第32話:試案(しあん)
自分の部屋に戻ってカーテンを開く。
夕日の光がキラキラと差し込む。
キラキラした光の中、ぼんやりと外を眺めている。
喋らないでいた頃はこの一人きりでいる時間がとても落ち着いた。
けど喋るようになった今、一人きりの時間がとても苦しく感じる。
抱きしめあっていた感触がまだ残っている。
あの時、言葉はいらなかった。お互いのぬくもりは、万の言葉を贈り合うよりも遥かに濃密な気持ちを酌み交わしていた。
これでもかというほど抱きしめあっていたのに、離れて数分すら経たない内にもう逢いたくなっている。
一緒に居たい。
これほど誰かに寄り添っていたいと思えたのは、これが初めてだった。
お父さん…男の人に虐待された記憶が邪魔していて、男の人は苦手と思っていたのに、今は彼がどうしようもなく愛しい。
胸が苦しくなるほどに求めたくなる。
「…恋すると…こんなに…世界が…変わるなんて…」
心ひとつで見えてくるものがまるで違う体験をしている。
彩りを失い始める秋。
そして銀白の季節がやってくる。
それなのに、こんなにも華やいだ色で見えている感覚が不思議に思う。
きゅう、と胸が締め付けられる。
もどかしい。
彼は、他の女の子と一緒にいても満足できるわけじゃないみたい。
わざわざ会いに来て抱きしめてくれた。
数分前。
彼氏のぬくもりを感じながら、あたしは幸せなひとときに浸っていた。
「やっぱり、
「…他の女の子と…一緒にいてばかり…なのに…?」
「それは俺が望んでいるわけじゃない。かといって明梨との関係はまだ秘密だから、頑なに拒否するのは不自然だろ。実はあれ、疲れるんだ。自分の部屋ではいつもぐったりしてるよ」
そんなに疲れるんだ…。
トクトクトク、と胸に伝わってくる彼の心音は早い。
「…こんな…どきどきしてるのに…落ち着くの…?」
「そりゃ好きな人とこうして抱き合ってるんだから、どきどきするのは当たり前だよ。でも他の子と違って緊張しないでいられる」
言葉は、いらなかった。
抱きしめ合うそのぬくもりは、どれだけの言葉を交わしても語り尽くせない心をお互いの体で伝えあっていた。
「…やっぱり…文化祭の時…あたしをダシにして…他の子を遠ざけてたんだ…?」
「ああ、あの時は否定したけど、一緒にいて落ち着くのは明梨だと再確認した」
きゅ…と抱きしめる腕に少しだけ力が入ってきた。
「そうだ。明梨には知っていて欲しいことがあった」
「…何…?」
彼は昔のことを話してくれた。
「…そんな…ことが…」
聞き終わったあたしは、それをにわかには信じられずにいた。
でも、それを聞いて納得できたこともある。
「似た者同士だから惹かれ合ったということだろう」
「…そう…なのかも…」
「この話を他に知ってるのは当事者の
「…うん…」
背を向ける彼氏に、思わず抱きつきたくなる衝動を抑えながら背中を見送る。
「向こうしばらくはこうしてお互いの家で会うことになると思うけど、我慢するしかないな。辛い思いをさせてすまない」
「…仕方…ないよね…」
玄関を出て、くるりと回った白須賀さんは、笑顔で手を振ってくれた。
「それじゃ、また学校で」
「…うん…また…」
まさか、白須賀さんにそんな過去があったなんて、思いも寄らないことだった。
こんなこと、優愛ちゃんにだって言えないよ。
あたしはそのことを、墓場まで持っていくつもりで心の奥底へしまった。
けれど、このことを最初から教えてくれなければよかったと思ったのは、しばらく先のことだった。
母は予告どおり早く帰ってきた。
そしていつぶりだろうか。夕食を一緒にする。
「明梨、慌てなくていいけど、いずれは紹介してね」
「…何の…話…?」
「ん?今日抱き合ってた彼氏の話」
あっさりと言う母。
ボッ!
思わず顔が真っ赤になってしまう。
「…な…なんで…?」
「ほら、家を空けがちだから、防犯のためにカメラを玄関内に設置してるの」
………しまったぁ!忘れてた!!
「あんな熱い抱擁を見て、思わず小躍りしちゃったわよ。カメラのマイクが故障してて音が無いのは残念だったわ」
それだけは助かった。彼の秘密を知られるわけにはいかない。
「最近、明梨が喋るようになったのも、ウキウキしてるのも彼氏ができたからだったんだね?」
にこにこと笑顔を向けてくる。
「…昨日…彼氏になったばかり…」
「えっ!?昨日!?なら今日はお赤飯にすればよかったかしらっ!?」
「…もう…いいよ…その話…」
あまり追求されたくなくて、早々と食べ終わって自分の部屋にこもる。
まさか見られてたなんて…。
思い出しただけで顔が真っ赤に染まる。
あたし一人で抱え込まないと決めていたから、メッセージアプリ『Direct』で白須賀さんへ母に付き合ってることがバレたと伝えた。
『そうか。いずれは挨拶に行かないとな』
と、あっさりした返事がきた。
それだけ?
もっと焦った返事がくると思ってたから、少し拍子抜けする。
『でも、これで明梨の親公認の仲というわけだね』
そう…なるんだ。
そうだ。母には周りへ言いふらさないよう口止めしておかなきゃ。
どこから彼のことが漏れていくかわからない。
翌朝、母に彼氏のことは誰にも言わないよう伝えた。
朝は優愛ちゃんと一緒に登校する。
そしていつもの光景が広がっている。
彼氏は他の女の子に囲まれていて、あたしの入る余地など無い。
でも、囲まれているのは内心疲れると思うだけで、やるせない気持ちになる。
白須賀さんは望んで他の子と話をしているわけではない。
わずかに眉をひそめて彼氏に目線を送る。
「明梨、辛そうだね」
それを見ていた優愛ちゃんが声をかけてきた。
「…うん…本人が望んでいるわけじゃ…ないけど…やっぱり…落ち着かない…」
「彼も何か考えてくれてるのかな?」
「…わからないけど…まだこの関係は秘密…って…言ってた…」
「その言い方は何か意味ありげね」
移動教室の時間を前に、あたしは一足先にその教室へ行く。
優愛ちゃんはお手洗いに行っている。
「…準備…しておこうかな…」
教室の奥にある扉を開ける。
「明梨…」
「…白須賀…さん…?」
なんと先に彼氏が来ていた。
「…何…してるんですか…?」
「先生に呼ばれてな、準備している」
「…なら…手伝う…」
あたしは必要なものを探し始めた。
「明梨」
呼ばれて、振り向いたら
ぎゅ
正面から抱きしめられた。
「…ちょ…こんなところで…」
「昨日も思ったけど、やっぱり落ち着くよ」
押し返そうとしたけど、力が強くてその腕からは逃げられそうもない。
「明梨は俺の彼女だってみんなに早く教えたい。そうすれば今みたいに寄ってくる人も減るだろう。その分、堂々と一緒にいられる」
「…いつ…言うの…?」
「年内には広めようと動いてる」
あたしは押し返すのをやめて、彼の後ろに手を回す。
「明梨ー?」
ドア越しに優愛ちゃんの呼び声が聞こえた。
「…そろそろ離れよ…?」
「名残惜しいけど、仕方ないな。そうだ、グループDirectに誘うね」
抱きしめるのをやめると、
「…グループ…?」
「Directメッセのグループチャットだよ。今かなりの人数が入ってる。別にコメントしなくても、見てるだけでいいから」
「…わかった…」
スマートフォンを取り出して、Directのメッセージに招待アドレスが送られてきた。
ガチャ
「明梨?」
「…優愛ちゃん…」
ドアを開けて優愛ちゃんが入ってきた。
「ここにいたんだ。それと…」
「やあ。今準備中だから、教室に戻っててよ」
「あなた、明梨に変なことしてないでしょうね?」
訝しげな顔で白須賀さんに詰め寄ってきた。
「とぼけないで。明梨の顔が赤いもの」
あっ!
さっきまで抱きしめられていたから、顔が紅潮したままだった。
「明梨、何してたの?こっそりとね」
優愛ちゃんはそう言って、あたしの口元に耳を近づけてきた。
「…抱きしめられてた…」
「それだけ?」
耳打ちを仕返してきた。
「…うん…信じてほしい…」
「で、白須賀くん。何してたの?」
「今、明梨に聞いたんじゃないのか?」
「二人の言い分が合ってるか確認するのよ」
彼に向き直った優愛ちゃんは、いらだちを隠さないで詰め寄る。
「抱きしめてただけだ」
「本当にそれだけ?」
「君が明梨に聞いたのと同じはずだ」
じーっと目を見て、逸らさないことを確認して
「そ。確かに同じね。信じるわ」
と、納得した様子だった。
「君にとって俺はどんだけ信用無いんだよ」
「普段の行いを見てるからよ。それじゃ準備、よろしくね」
パタン、と準備室から出ていってドアを閉める。
「やれやれ。徹底的に嫌われてるようだな。吹上さんとは根本的に相性が悪いようだ。おおかた先回りして手を打つ俺のやり方が気に入らないんだろうけど、俺は考えられる最善手を打ってるだけだ」
「…そうなの…?あたしは…あたしに足りないものを…白須賀さんが持ってるから…無意識の内に…求めちゃうんだと思うけど…」
「明梨がそう考えるように、彼女も彼女なりの考えを持っている。君と俺は家族ですらない他人なんだから、考え方はそれぞれだ。その家族ですら考え方が違うものだから、他人なんて自分の思いも寄らない意見が出てくるものだ」
聞きながら、棚から必要なものを手に取る。
「明梨と付き合ってることは、できれば年内にみんなへ知らせる。それまでは辛いと思うけど、我慢してね」
「…うん…」
彼が何をどうしようとしているのかわからないけど、少なくともあたしがやるよりはずっといい方法に違いない、と考えている。
いつも彼はよりよい方法を提案してくれている。
「それと、知らせた後は別の懸念もあるけど、司東の協力を取り付けてある。ま、奴も彼女がいるからきめ細かい対応は難しいと思うけど」
「…やっぱり…そうだよね…」
人気者の特別になるって、そういうことなんだ。
「…あ…」
昼休みにグループDirectを開いてみると、また少し数が増えていた。
高等部のグループということになっているけど、どうやら女子の参加者がほとんどを占めているみたい。
「…これ…どういう集まり…なんだろう…?」
見ていると、白須賀さんのことと思われる話題が中心で、なんか入り込みにくい。
グループに誘っているのが彼だから、自然とそうなるのかな。
♪♪♪
Directの通話着信が鳴る。
優愛ちゃんからだ。
「明梨、今いい?」
「…うん…」
白須賀さんが彼氏になってから、優愛ちゃんは少しだけ距離を置くようになった。
でも彼氏と二人きりにさせようというつもりではないらしい。
優愛ちゃん本人がそう言っていた。
それでも彼氏に対する風当たりは強い。
移動教室の時に別々で行ったのも、距離を取るために優愛ちゃんから別行動を提案されたから。
そんなの、去年までは考えられなかったこと。
今まではあたしから決して離れず、SPのようにピリピリしていたけど、これからは友達としての距離感を持つ練習をしたいらしい。
だから、いつもは隣にいる優愛ちゃんが、あえて側から離れて自分の時間を過ごしている。
「やっぱり誘われたんだね。グループ」
「…もしかして…優愛ちゃんも…?」
「わたしは人づてに回ってきたコードを読ませただけなんだけどね。明梨はどうやって?」
「…その…白須賀さんに…誘われて…」
「やっぱり。これどうも彼が作ったグループみたいよ」
移動教室の準備室で彼が言ったことを思い出した。
優愛ちゃんはいつも先回りする彼の行動を嫌っているのだろう、と。
けど、あたしはそこに惹かれている。
「多分だけど、彼のファンに
「…そう考えるのが…自然かも…」
白須賀さんに気を寄せる人は多い。
見るたびに増えていくグループメンバー数が、それを物語っている。
「…でもこれ…何のために…人数を増やしてるんだろう…?」
「さあね。おおかた誰かにせがまれて作ったら大騒ぎになってるってだけでしょ」
「…白須賀さんが…そんなことで…動くとは思えない…」
「買いかぶり過ぎよ。彼氏だって万能超人ってわけじゃないんだし」
あたしがいくら考えても答えは出ない。
彼のやることは、全部ではないにしても大抵のことが先の先まで読んで考えているのは、これまでの傾向でわかっている。
せめて一度くらい、彼のやることを見抜いてみたい。
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