『ヨウスイジャナクテ、ゼンブチダッタラシイワヨ』
『ソンナコトアルノ』
『アリエナイワヨ』
例えば、例えば、例えば、例えば、
全部、聞きたくないことだった。
理解力のない小さな子どもの周りでされる黒い噂話たち。してる本人たちにはただの噂。言われてる俺からしたら嫌な噂。
どれが本当かわからないから、俺には全部が本当のことに聞こえてくるんだ。
しかも、質が悪いことに俺の耳にはそれは遅れて入ってくる。
だって遅刻常習犯だからな。
全部が遅れてやってくる。
俺は遅れてやってくる。
だから、ちょっと頭が追いついてきた頃に噂が耳に入ってくるんだ。
当然その時には父親の耳には入っている。悪い噂を耳に入れた父さんは、子どもの俺にいつもこう言った。
「お前が悪いんだ」
全部、全部、俺が悪いんだ。小さい俺はこう思った。
母さんがいないのも、父さんが怒るのも、他の人がひそひそ噂するのも。全部、全部、俺が悪いんだ。考えるのを一切止めて、俺は自分が悪い。それだけ考えるようになった。
その方が楽だから。
実際楽なんだよな。考えるのを放棄して下ばっか向く。自分が悪い、自分が悪い、ごめんなさい。それだけが頭の中に詰め込まれてて、他のことを考えない。
つまりさ。それ以上悪いこと言われても、自分が悪いで終わるから頭が理解しようとしないんだ。聞いたことも右から左へ全部が素通り。
体質のせいで何もうまくいかない。自分が悪いで工夫しようとしない。努力しても、うまくいったとこで普通の人並み。
どうしてこうなるんだろう。
その答えは「自分が悪いから」。
刷り込みって恐いよな。
だんだん頭が追い付いてきて、「自分が悪い」から「自分は悪いのか?」になってきた頃。それでもまだまだお子さまなんだけどさ。
四つ足歩行のハイハイも卒業して、やっと二足歩行が可能になった頃かな。自分よりも小さい子がいるのにやっと気づいたんだ。おんぶ紐でくっつけられたり、乳母車に乗せられたしわくちゃな猿。じゃなかった、赤ん坊な。赤ちゃん。
これはなんだ!? 多分保育所の先生にでも聞いたんだろ。
そこで知ったのは、人っていう生き物は産まれたら赤ちゃんで、成長して子ども、大人になるってこと。遅いだろ? でも俺にとっては重大事項なんだ。
だってさ、赤ちゃんが成長して子どもになるんだろ? それって、赤ちゃんを誰かが育てないと子どもにならないってことだろ?
じゃあ、子どもの自分はどうして今「子ども」なんだ。そういうことになるんだよ。自分だって産まれた時は赤ちゃんだった。
産まれ方がどうであっても。
自分はあのしわくちゃな猿、じゃなかった、赤ちゃんだったんだ。どう見ても一人じゃ生きていけない、あの赤ちゃんだったんだ。
誰かが俺を世話してくれた。誰かが俺を生かしてくれた。
それが、すごく。すごく、嬉しかったんだ。
誰だかわからないけれど。
誰かが、俺に生きて欲しいって思ってくれた。
今日、道の真ん中で猫が落ちていた。赤く潰された腹からは、何かが出ていた。昨日、道の隅でカエルが落ちていた。ぺったんこになった体はかぴかぴに乾いていた。
誰も気にしないで通り過ぎて行った。
だから、俺も同じなんだと思っていた。
明日は自分が地面を這っている。喉が渇いて、腹がへって、ガリガリに痩せた体で地面を這っている。外は寒くて心臓が凍る。外は暑くて頭が煮える。
それでもどうしようもないまま、息を吸うことも知らずに空気を吐き続けるんだろう。心臓を動かすことも忘れて止まり続けるんだろう。
そんな俺を、誰も気にしないんだろう。
ずっとそう思っていたんだ。
ずっと、ここにいちゃいけないと思っていたんだ。
だって、じぶんはわるいこなんだから。
だからさ、俺が子どもになるまで生きていていいよって世話してくれた誰かに感謝したんだ。誰かは知らないけれど。
産まれてこなきゃよかった。そう思うことは止まなかったけど、もうちょっとだけ生きてみてもいいかな。そう思ったんだ。
その時、やっとそう思えたんだ。
父さんは何も言わなくなったけど。
子どもの俺に母さんのことを教えてくれたのは、当時の助産師だった人だ。俺を、冷たい母親の体から取り上げてくれた人。
死体から生きた赤ん坊が出されるのは稀らしい。どれだけ稀なのかは知らなくていいことだって、その人は言っていた。大事なのは、今俺が生きてその人の話に耳を傾けているということ。そう、優しい声で言っていた。
俺が産まれた寒い日のこと。母さんが病院に搬送された時のこと。母さんが息を引き取った時のこと。母さんの腹の中に赤ん坊がいるってわかった時のこと。その赤ん坊が、生きているとわかった時のこと。
それと、母さんがどんな人だったかを、少しだけ。
その人は俺に解りやすく話してくれたんだと思う。でも、子どもの俺が思ったことはいつも同じだった。
おかあさんにあいたい。
ただひたすらに、母さんという人に会いたかった。赤ん坊だった俺がずっと一緒にいたはずの人。ずっと一緒だったのに別れてしまった人。
胎の中に戻りたいってわけじゃなかった。でも、その人の温かさが恋しかったんだ。母さんの体温が欲しかったんだ。
ずっと一つだったのに。ずっとへその緒っていう一本の管で繋がっていたのに。俺は母さんから切り離された。
おまえはもういらない。
そう言われた気がしたんだ。
父さんからは悪いと言われ続け、更には母さんから要らないと言われないといけないのか。俺は泣いた。
「おかあさんにあいたい」
「おかあさんにあいたい」
「おかあさんにあわせて」
俺は泣き続けた。
そんな俺の背中をさすって、頭を撫でてくれたのが助産師さんだった。
話もろくに聞かない子どもを、その人は優しく見守ってくれた。
君は生きていていいんだよ。生きてくれ。あの人の分まで、生きてくれ。
その人は。その男の人は、俺を見て、話しかけて、抱き締めてくれた。母親が与えるべきだった温もりを、その人は俺に与えてくれた。
俺は、その人に育ててもらったんだ。生きていていいんだって、生きて欲しいって言ってくれたその人。
顔も思い出せないけど。
声も思い出せないけど。
でも、その人の温かさだけは覚えているんだ。
大切なことを教えてくれた助産師さん。それを知るのは俺が中学にあがるくらいの時だ。
だって、俺は遅刻常習犯。全部が遅れてしまう。
俺は。
俺がその人に何かを伝えようと決めたその時には、もう、その人はこの世にはいなかった。ありがとうも言えなかった。でもその人は、ずっと俺の側にいてくれたんだ。たくさん、教えてくれたはずなんだ。
気づいた時にはもう亡くなってしまっていたその人。
俺に生きて欲しいと言ってくれたその人。
「君は、いらなくなんてないよ」
俺の心にその人の言葉が届いた瞬間、前を向こうと思ったんだ。母さんの分も、その助産師さんの分も生きていこうって、心から強く思ったんだ。
遅くなったけど、やっとそう思えたんだ。
助産師さんは、俺に一通の手紙を遺してくれた。いつか追い付いてくれますようにと願いを込めて、小さな子どもの俺の手にその手紙を握らせた。
「産まれてきてくれてありがとう」
ただそれだけ書かれた一枚の紙と、それに包まれた干からびた肉の管。
俺と母さんを繋げていた、へその緒だった。
大事な大事な想いのこもった、封のされた手紙。
それは俺の手の中に今でも握られている。
みんなと逢う約束の、同窓会の案内と一緒に握られている。
父さんは相変わらず何かを言っていた。黒い煙を吐き出しながら、俺に唾を振りかけていた。
すごく、すごく、嫌だった。悪い奴だ、全部こいつのせいだ。俺の耳には聞こえていた。
でも、もう。産まれてこなきゃよかったとは思わなくなった。
俺は遅刻常習犯。
やっと、自分の意思で生きていきたいと思った。そんな子ども時代。
遅いよな。
出逢いは遅くなかったのに、その意味を知るのが遅すぎた。俺は今でも後悔している。
でも、出逢ったその人たちは俺のことをわかってくれていた。遅れる俺のために何かを残して、先にいってくれた。
だから俺は、焦らないでその人たちを追いかけることができた。遅れてもいいから、自分のペースで歩んでいくことができた。
おい、友人A。
いい加減思い出したらどうだよ。
お前が待っててくれたのは、この俺だぞ。
この、遅刻常習犯だぞ。
待たせちゃったけど、ちゃんとお前のところにやって来た。
はやく思い出せよ。
思い出してくれよ。
生きて待っててくれたお前に、ありがとうって言いたいんだ。
はやく思い出してくれよ、友人A。
思い出すまで、今度は俺がお前を待っててやるからさ。
友だちだろ、俺たち。
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