10 終焉
気が付くと、彼女は、荒野に一人、気を失っていた。
経緯が思い出せず、気を失ってどれくらいの時間が過ぎたのかも分からなかった。
彼女は、ふらふらと立ち上がる。
遥か遠くに高い岩山らしき影が見えたが、他には何も見えなかった。草木の1本さえも無い広大な荒野には、風さえも吹いていない。
空は高く深く、冴えざえとした蒼い月がひとつ。知っている星座は一つも無い。それなのに、なぜか見覚えがあるように感じられる。
……さらさらさらさら……。
砂の流れる音であろうか。
「おーい」
どこかに誰か居ないだろうか。
彼女は、小さく呼んでみるが、返事はない。
「誰かー」
大きな声で呼んだ。
ここはどこだろう。何故ここに居るのだろう。何がこんなに哀しいのだろう。
「おーい」
もう一度呼んでみても、声は虚空に吸い込まれていくだけだった。
彼女の頬を一筋の涙が流れる。
生き物は滅び去ってしまったかのように、漠として遙かな平原が広がるばかり。砂だけが、時を刻むかのように少しずつ流れていく。
「……………」
誰かが彼女の名を呼んだような気がした。
辺りを見回すが、やはり誰も居ない。
彼女は、当てもなく歩き始めたが、再び名を呼ばれたような気がして、足を止める。耳を澄ませても何も聞こえない。それでも、遠い遠い所から確かに自分を呼んでいるような感覚を拭い去ることはできなかった。
「わたしはここよ」
そして彼女は気付く。これは、いつか見た夢の風景だと。
めぐり逢うはずの誰かを探して、長い旅路をここまで来た。幾たびも生まれ変わり、ここに辿り着いたのだと。
胸に降り積もる孤独と切なさ。
「わたしはここよ。貴方はどこなの?」
彼女は名前を呼びたかった。
呼んでも聞こえないのだとしても、永遠に逢えないのだとしても、もう居ない人の名前なのだとしても、錯覚に過ぎないのだとしても。
けれど、ここに辿り着くことが運命であったなら、きっと逢える。
呼ぶべき名前を思い出しさえすれば………。
「……わたしは、ここで、貴方を待っている……」
彼女は両腕で自分を抱き締めた。抱き締めた両腕はただ虚しく、切ない。
再び空を見上げると、霞のような彼女の心とは裏腹の、冴え冴えと輝く蒼い月。
「ああ、どこかで見た月……違う、良く知っている月だ」
静かな月光は、霞のような彼女の心の奥底へと射しこみ、唄の一節を閃かせた。
懐かしい唄の言葉と旋律。
そして、彼女は、思い出す。自分の名前と、呼びたい名前を。
「アスナール!」
呟くように、名前を呼んだ。
「アスナール!」
もう一度、声を振り絞って呼んだ。
何が起きたのか、よくは分からない。
彼女は、目を見開いた。
銀光に包まれて忽然と姿を現した彼も、呆然としているようだった。
人間と機械が混じり合ったかのような姿で、
彼が、彼女に気付く。
「君ガ、僕ヲ呼ンダノカ?」
彼女は、驚きのあまり声が出せず、ただ頷いた。
「閉ジ込メラレタ異次元空間カラ、歌ウ君ガ見エタ。ソノ後ニ起キタラシイ事モ見エタ。君ガ何故無事ナノカ、僕ガ何故ココニ転位デキタノカ、分カラナイガ……」
知っている声とは違うかもしれない。姿も変わってしまった。それでも、彼がその人だと、彼女には分かった。
「わたしは、何が起きたのか、覚えていない。でも、貴方の事は分かるわ」
「僕モ君ヲ知ッテイル。えらーらガ存在シ、マダ宇宙ハ消滅シテイナイ。ナラバ、マダ間ニ合ウ。今コソ目的ヲ果タソウ」
彼は、彼女へと両手を伸ばし、その細い首に十指を当てた。
彼女は抵抗もせず、ただ彼を見上げて問う。
「わたしを殺すの? 何故?」
「君ハ気付イテイナイヨウダガ、コノ惑星えらーらニハ、既ニ大気モ無イ」
「大気が無い……わたしは息をしていない? もう死んでいるの?」
「ソウデハナイ。君ハ、自身ノ“まな”ノ 力 ニヨリ生存デキテイル」
「“マナ”の力……わたし知らない」
「無意識ノ 力 ナノダロウ。君ノ想イガ臨界ニ達シタ時、ソノ“まな”ノ 力 ハ爆発シ、宇宙ハ時間ヲ
彼は、彼女の首に置いた指に力を込めようとした。
「わたしがこの世界を終わらせる? この所在ない想いが?」
「君ニ罪ハ無イト、分カッテイル」
「……アスナール」
彼女は、両目に涙を溜め、名前を呼んだ。
彼の指から力が抜け、瞳には困惑の色が現れる。
「今、何と呼んだ?」
「アスナール、覚えていないの?」
その名前の響きが、彼の無意識の底に沈む記憶を揺すぶった。
「あすなーる? 『モウヒトツノ名』トハ、りーす・いるりやデハナク、あすなーるダッタノカ……」
彼は、彼女の首に両手を置いたまま、訊いた。
「君ノ名前ハ……」
「覚えていないの? わたしはエルリーダ。アスナール、忘れてしまったの? セナンの、ナーランの谷の、アル=シュカルの泉に掛かる二重の虹のこと、そして、貴方とわたしの約束のこと……」
「えるりーだ……ソウダッタ。幾世モノ輪廻ヲ越エテ、君ト僕ハ、メグリ逢イ、ソシテ、引キ裂カレタ。遠イ夢ノ無意識ノ底デ、僕ハ君ヲ捜シテイタ」
「わたしも捜していた。夢の中で、ずっと待っていた」
「ソシテ、漸ク、メグリ逢エタノカ。悠久ノ時ヲ経テ、大切ナ君ニ……。ダガ、ソレデモ僕ハ、君ヲ殺スシカナイ……コノ宇宙ガ終ワル前ニ」
「もうセナンも地球も存在しない。あの日のアスナールも居ない。わたし、貴方の手で死んで、永遠に覚めない夢に還る。貴方と約束をしたセナンの、二重の虹が架かったナーランの谷の、アル=シュカル神殿の泉のほとりへ……」
彼女は、首に置かれた彼の手に自分の両手を重ね、彼を見上げた。
「一人デハ死ナセナイ。僕モ生命維持装置ヲ、止メヨウ。りーす・いるりやトシテ機械ノ身体ニサレテヨリ数千年、生キルコトハ無意味ダッタ気ガスル」
彼は、彼女の細い首に置いた指に、力を込めた。
「コノ手デ、眠ルヨウニ死ヘト送ロウ。ソレガ僕ニ出来ル、タダヒトツノ……」
ただ一つの……、彼は何と言おうとしたのか。
「セナンで、わたしの腕の中で、祈りの唄で送って欲しいと……なのに、歌う前に、貴方、逝ってしまった。聞いて……あの時に歌えなかった唄……」
彼女は、涙の滲む瞳で彼を見上げ、囁く声で祈りの唄を歌った。
シェーラ・リム・アルジーカ
シェーム・リム・アルジーカ
プレーゼ・ドゥ・レ・メサージュ・ミア・ジェーレ
トル・ミア・ユジューネ・ダ・モーレ
トル・ミア・ユジューネ・デ・トゥレ・ディーナ
コーム・トル・レ・トローム・メナーム……
(意味)
陽光の虹に咲く沙羅の花よ
月光の虹に咲く沙羅の花よ
どうか私の想いを伝えておくれ
私の愛しいあの人に
私の愛するふるさとに
安らかな夢訪れますように……
彼の指先に銀光が輝き、彼女は眠るように、彼の腕の中に頽れた。
彼は、彼女の身体を胸に抱いたまま、立ちつくす。
「えるりーだ……」
彼の瞳に、最早流すことは無いはずの涙が滲む。
「えるりーだ……コノ宇宙ハ、コレデ守ラレタノダロウカ……僕モ逝コウ。何時カ再ビ、未来デ、君ニ逢エルダロウカ……」
生命維持装置を切ろうとした彼の腕の中で、彼女の身体が金色の光に包まれた。彼女の内部で光が生まれ、彼女自身と彼とを包んだのだった。
「えるりーだ……?」
彼の腕の中で、彼女の身体は、金の光そのものとなって輝き、広がった。
「えるりーだ!」
叫んだ彼の身体は、金の光の中へと吸い込まれた。
彼は微かに意識を保ったまま、眩い金の光に同化し、彼女の意識と共に、どこまでも広がっていった。
惑星エラーラは、金の光に包まれた。
エルリーダであった、ユエファであった、シェリンと呼ばれた娘であった彼女の想いは、懐かしい想い出の故郷を求め、時を
金の光に同化した彼の微かな意識は、ただ、それを見つめた。
金の光である彼女の意識は、時を遡りながら、何かに引き寄せられた。ソルディナへと逃亡し、灼熱の死の谷で死んだように横たわるアリダの姿だった。
金色の光となった彼女の意識は、アリダに呼び掛ける。
「あなたの娘に、大事な唄を教えて欲しい。その唄を思い出さなければ、わたしはセナンに戻れない。だからきっと、この唄を、あなたの娘に教えて……」
アリダの心に、彼女はその唄を刻んだ。金の光となった彼女の意識にとって、それに要したのは
彼女の意識は、さらに広がり、太陽系の全てを包み、銀河を越えて広がった。
惑星上の全ての生き物の上に、至福の金の光は降り注ぎ、生き物たちは幸福に満たされた。
惑星ラダスの事象分析局も、銀河連盟の星々も、金の光に包まれ、未来曲線を気にする者は居なくなった。懐かしい母の胎内へ戻ったかのような安らぎと、例えようもない至福の喜びが、彼らを包む。
金の光はさらに広がり、彼女の意識は、銀河を越えて宇宙の全てを包んでいった。
そして、彼女の想いは、今は無い過去のセナンを目指し、時空を跳んだ。
金の光に同化した彼の微かな意識も、共に時空を跳んだ。
宇宙全体を包んでいた金の光は、急速に収縮へと転じた。
セナンという一点に向かって。
彼と彼女は、セナンへと還ったのか。
金の光は、さらに凝縮していった。
静かな終焉へと……。
**************
お読みいただき有難うございます。
次回、終章で完結となります。
第4章は、書籍版とは全く変わり、書籍化前のオリジナル版とも9割以上違って、ほぼ全編書き下ろしとなりました。
序章が、オリジナル版に少し近いけれど書籍版とは全く違うので、終章も、全く違ったものになる予定です。
最期までお読みいただければ嬉しいです。
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