第50話:愛鍵(あいかぎ)/最終話

明梨あかり、来てくれ」

 言葉を失ったあたしは、引っ張られるその手を振りほどこうとするけど、がっしりと掴まれたその手は振りほどけそうもない。

 掴んだ手を、空いてる手で掴み返して拒否の意思を示すも、全く動じない。

 やっぱり先にしゅんが喋り始めた。

 あたしより早く立ち直ってる。

 こんなあたしじゃ彼の隣に立つ資格なんてない!

 引っ張られて連れてこられた先は瞬の家だった。

「無理に連れてきてすまない。明梨と会ってほしい人がいるんだ」

 やっと手を離してくれたのはリビングのソファに座ってから。

「いいですよ。来てください」

 振り向きもしないままの呼びかけに応じて姿を現したのは

「明梨、大きくなったな」

 声だけでわかった。

 身がすくみ上がり、カタカタと体が震えだした。

 恐る恐る振り向くと、あたしから言葉を奪った張本人がそこに立っていた。


 数日前。

「やっとわかったか」

「うん、随分時間かかっちゃったけど、やっとコンタクトが取れたわ」

 瞬は母の協力を得て、明梨の父を探し出そうとしていた。

 彼自身も自力で探し出そうとしていたが、雲をつかむような話ばかりで苛立っていたところに飛び込んできた朗報だった。

「それで、話を聞いてくれそうか?」

「なんとかね。他人の家庭に口出しするなって怒鳴られたけど」

「家庭の事情に巻き込まれてる身にもなってくれって話だ」

 明梨の父が見つかり、話し合う場を母が調整してくれた。

 対面の当日。

「君か。私を探していた男というのは」

「初めまして。白須賀しらすかしゅんと言います。鐘ヶ江かねがえ家の家庭で起きたことに口を出す状況になってしまったことを心苦しく思っています」

「それで、何の用事かな?」

 鷹揚とした口調で聞いてくる。

「結論から言います。鐘ヶ江かねがえ明梨あかりさんと会ってほしい」

「もう娘とは縁を切った身だ。今更会う理由などない。それに、今更会っても無用に怖がらせるだけだ」

「理由を聞いてください。あなたがどう思おうとも一度は会ってもらうつもりです」

 怯むことなく真っ直ぐ、鐘ヶ江父の目を見つめる。

 俺はすべてを話した。

 高校に入ってから喋らない明梨と必死に関わり続けたこと。

 それまでずっと守り続けてきた幼馴染、親友のこと。

 明梨と恋仲になったこと。

 瞬自身が似たような境遇にあり、乗り越えてきたこと。

 明梨を傷つけてしまい、再び言葉を失ったこと。

 母に協力してもらってこの場を設けてもらったこと。

「話はわかった」

「なら…」

「答えはノーだ」

 迷いなく、よどみなく紡いだ返事がそれだった。

「…どうしてですかっ!?あなたにも子を愛する気持ちがあったはずです!彼女にした虐待が正しかったとでも言うのですか!?」

 声を荒げて目線が激しくぶつかる。

「今、私が会っても心を深く閉ざさせるだけだ」

「だからって…!」

 食いかかる瞬の隣で母は、無言で鞘に収まった果物ナイフをテーブルに置いた。

 あの時に出したものと同じだった。

「何のつもりだ?果物でも剥いてくれるのか?それとも、これで私を刺そうと?」

「先日、わたしは償うつもりで、これを瞬に差し出しました。それで気が済むなら、この身がどうなろうとも構わない覚悟を決めていました」

「それで?」

「瞬は…息子には、こんなことをして何の解決になるものかと一喝されました」

 シャラ、と果物ナイフの鞘を抜いて、その刃に視線を送る。

 刃の向こうに明莉の父がぼんやりと映っている。

「わたしは、考えることを放棄したんです。どうやって瞬に償うかを。暴力に暴力で応えることは、もっと大きな暴力を産むだけだ、と気付かされたんです」

 首を少し上に向け、喉元に刃先をあてがう。

「死んでしまえば楽になる。無視すれば平穏に過ごせる。けど、それじゃダメなんです。心を傷つけたなら、それを癒せるのは傷つけた本人にしかできないことです」

 ゆっくりと果物ナイフを鞘に収めて、テーブルに置いた。

 凛と真っ直ぐな目を鐘ヶ江父に向ける。

「だから、まだあなたに娘を想う気持ちがあるなら、逃げずに向き合ってください。愛した人と産みはぐくんだ、自分の子供と。そして、心を許せる伴侶パートナーが現れた幸せを、あなた自身が娘に対して祝ってあげてください」

 しばし沈黙が部屋を支配する。

「娘に対して贖罪しょくざいをしたいと考えているなら、これが最後のチャンスです。何なら、わたしに脅されて娘と会わざるを得なくさせられたと考えてもらって構いません。その程度の汚れ役なら、喜んで引き受けます」

 そう言って、母は果物ナイフを明莉父に向けた。

「俺からもお願いします。可愛い盛りの頃で手が切れたとはいえ、他の男に取られてしまうと思っただけで俺が憎くなる気持ちはあるでしょうけど、俺は本気です!」

 再び沈黙が部屋を支配する。

「…わかった。会おう」

「ありがとうございます。では、また連絡します」


 ガクガクと体が震え、顔は恐怖の一色に歪んだ。

 逃げようとしても体に力が入らなくて、ソファから転げ落ちるのがやっと。

 近づいてきて、その手があたしの後ろに回り、気が遠くなりそうになった一瞬

「許してくれ、なんて言わない。だが、謝らせてくれ。家から出ていったあの日以来、後悔の日々を過ごしていた。明梨になんてひどいことをしてきたんだ、と。自分のバカさ加減を呪い続けた」

 膝をついて抱きしめてきた父。

 気がつくと、瞬の姿が無かった。

「何度も、何度も、明梨に会って謝りたかった。だが、あれだけ怖がらせてしまった娘と会っても余計に心を閉ざすだけだと考えて踏みとどまった。あれから明梨のことを忘れた日など一日たりともない。できることなら何でもする。どうすればこんな私を許してくれるか、どれだけ考えても思い浮かばなかった。だから明梨の口から聞かせてくれ。どうすれば明莉の気が済むのか、教えてくれ」

 いつの間にか、体の震えは止まっている。

「…お父…さん…」

 自然に、声が出ていた。

「…ほんとに…痛くて…怖かったん…だから…」

 抱きしめてきたその体を、抱き返す。

「わかっている。どう償えばいい?」

「…もう…いいよ…そんなの…」

 もう、言葉はいらなかった。

 お互いに喉と涙が涸れるまで、声を出して泣き続けていた。


「…おはよう…ございます…」

 翌日、あたしは再び髪型を整えてメイクもして登校した。

「明梨!また喋るようになったんだね!」

 トタトタと駆け寄ってきて、抱きついてくる優愛ちゃん。

「良かった!一時はどうなることかと思ったわよ!」

「…うん…もう大丈夫…お父さんと…会ったよ…」

「えっ!?何もされなかった!?」

「…ずっと…謝りたかった…みたい…」

「そっか、ならもっと早く会えればよかったね」

 あの後、どこを探しても瞬はいなかった。

 玄関に書き置きがあって、鍵をかけたらドアポストに入れてくれと残されていたから、そうした。

「…瞬…おはよう…」

「おはよう、明梨。昨日は無理に連れていって悪かったな」

 もう、心を閉ざさないと決めたあたしの姿を見て、瞬は優しい微笑みで返してくれた。

「…それと…お話したい…ことがあります…時間を取れるなら…」

「わかった。今いいよ。場所を移すか」


 ガチャ


 開けたドアから風が吹き込んでくる。

 校舎をつなぐ渡り廊下の上、屋外渡り廊下。

「ここならいいだろ。俺も話があるけど、先に聞こうか」

「…あのっ…あの…時は…一番気にしていることを言っちゃって…ごめんなさい…!」

 深々と頭を下げて、これまで言えなかったことを…謝りたかったことを口にした。

「俺の方こそ、頭に血が登って配慮を欠いてしまった。ごめん」

 あたしは下げた頭を上げて、瞬の目を見る。

「…よかった…こんなに…気まずいままじゃ嫌だから…。また笑って…お話できないのは耐えられないから…」

「俺も、明梨とこんな状態で辛かった。このまま、明梨と別れてしまうのかと思ったら、怖くて仕方なかった」

 あたしは吸い込まれるように、彼の胸に飛び込んだ。

 優しく抱きとめて、包み込むように腕を後ろに回す。

 やっと、やっと帰ってこられた。この腕の中に。

「…もう…離さないでね…」

「ああ。俺には明梨が必要なんだ。離れてみて、こんなにも好きなんだと気付かされたよ。もう、離さない」


「よかった。明梨、白須賀くんと仲直りしたみたいね」

 屋外渡り廊下が見える窓の影からこっそりと様子を見ていた優愛がホッと胸を撫で下ろす。

「まったくだゼ。二人とも幼い頃の心的外傷トラウマを乗り越えられたようだナ」

「いつの間にいたのよ。司東くん」

 後ろからかかった声に、優愛は振り向きもせず呆れた様子で返す。

「俺もいる。おはよう、

「おはよう」

 塔下と入れ替わるように司東が姿を消す。

「これで、心残りはないな」

「うん」

 優愛は二人が見える窓に背を向けて、塔下と向かい合う。

「優愛…」

 塔下は優しい瞳で、自分の愛しい人を捉える。

「先輩…」

 優愛も同じ気持ちを込めた瞳で見つめる。

 二人はどちらからともなく、磁石が引き合うかのような自然さで、唇を重ねた。お互いにこれが初めてのキスだった。

「好きだ。優愛」

「わたしも、好きよ」

 優愛の片思いは、この日に終わりを告げた。


 あたしと瞬が仲直りした噂は瞬く間に学園中へ広がり、毎日のように瞬が受け取るラブレターは急激に減っていった。


 再び、瞬の隣で歩くあたしの姿がそこにあった。

 今日の瞬、どこかソワソワしているような気がする。

 あちこち周囲の視線を気にしてる感じもある。


「明梨に受け取ってもらいたいものがある」

「…何を…?」

 照れくさそうに少し頬を染めながら、小さな箱を取り出す。

「まだ気が早いかもしれないけど、受け取ってくれ。ホワイトデーに渡すはずだったものがこれだ」

 パカッと蓋を開けると、そこには銀色に輝く指輪が赤黒いふんわりした谷間に挟まれていた。

「…これって…」

「将来を約束する証だ。俺が買える一番の安物だったが、その分だけ決意を込めた」

 エンゲージリング。

 あたしは目に涙を浮かべて、信じられない気持ちでいっぱいになる。

「…ほんとに…あたしで…いいの…?」

「明梨以外との将来は考えられない」

 すう、と軽く息を吸う音が聞こえた。

「俺と結婚してくれ。明梨」

「…嘘…夢…みたい…」

 感極まっている顔をしているのが自分でも分かる。


 むぎゅ


 不意に、あたしの頬に軽い痛みが走る。

「これでも、夢かい?」

「…ううん…現実…」

「俺は卒業後、大学を目指す。大学を卒業した後、一緒に暮らそう」

「…うん…うん…約束…だよ…?」

「明梨が指輪これを自分から手放さない限り、ずっと一緒にいることを約束する」

 止まらない涙を右手で拭いながら、左手を差し出す。

 瞬は赤いふっくらした谷間から銀色の指輪をつまんで取り出す。

 そっとあたしの左手を取って、薬指に指輪が通される。

 測ったかのように、指輪はぴったり指に収まった。

 うっとりと指輪に見入っていると、その手前に瞬の手が入り込む。

「これでお揃いだ」

 入り込んだのは瞬の左手。

 薬指にはサイズ違いの同じ指輪がはめられていた。

「…うん…ずっと…大切に…する…」

 そういえば、まだ解決してない疑問がある。

「…瞬…」

「何だ?」

「…少し前…あたしを家まで送った後…どこに行ってたの…?」

「あぁ、疑われるようなことをして悪かった。これを買うためにアルバイトしてたんだ。仕事の鬼みたいな怖いファミレスの女店長で遅刻は特に厳しいんだ。明莉に何度か後を尾けられていたのは知ってて、でもこれのことを知られるわけにはいかなかったから途中で振り切らせてもらった。何度遅刻しそうになったことかわからないよ」

 そう言って、瞬の左手薬指にキラリと光るリングをあたしの顔前に掲げて見せる。

「…そう…だったんだ…ごめん…余計な負担ばかりかけて…」

「いいさ。俺が疑われるようなことをしてきたから、お互い様だ」

 フワッと微笑む瞬が、とても愛おしく見えた。


 どれだけ甘い愛の言葉よりも、この指に光る証が何よりも嬉しい。


 ことばは、人に何かを伝える大切な手段。

 けどそれはいいことだけでなく悪いことも伝わり、争う原因にもなってしまう。

 ことばでひとを理解する。

 ことばでひとに理解してもらう。

 ことばを無くせば、それはたちまち難しいことになってしまう。


 これからこうしていくつのことばをかわすのだろうか。

 ときにわかりあい、ときにきもちをたがえて、ときによりそいことばをかわしつづける。

 べんりであるとどうじに、こわいものであるということをあたしはわすれない。


 ことばをかわして、とざしているこころのとびらをあけるため。


 ことばという、愛鍵合鍵をむねにひめて。


 愛鍵 全50話 -完-

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