第92話

 旅館の中庭へと出ると、そこには美しい日本庭園が広がっていた。

 地面には形のいい石が敷き詰められ、そこから生えている木々は枝の一つ一つが丁寧に剪定されており、等間隔に置かれた大小の岩や小さなせせらぎがとても美しく、つい心を魅了されてしまう。

 また夜ということもあって、綺麗にライトアップされた姿はまさに芸術。

 日本庭園が世界で高く評価されているのも凡人である俺ですら頷くことができる。

 ――こんなところを果たして歩いていいのだろうか……?

 一応、散道を歩きつつ、そんな疑問と旅館スタッフに見つかったら怒られるのではないかという不安を拭いきれないでいると、雪平はちょっとした橋の上で足を止めた。

 柵に手をつきながら、小さな小川を見つめる雪平。

 俺もその隣に立ちながら、同じ方向に視線を向ける。


「さっきは本当にありがとう。それで、お父様になんて説明したかっていう話だったわよね?」

「あ、ああ……」


 そよ風によって、雪平の長くて綺麗な黒髪が揺れる。

 俺はその光景につい見惚れてしまいそうになりながらも、視線を無理矢理小川の方へと戻した。


「私ね、お父様が言っていた通り、お見合いさせられそうになってたの。好きでもない男と個室で二人きりにさせられるなんて……正直、“もう”ごめんだわ」


 雪平の横顔はひどく悲しいものに見えた。


「もうってことは以前にもか?」

「……ええ。その度に言い寄られては断って……」


 雪平は言葉を途中で詰まらせると、それ以上先のことを喋ろうとしなかった。

 おそらく断るたびに嫌な思いをしたんだろう。嫌な言葉を吐かれたり、乱暴されそうになったり……あくまで俺の推測ではあるけれど。


「お前もそれなりに大変なんだな」


 別に同情しているわけではない。

 だが、家が裕福だからと言って、人生が楽かと問われるとそうではないということを初めて知った。

 ――“貧しかろうが裕福だろうが、幸せというものはその人次第で変わっていく”

 昔、そんなことを誰かが言っていたのをふと思い出した。


「和樹くんには迷惑をかけるつもりではなかったけれど、なぜか無意識的にあなたの名前をお父様の前に出してしまっていたわ。本当にごめんなさい」


 雪平は橋の下にゆっくりと視線を落とした。

 悪気がないということは毛頭からわかっている。

 だからこそ、俺はこの後なんと言葉をかけてやればいいのかわからなくなった。

 別に気にすんなというのも違うような気がするし、だからといって、責め立てるのは論外。無言……これしかないだろう。

 そのままどれくらいか時間が過ぎてゆく。

 小川に流れている水の音を聞きながら、真夏の夜に身を委ねる。

 こうして夜を満喫するのはいつぶりだろうか?

 少なくともここ一年はなかったはずだ。何かと夜は勉強漬けだったしな。


「……そろそろ戻りましょうか」

「そう、だな」


 なんとなくではあったが、雪平といる時間が心地よくて、名残り惜しさすら感じてしまう。好きでもないのにな。

 俺たちは来た道を戻ろうと柵から手を離したその時……


「お二人ともアツアツで羨ましいわ〜」

「「?!」」


 俺と雪平は驚きのあまり、硬直してしまう。

 それもそのはず。

 足音も完全になかったため、全然というほどに気がつかなかった。

 俺たちの目の前に現れた存在……


「お、お母様!? なんでこんなところに……」


 雪平のお母さん参上!

 いつここに現れたのか……もしかして、聞かれてたりしちゃってる?

 俺はともかくとして雪平の表情が一瞬にして強ばる。


「琴音の帰りが遅くて、心配で探してたのよ。それにしたって……ね〜?」


 雪平のお母さんは嫌な笑みを浮かべる。

 ――この反応……やっぱり!?

 俺たちの計画がこうもあっさりに崩れ去ってしまうとは思いもよらなかった誤算。

 もうここまでか……そう諦めかけたいたのも束の間だった。


「“やっぱり”そういうことだったのね」

「……え?」


 雪平はぽかーんとした顔で再び固まってしまう。

 ――今、“やっぱり”って言った?

 となると、雪平のお母さんは最初から俺たちが嘘をついているということを見抜いていたということになるのだが?


「あなたたちの様子を見て、すぐに気がついたわ。ただ巻き込まれた工藤くんがどうして琴音を守ろうとしたのかは謎だったのだけどね」


 雪平のお母さんは少し戯けたように言うと、優しい微笑みを俺たちに向けてくれた。


「私がどうしてあの人にこのことを伝えていないのかわかる?」

「……」


 雪平は何かを口にしようとしたものの、結局躊躇ってしまう。

 そんな姿を見ていた雪平のお母さんは頭痛でもするのか、こめかみに手を当てる。


「私は別にあの人の味方でもないわ。ただ……娘の幸せを常に願っている普通のお母さんよ? どこで誤解されたのかはわからないけどね」


 そう言うと、雪平のお母さんはポンと雪平の頭に手を添える。


「お母様……」

「安心しなさい。あなたたちの関係はあの人には言わないから。それに工藤くんは将来……」


 なぜかそこでニヤニヤされる。

 俺が一体なんだと言うんだ?


「まぁこれは不確定な未来だから今はいいでしょう。じゃあ、琴音。早く部屋に戻ってくるのよ?」


 雪平のお母さんは次こそ、俺たちに背を向けると、旅館の方へと戻っていった。


「……いいお母さんじゃねーか」

「……」


 雪平は何も言葉を発することはなかったが、肩が小刻みに震えていた。

 何はともあれ、父親はともかくとして、母親とのわだかまりは解消されたようだ。

 何かのすれ違いだったようで本当によかったな……。


【あとがき】

そういえば、この作品の合計PVが40万を超えていました。ありがとうございます!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る