9 無限の彼方へ

 ロウギ・セトは、黄昏の、ただ銀色の、無限の平原を歩き、歩き、歩き………佇んで頭上を見上げた。

 闇ではなく、光はなく、星も無く、ただ銀色の薄暮が続く。

 周囲360度、何も見えない。


 無限の平原という表現は正しくはないかも知れない。

 地表は無く、足元には何も見えない。それでも、立って歩くことが出来るのだから、何かはあるのかもしれない。


 時間と空間の狭間というこの場所に、ナーサティアによって跳ばされてから、どれほどの時間が経過したのか、それを知る術さえ無かった。

 この場所に時間の経過という概念があり得るのかも疑問なのだ。


 「誰もこの場所から出ることは出来ない」というナーサティアの言葉が真実であるなら、ロウギ・セトは、何も出来ないまま果てるしかないのかもしれない。


 ロウギ・セトは無力だった。

 宇宙消滅の起点を探し当て、消滅を回避させること。それがロウギ・セトに与えられた任務であり、その為に惑星エラーラに向かったはずだったが、右往左往と動き回っただけで、結局、何事も成し得ていない。

 彼が何かを為そうとしても、絶妙のタイミングで必ずナーサティアが現れ、妨害される。ロウギ・セトは、ナーサティアの掌中の珠も同然だった。


 彼は、ふと思った。

 ロウギ・セトとして約700年の時を生き、通常の人間には不可能な異能を持つ存在として、多くの任務を果たしてきたはずだったが、意味のあることだったのか。

 何の為に生まれ、生きているのか。

 いや、生きていると思っているのは、幻想にすぎないのではないか。

 身体の大半が人工物に置き換わり、もしかしたら、自分と言う認識でさえ、生身の脳の意識ではなく、人工知能AIによる作り物なのかもしれない。

 自分は、生きていると言えるのだろうか。


 しかし、それでも、ロウギ・セトには行動を諦めることは許されない。彼が諦めれば、宇宙は消滅するのだ。

 何としても、デュ=アルガンと呼ばれるらしいこの場所を脱出し、惑星エラーラの、宇宙消滅の起点へと戻らなければならない。全てが無になる前に。


 ナーサティアの言う「時間と空間の狭間、果ての無い異次元デュ=アルガン」とは、一体何なのか。本当に、この場所から出ることは不可能なのか。

 ロウギ・セトに許される選択肢は、自身の持つ全ての能力を駆使し、足掻き、万策を講ずることだけ。


 ロウギ・セトは屹立きつりつとし、高度な集中により無我となり、全方位に向けて意識を広げた。

 上下左右、広げても広げても、銀色の黄昏だけが続く無限ともいえる空間。限界まで意識を広げても、何も捕らえることは出来なかった。

 無限の空間に希薄に広がったロウギ・セトの意識は、あまりにも希薄となって消えかけた。自己へと帰着することが困難となり、彼は、ほとんど自我を失った。

 気絶したのではなく、無限の空間の中で無に同化したのだ。


 どれくらいの間、無の状態であったのか。

 再び自我を取り戻すことが出来た理由は、彼にも分からなかった。

 ただ、自分に気付いた。

 目的を、使命を思い出す。

 

 デュ=アルガンが無限だとしても、閉じた空間であれば、一転に向けて飛ばした意識は、どの方法へ向けたとしても、一周して帰ってくるかもしれない。

 或いは、一点突破を目的とした意識ならば、障壁が存在したとして、その障壁を突き抜け、その外側へ向かうことが可能かもしれない。


 ロウギ・セトは、屹立のまま、限りなく細く絞った意識を、ただ一点へと飛ばす。

 強く、遠くへ、意識が続く限り。


 何物にも触れることがないまま、気が遠くなるほどの経過があり、やがて微かな違和感と軽い衝撃の後、ロウギ・セトの意識に何かが触れた。


 最初にロウギ・セトの意識に触れたのは、惑星ラダスの事象分析局の長官のタウジ・ガネと秘書のヘラだった。

 未来曲線が限りなくゼロに近付いて一刻の猶予もないという機密が、外部へと漏洩したらしく、対応に苦慮している様子だが、垣間見える映像は受信状態の悪い星間放送のようにノイズ混じりで、音声も途切れがちだった。


「……事実を隠蔽したわけでは……長官のタウジ・ガネには……原因を究明……事態を解決する手段……公表する必要は無い……冷静な対応を……」

「……責任を取って長官を辞任……」

「……未来曲線が0に……我々の取るべき行動は……」

「……全てが……無意味な……」


 ロウギ・セトは、事象分析局への通信を試みようと考える。

 しかし、ラダスの事象分析局での混乱した事態を垣間見ることはできても、ただそれだけだった。通信もできなければ、転位も不可能。

 もしラダスの事象分析局へ瞬間移動できれば、中継して惑星エラーラへの転位も可能かもしれなかったが。


 ロウギ・セトの意識は、彼の意志が及ばないまま、ラダスの事象分析局にはとどまらずに通り過ぎ、さらに進んだ。


 次に彼の意識に触れたのは、惑星エラーラの混乱だった。


 トルキル大連と股肱ここうの臣ダムセル・ダオルの乗る小舟が、激流の水原カレルを木の葉のように下っていくのが見えた。

 映像も音声も、ノイズ混じりで途切れる。


「……トルキル様、必ずや逃げ……」

「……アリダの娘に………」

「……憲兵隊が……領地はもう……」

「……ひとめでも会いたい……」

「……アスタリアの歌姫……ソルディナで……」


 トルキルとダムセル・ダオルを通り過ぎ、ロウギ・セトの意識は、アスタリアの歌姫シェリンを捉えた。


 シェリンは歌っていた。

 ルミス・ラクスという古い名前をもつ場所の、海を背にした平らな広場で、月明かりに照らされて。

 ソルディナとエルディナの境にあるオラネス火山の周囲に海が進入し、潮風に洗われる対岸。その絶壁の上にある石造りの神殿跡と広場。ロウギ・セトにとっては、エラーラに関する知識としてしか知らない場所だった。

 列柱もいくらか残る神殿跡の海側に平らな広場があり、神殿への階段状の岩棚は広場を見下ろす野外劇場のようにも見えた。

 響き渡る歌声は、あまり聞き取れない。

 階段状の岩棚に集まった人々は、口々に「イーラファーン」の名を呼んでいる。


 ロウギ・セトは、エラーラに到着して間もない頃に、月読つくよみ祭で聞いたナーサティアの唄を思い出した。


  マディーラの奥津城おくつきは目覚め

  イーラファーンの巫女は歌う

  光と影

  過去と未来

  現象と幻影

  時満ちて一つに重なり

  夢は夢に還れ……


 ああ、自分は間に合わなかったのだと、ロウギ・セトは思った。

 十三番目の月であるマディーラ、すなわち宇宙船ホープ号のAIを目覚めさせてしまったのは、おそらくロウギ・セト自身だった。

 あの唄の通りなら、シェリンがイーラファーンの巫女として歌えば、宇宙は再結晶化し、ラーイーに収められてしまうのか。


 シェリンであったイーラファーンは歌っている。

 眩しいほどの天満の、銀のジュニーラが天空に上り、歌うシェリンを照らす。

 その背後で、海霧の中に、二重の虹が輝いた。


 どこかで見た二重の虹。


 ロウギ・セトの遠い記憶の中で「虹の約束」という言葉が浮かぶ。


「……我汝等と契約を立ん……再び洪水にたおるる事あらじ又地を滅す洪水再びあらざるべし…………契約のしるしは是なり 我わが虹を雲の中に起さん※」


 虹が約束のしるしであるなら、宇宙は消滅しないのか?

 いや、あれは、テラの信仰上の伝承に過ぎないはず。しかも、洪水によっては滅ぼさないと言う限定的な約束ではなかったか。


 ナーサティアの言葉には無かった虹。宇宙はどうなるのか。


 無限の空間に捕らわれたロウギ・セトには、確かめる術が無い。

 彼の意識が捕らえる景色が、現実に起きていることなのか、既に起きたことなのか、これから起きることなのか。

 それとも、事実とは全く関係のない夢のようなものなのか。


 ロウギ・セトの意識は、いつしかルミス・ラクスを通り過ぎ、崩壊する天蓋都市のタルギン・シゼルを捉えた。


 ウルクストリアのラダムナ宮殿を守る天蓋はひび割れ、崩れ落ちている。その中を、誰かを捜しているのか、歩き回るタルギン・シゼル。

 激しいストーレに曝された宮殿の建物は、所々、既に破壊されていた。

 四阿あずまやに立ち尽くす人影。

 軋む音をたてて四阿が倒壊する寸前、何者かが「危ない!」と叫び、人影の背中を押した。

「次妃殿下!」

 タルギン・シゼルの叫び声。

「私は無事です! 宗主陛下が………」

 倒壊した柱の下敷きとなったのは、いつか謁見した宗主ソルエル・ダル・ウルク・ラ・グリマ6世だった。

「……そなたは無事か……リルデ……ラ・グリマ7世を頼む……」

 駆け寄ろうとするタルギン・シゼルの目の前で、宮殿の壁が崩壊し、絶命した宗主ごと四阿を圧し潰す。

「ここは危のうございます、殿下」

「……皇子と皇女はどこに!」

「ここに、リルデ様……」と侍女らしき声。

「……一度死に、生かされた命………この為にこそ……」

「……リルデ様……もう逃げ場は……」

「それでも、生き延びるのです……お前達も……」



 断片のみ垣間見て、ロウギ・セトの意識は通り過ぎる。


 やがて、全天を覆う火球と轟音が、彼の意識に触れた。


 緑色の肌と赤い髪の巨蛮人バルカンだった。

 恩赦を懸けた円形闘技場=COROSIAWでの闘いの最中、火山の爆発による地割れに巻き込まれ、共に海中に落ちて、狂科学者ドナレオ・ダビルの船に救い上げられた者。

 バルカンが立っている場所は、ソルディナの荒野であるらしかった。

 傍らに、シェリンであったイーラファーンがいた。


 ロウギ・セトは、唐突に理解した。

 理由は分からない。意識へと流れ込んできた、としか言いようがない。

 エラーラに下り立った宇宙船ホープ号は、厳しい環境に適応できる為の遺伝子操作実験を行った。そして生まれたのが、炎人であり、海人であった。バルカンは、その過程で生み出された者。ホープ号のAIであったPAMERAが生み出した者だったのだと。

 PAMERAは李月花リー・ユエファの意識に支配され、その記憶はシェリンへと流れ、イーラファーンとなった。

 そして、バルカンは、自分を生み出した母親或いは神にも等しい存在とも言えるイーラファーンを、身を挺して守っているのだと。


 空に迫る火球。いくつもの流星が流れる。

 轟音と悲鳴。

 太陽の一部が膨れ上がり、コロナから放出されたプラズマ流が、地磁気を失ったエラーラに襲い掛かり、地表の大気も水も剥ぎ取ろうとする。

 巨大に迫る銀のジュニーラ。その引力が、追い打ちをかける。

 地表の様々なものが、抗いようも無く、吹き飛ばされていく。

 バルカンが、シェリンであったイーラファーンを守ろうと、巨体で覆いかぶさる。



 その後どうなったのか、ロウギ・セトには分からなかった。


 気が付くと、ロウギ・セトの意識はソルディナの惨状を通り過ぎ、さらに先へと進んでいた。



**************


※ 旧約聖書 創世期 第九章 8~17節

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