赤い狼のおはなし

おかわり自由

 

昔々、とある国の、とある森の奥深く。


小さな小屋に、娘と狼が暮らしていました。


娘は赤ん坊の頃、この森に捨てられて泣いていたところを狼に拾われ、そのまま十数年、狼の手で育てられてきました。娘には名前がありません。捨てられていた時に籠の底に敷いてあった赤い頭巾をいつも被っていたので、いつの頃からか狼は娘のことを「赤ずきんちゃん」と呼んでいました。


狼は病気にかかって、もう長いこと寝たきりでした。赤ずきんちゃんはその看病をするために、街に出ては色々な仕事をして、お金が入ると食料や薬を買い込んで、森の小屋で待つ狼のもとへ届けていました。


「いつもすまないね…でもそんなに頑張らなくていいんだよ、私の病気はもう、死ぬまで治らないのだから」


「そんな気弱なことを言ってはだめよ。諦めなければ必ずよくなるわ。まだ試してないお薬もたくさんあるの。高くてなかなか買えないけど、私もっと頑張って働くから」


狼には、赤ずきんちゃんの献身が嬉しくもあり、苦痛でもありました。狼は自分の病気が何なのか知っていました。そして、赤ずきんちゃんが持ってくる食べ物や薬では、その病気が決して治らないことも知っていました。狼だけがかかる病気ですから、人間の薬や医者では治しようがないのです。いくら赤ずきんちゃんが一生懸命になっても、自分を治すことはできないのです。


病気を治す唯一の方法、それは人間の肉を食べることでした。


赤ずきんちゃんを食べてしまえば、たちどころに病気は良くなるでしょう。でもそんなことはできません。親も子供も兄弟もいない狼にとって、赤ずきんちゃんは唯一の家族です。自分の病気を治すために犠牲にするなんてできるはずがありません。いつもベッドの上で小屋の天井を見上げながら、狼はただ涙するしかありませんでした。



ある日、久しぶりに狼は小屋から出て、少し散歩をすることにしました。時々調子の良い時があって、そういう日には少しでも外を歩くことに決めていました。森の空気を吸うと、沈みがちな気分も少し晴れるような気がするのです。


しばらく歩いていると、人影が目に入りました。赤ずきんちゃんは仕事で街に出ています。帰ってくるにはまだ少し早いので、誰か他の人のようです。でも、ここに足を踏み入れる人は滅多にいません。


よく見ると、それは初老の婦人でした。所在なげにうろうろとさまよっているように見えます。道に迷ったのでしょうか。


狼は、しめた、と思いました。誰だか知らないが、こいつを食べてしまえば、私の病気は治る。病気が治れば、もう赤ずきんちゃんが私のために身を粉にして働く必要はない。


襲いかかって食べてしまおう、と思いましたが、しかし狼は急に自信がなくなりました。長いこと寝たきりでいたせいで強靭だった足腰はすっかり弱り切ってしまい、今はゆっくりと歩くことしかできません。襲いかかったとして、気づかれて走って逃げられたら、おそらく追いつけないでしょう。この機会を逃してしまったら、次に森の中で人間に出会うのはいつのことになるか分かりません。狼は少し考えた後、婦人になるべく優しげな声を作って話しかけました。


「あの、もし、そこの方」

「ひっ!お、狼!?」

「そんなに怖がらないでください、私は人を襲って食べたりしません。見てください、こんなに痩せ細って、弱ってしまっているのです、もう死を待つばかりの身で、人を襲うなんてできないのです」

「ああ、ごめんなさい、そうでしたの。かわいそうに」

「ええ、ええ、分かってくださればよいのです。一つお願いがあるのですが、聞いていただけますか?」

「私にできることなら…」

「この道の先の小屋に、私の子供がいるのですが、病気で寝込んでいるのです。今その子のために食べ物を探していたところなのです。私が戻ってくるまで、小屋で子供の様子を見ておいていただけますか」

「そう言われても、狼の子供の世話なんかしたことがないわ。何をすればいいのかしら」

「熱を出していますから、冷たい水に浸した布で何度か体を拭いてやってください。それだけで結構です。おとなしい子ですから、噛み付いたりはしませんよ、安心して下さい」

「わかりました。それなら私にもできそうね」

「あなたがいい人でよかった。すぐに戻りますから、お願いしますね」


うまくいった。婦人の後ろ姿を見送りながら狼はほくそ笑みました。このままこっそり後をつけて、あの女が小屋の中に入ったら、すぐに後から入って一気に食べてしまおう。入り口を塞いでしまえばどこにも逃げられる心配はない。


木の陰や草むらを、音を立てないように注意深く移動しながら、狼は婦人の後をつけていきました。そのうち小屋が見えてきました。婦人はまっすぐ小屋に向かって歩いて行きます。


「…あら、どこにいるのかしら」


婦人は小屋の中に入って中を見回しましたが、狼の子供はどこにも見当たりません。大きなベッドと、テーブルと、棚がいくつかあるだけです。


「どこかに隠れているのかしら。怖がらなくていいのよ、出てらっしゃい。あなたのお母さんに頼まれて来たのよ。お母さんが食べ物を取ってくる間、私がお世話をすると約束したのよ」


呼びかけてみますが、どこからも何の反応もありません。そもそも何かがいるような気配すらありません。


しばらく中の様子を見ているうち、背後の扉が開きました。振り返ると、そこには狼が立っています。


「あら狼さん、ずいぶん早かったのね。今着いたばかりよ」


「…」


「…狼さん?」



狼は後ろ手で静かに扉を閉めました。


眼光鋭く、尖った歯を剥き出しにして、じりじりと、婦人に近づいていきます。


もう声色を作る必要もありません。


「馬鹿な女。まんまと騙されて、もう逃げられない」

「どういうこと…まさか最初から私を食べるつもりだったの」

「その通りよ」


婦人は腰を抜かして、床にへたり込んでしまいました。


「どうか、どうか見逃して下さい、私が何をしたと言うの」

「お前こそ、こんな森の奥で何をしていた。ここは人が踏み入るようなところじゃない。狼が出るのも知っていたはずでしょう」

「私は…私は、人を探して…」

「人を…?」



その時、誰かが勢い良く小屋の扉を開けました。


「ただいま狼さん!今日は町で新しい薬を見つけたの、もしかしてこれなら…」

そこまで言いかけて、戸口の少女は手にしていた籠を取り落としました。


「何…してるの…?」



狼の全身を絶望が貫きました。


ああ、ああ。よりによって、どうして今。


見られたくなかった。絶対に見られてはいけなかった。この子にだけは。

獣の本性を剥き出しにした私の姿、それを前にして恐怖に怯える誰かの姿。


あなたの育ての親が、人を食う野蛮な獣だなんて。


「あ、あなたは、その赤い頭巾は…」


突然、目の前の婦人が、立たない足腰を引きずって扉の方へ這いよっていきました。赤ずきんちゃんは戸口で目を瞠って立ち尽くしたままです。


「間違いない、その頭巾は、私があなたを捨てた時に…」


「何…まさか…」


「ごめんなさい、ごめんなさい、捨ててしまってごめんなさい、私はあなたのお母さんよ…あなたを産んだ時、私はとても貧しくて、あなたを育てることができなかったの。でもあなたの事をどうしても忘れられなかった、いくつも町を訪ね歩いて探しまわったけれどあなたはどこにもいなかったわ。もしかしたら、捨てられた森のどこかで生きているかもしれないと思って、ここまで来たのよ。ここに居なかったら、もう諦めようと思っていたのよ」



何という因果でしょうか。いや、因果などという言葉で片付けるにはあまりにも残酷な巡り合わせ。


狼が今まさに食べてしまおうとしていた婦人は、赤ずきんちゃんの生みの親だったのです。十数年も前に捨てた我が子を探して、森の奥まで入り込んでいたのです。


「お…かあ…さん…?」


赤ずきんちゃんがつぶやきます。その言葉を聞いて、狼の頭の中で、ぶつりと何かが切れました。


「黙りなさい!!」


小屋中がびりびりと震えるような声で狼が叫びました。


「お母さん?今更のこのこ現れてお母さんだって?馬鹿にするな!誰がこの子をここまで育てたと思っているの!」

「な、何ですって」

「教えてあげるわ。この子は狼に育てられたのよ、目の前にいる、この私に!」

「そ、そんな」


「この子の母親は私よ、これまでも、そしてこれから先もずっと!お前を、人間の肉を食えば、私の病気が治る、そうすればこの子は私を看病するために遠い街まで働きに出なくて済むの、私のために、へとへとになって、辛い思いをしなくて済むの!」


大きな口を開けると、狼は婦人の体をぐしゃぐしゃに噛み砕いて、そのまま一飲みに飲み干してしまいました。


体に力が戻ってくるのがわかります。たちどころに、あれほど重かった体も、だるかった気分も、軽くなっていくように思えました。


そして、しばらくして、再び狼の体を絶望が包んでいきました。赤ずきんちゃんは全てを見てしまいました。二人でまた、昔のように楽しく暮らす…そんなことはもうできません。おぞましい獣の本性を見た赤ずきんちゃんが、また自分と一緒に生きることを選んでくれるなんて、とても思えませんでした。


振り返ると、赤ずきんちゃんはその場に突っ伏して泣いていました。かわいそうな子。狼なんかに育てられたばかりに、この子は苦労ばかりしなくてはならなかった。しかもこれからはまた、身よりもなく一人で生きていかなくてはいけない。たぶん今よりもっと辛いでしょう。


でも、もう、それも終わり。


狼の腕が、赤ずきんちゃんに伸びてゆきます。病気が治り、力を取り戻した今ならきっと造作も無いでしょう。


かわいそうな子。せめて天国で、本当のお母さんと一緒に暮らしなさい。




「…どうして黙ってたの?」




赤い頭巾の下から、冷たい声がして、思わず狼は伸ばしかけていた腕を止めました。



「人を食べれば病気が治るって、どうして教えてくれなかったの?だったら、私が一生懸命働いて、高いお薬をたくさん買ったりしたって、全部無駄だったってことじゃない」


「…その通りよ、黙っていてごめんなさい。でも人の肉なんて、こんな誰も来ない森の奥じゃ手に入りっこない。だからって、あなたを食べようなんて思うわけもない」


「そうして、結局、食べられたのは私の本当のお母さん…?どうして…そんな…」


そこまで言うと、また赤ずきんちゃんは泣きじゃくってしまいました。

もう、見ていられません。

あなたの悲しむ顔はもう見たくない。私のかわいい、かわいそうな赤ずきんちゃん。


せめて、苦しまないように殺してあげる…


止めていた腕を、再び赤ずきんちゃんの首に伸ばします。



「言ってくれればよかったのに。言ってくれれば、人の肉なんていくらでも用意できたのに」


「…え?」



ふわりと風が吹いたかと思うと、次の瞬間、目の前に居たはずの赤ずきんちゃんの姿が消えていました。


「ねえ狼さん、私いろんな仕事をたくさんしてきたけれど、一番お給金のいい仕事は何だったと思う?」


背後から囁くような声がして、次の瞬間、狼は自分の首に何か冷たいものが押し当てられるのを感じました。



「暗殺よ」



スッ、という音とともに、冷たい感覚が遠のいて、それから狼は、自分の首から温かい何かがものすごい勢いで噴き出すのを感じました。何か言おうとしても、ごぼごぼという音が漏れるだけです。目の前が暗くなってゆきます。最後に見えたのは、全身を返り血で赤く染めながら、ぎらぎらと光る短刀を握って立ち尽くす赤ずきんちゃんの姿でした。



「…嘘をついてたのも、お母さんを食べちゃったのも、仕方ないと思う。でも狼さん、あなたは私と一緒に生きることを選んでくれなかった。ごめんね、さよなら」






昔々、とある国の、とある街で、偉い人が何人も殺されました。


みんな、喉を刃物で真一文字に裂かれて死んでいました。


役人や兵隊が血眼になって犯人を探しましたが、結局捕まえることはできませんでした。


ある大富豪が殺された日の晩、屋敷の屋根の上を、頭巾を被った四つ足の獣が走り抜けていったのを見た人がいたそうです。狼の走る姿にそっくりだったと言いますが、真偽のほどは定かではありません。

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赤い狼のおはなし おかわり自由 @free_okawari

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