第5話:混惑(こんわく)
今日もいつもどおり
席について、静かに時間を過ごす。
すでにこのクラスでは、あたしは何も喋らない人という共通認識が定着していた。
「おはよう」
席に座る直前に、誰へともなく挨拶する
教室の外、廊下にはさっきまで一緒に居たであろう女子たちが遠巻きにしている。
「お…おは…よ…」
小さいながらも、精一杯の声を絞り出して挨拶を返す。
「
ぎょっとする優愛ちゃん。
「へえ。前も聞いたけど、
一瞬、白須賀くんの一言に教室がにわかにザワッと色めき立った。
「明梨!今、喋った!?」
こくんと優愛ちゃんに返事する。
「急にどうしたのっ!?」
いつもは教室にいる女子たちが白須賀くんをあっという間に取り囲んで、キャイキャイと黄色い声で埋め尽くされるというのに、それすら忘れてあたしに視線が集まった。
注目を集めてしまい、どこか居心地が悪くなり席を立って教室を出ると、優愛ちゃんが後ろについて来た。
「待って明梨!どういうことなのっ!?」
ひとけのない場所で足を止める。
「あた…あ…」
声を出し慣れてないから、うまく言葉が出てこない。
スマートフォンを取り出して、Directアプリでメッセージを送る。
『今のままじゃきっとだめだから変わることにした』
「明梨…」
送ったメッセージを見た優愛ちゃんはあたしを見る。
そして、白須賀くんに送ったメッセージの画面を表示して、画面を優愛ちゃんへ向けた。
やり取りしたのはわずかに二つ。
あたしの「危ないところを助けてくれてありがとう」と「どういたしまして」という白須賀くんの返信。
「…変わるのはいいけど、彼だけはやめておいたほうがいいわよ」
首を横に振る。
「周りに女の子を
あたしには、そうは思えない。
こんなにも暗くて面倒くさい人に、救いの手を差し伸べてくれた。
見返りに何かを要求するでもないし、お昼は返事を求めてこなかったし、放課後は放っておいてくれた。必要以上に付きまとってこない。
「明梨もあの輪に入って彼をつけあがらせるの!?」
「違う!」
発した声に、ビクッと身を引く優愛ちゃん。
「きっと…違う…」
たとえそうだったとしても、構わない。
弄ばれることになったとしても、後悔しない。
こうしてずっと変われないままで引きずってきたあたしが変わるきっかけになってくれた、白須賀くんにだったら…。
「優愛ちゃんは…友達…ううん、親友…だよね?」
驚いたことで表情を無くしていた優愛ちゃんが、その言葉に微笑みで返す。
「当たり前じゃない。わたしは誰より明梨のことを知ってる。どんなことがあっても、ずっと親友でいようね」
優愛は、何も掴まず両手をギュッと握りしめた。
「それで、なんだ?てっきり君は俺を嫌ってるとばかり思ってたけど」
優愛は白須賀を呼び出して、二人きりで話をする場を作った。
「明梨のことよ」
「あの時のことがよほど堪えたんだろうな。でもいい傾向だ」
「そのことなんだけど…」
キッと白須賀を見つめる優愛。
「明梨は、人と接し慣れてないわ。いつも大勢の女子に周りを囲まれてるあなたなら、かけてほしい言葉をかけて人を…いえ、女の子を
「それが、俺を嫌う君の本音か」
「話を逸らさせないで。明梨は今、必死に変わろうとしてる。10年近く言葉を発しないで過ごしてきた明梨が」
「10年近くもずっと介護してきたわけか。相当な苦労…」
「介護って言わないでよ。それと話を逸らそうとしないで。確かにあなたの意見はグサッときたわ。明梨もそれは同じだと思う。必死の思いで変わろうとしてる明梨を傷つけたら、ただじゃおかないんだからね」
はふ、と白須賀はため息をつく。
「なら聞くけど、俺が今から鐘ヶ江さんとの接触を一切拒んだとしよう。それで例えばだけど、時間とともに鐘ヶ江さんが俺に好意を寄せていることに気づいても一切相手にしない。けど思いは膨れ上がる一方。それでも届かないと思い知った時は傷つかないとでも言うのか?」
明梨はハッとなる。
「俺の思惑とは関係なく、傷つく時は避けようもなく傷つく。人の気持ちは他人が制御できるものじゃないんだ。ずいぶん無茶な言い分だな」
「ぐっ…」
何か言い返そうとしたけど、あまりに正論で言い返す言葉が思いつかない。
「これ以上、明梨の心をかき乱さないで!」
「君は水鏡になってる池へ石を投げ入れたことはあるか?」
「…え?」
「池の水面を見ると、空の雲がくっきりと歪みなく映えて見える池に、石を投げ入れてみたことはあるか?」
「それくらいあるわよ。それが何?」
「俺は鐘ヶ江さんの水鏡みたいな心に一石を投じた。それはもう取り消すことができない。波打つ水面はどんな変化を及ぼすのか見当もつかない。棲んでいた魚が暴れ始めて水面はもっと乱れるかもしれないし、何も起きず次第に水鏡の状態を取り戻すかもしれない。けど、どうなるかは予測の範囲外だ」
「何が言いたいのよ…」
「鐘ヶ江さんの心がどう動くか、もう俺の制御を脱している。今更無かったことにしようとしても、もう遅い」
優愛はなんとかして関わらせないようにする手立てを考えている。
「だから俺にできることは、水鏡になっていた心の池に投じた石でどんな波…変化が起きても、その結果から逃げずに責任を持って向かい合うこと。彼女自身の意思で俺と関わらないと決めたなら、後は放っておくことにするさ。話はそれだけか?」
応えない優愛の姿を確認してから、白須賀は優愛の横を通り過ぎていく。
通り過ぎてすぐ、ふと足を止める。
「君の気持ちはよくわかった。だから約束しよう」
背を向けたまま、振り向かずに聞き耳を立てた。
「鐘ヶ江さんを弄ぶために、陥れるために、傷つけるために、泣かせるために、そういう方向に意図して導くことはしない…と。それでいいかな?」
何か見落としがないか、とぐるぐる考えているうちに
「努力はするけど、結果として傷つくことになったとしても、それは勘弁してくれよな。善人説になってしまうけど、全部を自分で制御できることに関する要求ならともかく、人の心という未知数なものがある以上、結果だけで判断されるのは困る」
遠ざかる白須賀を止めることもせず、ただそこに立ちすくんでいた。
「ごめん明梨…わたし、あなたを守りきれそうに…ない…」
『君たちはまるで障碍者とその介護者のようだ』
ふと脳裏に蘇ったあの言葉が頭の中を駆け抜けた。
「ダメッ!明梨が変わろうとしてるんだから、わたしは応援しなきゃ!」
優愛は、明梨が自分から離れていってしまうのではという不安と、いつまでも一緒にいてほしいと願うわがままの間で揺れていた。
「鐘ヶ江さん、あの後は無事に帰れた?」
「…あの…た…助かり…ました」
教室に戻った優愛は、白須賀さんと会話をしている明梨を見ると、守らなきゃと思う気持ちはあるものの、自立しようとしてる明梨の決意を大切にしようという気持ちで板挟みになってしまい、胸焼けに似た焦りが優愛を
いつも白須賀を囲んでる女子たちは、喋らないと思っていた明梨が喋ったことと、そんな明梨を気にかける白須賀さんの態度に戸惑っているのか、遠巻きにしてヒソヒソと何かを耳打ちしあっていた。
他の教室から来た女子たちも、遠巻きにしているその異様な光景を前に、近づくのを
「…他の、人たちが…近づきにくそうに…してるのから…これで」
「ああ。また話をしよう」
あっさりと引いた白須賀の周りに、戸惑いの色を隠しながらも女子の人垣ができ始めている。
「明梨、ちょっと」
優愛ちゃんに呼び出されて、あたしは周りに人のいないところへ連れ出された。
「明梨…本当にいいの?あの人で」
迷いなくこくりを頷く。
「悪いことは言わないわ!やめときなさいよ!」
左右に首を振って拒否の意思表示をする。
「絶対に遊ばれて終わるよ!?」
「…絶対…何を根拠に…?」
真っ直ぐ見つめて問う。
「っ…」
喋り慣れてないあたしは、メッセージアプリ『Direct』で文字入力を始める。
『心配してくれてありがとう。けどもう自分で決めたことだから。たとえ弄ばれても構わない』
「教室…先に戻ってるね」
俯いて応えない優愛ちゃんを置いて、教室へ足を向けた。
「戻って…来てよ…明梨…」
思わず口から漏れた本音を聞き咎める人は誰もいなかった。
思い起こせば、小学校に入った頃から優愛はずっと明梨のそばにいた。
喋らない明梨の代わりにいつも優愛が守ってきた。
外に出ている時間のほとんどを明梨のために使ってきた優愛は、明梨以外との交友関係が希薄なままでこれまで過ごしていた。
ここ数日で、急激にその生活スタイルが変わったことにより、優愛は混乱していた。
「わたし…嫌な人だ…明梨が白須賀くんを追いかけて困るのは…寂しいのは…自分だったんだわ…」
教室に戻ったあたしは、女子に囲まれている白須賀くんを見て、もやもやとした胸のつかえを感じる。
なんだろう…この気持ちは…。
考えがまとまらないまま、ぼんやりと遠くに行ってしまった人のような気がする彼の姿を眺めている。
「明梨…」
後ろから声がかけてきたのは、優愛ちゃんだった。
こそっと、耳元に手を添えて囁いてくる。
「明梨、恋する乙女の顔になってるよ」
「…恋…」
言われても、わからない。
今まで誰かをそんな目で見たことがない。
小さい頃から仲がいいのは優愛ちゃんだけで、誰かを求めるような気持ちはない。
ただ、気になる。
喋らないあたしをここまで気にかけてくれるし、あれ以来一度も喋ったことのないあたしを、無口の鳥かごから引っ張り出してくれた。
耳打ちをしえ終えて口を閉じた優愛は、少し口元を笑みの形に歪めた。
(そうよ。早く彼に振られてしまえば、わたしの元に戻ってくる)
これが、優愛の出した答えだった。
別にわたしが寂しいわけでもないし、誰に強制されているわけでもない。
明梨自身があの時からわたし以外の人、彼を気にしているわけで、そっと背中を押してあげるだけなんだから。
だから、少しでも彼といる時間を増やして、明梨を後押しする。
お昼休みの時間になる。
「さてと…」
白須賀が席を立ったその瞬間…
「ねえ白須賀くん、明梨も誘って一緒にお昼いきましょう」
誰よりも先んじて、素早く入り込んできた。
「ああ、そうだな。そうしようか」
ええー、と女子から不満の声が一斉にあがるものの、本人の決めたことだからか遠巻きに見送ると思いきや…
「ねえねえ、あたしたちも一緒に行っていい?」
と加わってこようとする数人が現れた。
「ごめんね。今日はこの二人と一緒に行きたいんだ。また明日ね」
爽やかにいなして、歩き出した。
ざわざわと賑わいを見せている廊下を三人で並んで学食へ向かって歩いていたが、白須賀はふと歩調を緩める。
明梨はそれに気づかず、数歩先に進んでいた。
「何を企んでいる?」
こっそりと並んで歩く人だけに聞こえる声量でやりとりを始めた。
「企む?何を?」
内心ギクッとしながらも、平静を装って返す。
「君は俺のことを嫌っているのに誘ってきた。鐘ヶ江さんを俺に近づけたくなさそうだったにも関わらず、むしろ近づけようとしている」
(なんて鋭い嗅覚を持ってるのよ…この人)
「だから、何を企んでいるんだ?」
あたしは横を見て、優愛ちゃんと白須賀くんがいないことに気づいて振り向く。
「あの…」
「ごめんごめん、ちょっとボーッとしてたわ」
いつもの変わらない様子で数歩小走りして横に並んだ。
数歩後ろにいる白須賀くんが、あたしたちの後ろ姿を見て小さくため息をつく。
「明梨、だいぶ喋るようになったわね」
放課後になって緊張の糸が少し解けたところで、優愛ちゃんが聞いてきた。
「…うん…白須賀…くんなら…不思議と…」
自分でも信じられないけど、彼にだけは喋ることの抵抗が薄くて言葉が口から出てきていた。
「それで明梨は白須賀くんのこと、どう思ってるの?」
「…もっと、近づきたい…かな…」
「どうして近づきたいの?」
「…何を…話しても、否定しないし…言葉に…詰まっても…言い終わるまで…待ってくれる…し…他の…誰とも違って…柔らかい…気がする…から…」
「会話が楽しいからなんだ。やっぱりそれって、明梨が白須賀くんのことを好きなんじゃないの?」
今日はやたらとそっちに結びつけてくる優愛ちゃん。
「…うん…でも…まだ、よくわからないかな…」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます