7 劇症都市

 ウルクストリアのラダムナ市郊外。

 ヌール・ヴェーグ城の塔の部屋の、小さな明かり取りの窓から、トルキル・デ・タウル・ロスルは、変わりゆく地上を見つめていた。


 塔の部屋に監禁されてから、どれほどの時間が過ぎたのか、トルキルには、もう定かには分からない。


 狭い部屋を行き来しては、足腰が弱るのを食い止めようとしてきたトルキルだったが、食事も滞るようになり、運動も難しくなった。やがて歩けなくなるかもしれない。視力も衰えてきたようだ。

 小さな明かり取りの窓から見聞きできる事はわずかしか無かったが、衰えた耳や目にも、眼下の町で騒ぎが起こり、時に火の手が上がるのは分かった。

 あの美しかったラダムナ市は、このまま荒れ果てるしかないのだろうか。

 

 始めの頃、食事は定期的に差し入れられていた。

 その度に外の様子を尋ねたが、監禁されている元大連と世間話を楽しみたい者など居ようはずもない。

「無駄口を叩くんじゃない!」

 ただ機械的に繰り返されるだけの食事の受け渡しではあったが、それは、牢獄でもあるヌール・ヴェーグ城が正常に機能している証でもあった。


 やがて、食事の差し入れが忘れられがちになった。

「何か変わった事でも?」

「無駄口は叩くなと言ったはずだが?」

「いや、忘れずに食事を届けてくれたことに感謝しているだけだ」

「大貴族のあんたが、平民の俺等なんかに感謝などするものか」

「平民あっての貴族。それに、こうして差し入れられる食事に支えられている命。感謝しないはずがあろうか」

「貴族がどれほどエライが知らんが、ジグドル・ダザル様が、貴族社会なんぞ、ぶち壊してくれるさ」


 貴族階級に対する不満は、以前からトルキルも気に掛けていたことではあった。

 不満が高まり、社会が大きく転換しようとすれば、治安の悪化は免れないかもしれないと、トルキルは気になった。

 館の者達やトルキル地方の住民達は、どうしているだろうか。行方が知れないと聞かされていたダムセル・ダオルは、無事でいるのだろうか。

 捕らえられたアスタリアの歌姫、サウサル城主、サウサル・ムリグの息子と、その仲間達、皆どうなったのだろうか。


 時が経つと、食事の差し入れは更に滞るようになった。

 大勢の民衆の、怒涛のような足音や叫び声が聞こえることもあり、城外だけではなく、ヌール・ヴェーグ城内部でも、混乱は始まっているのかも知れなかった。


 珍しく届けられた食事にトルキルが礼を言おうとする前に、看守が興奮したように言った。

「いよいよだ。ジグドル・ダザル様がラダムナ宮殿に向かって進攻する。番兵も看守も大勢が加わると言っている。俺も加わるつもりだ」

「そうか、世の中が大きく変わろうとしているのだな」

「ヌール・ヴェーグ城は堅固な作りだが、番兵の数が減ったら、暴徒の標的になるかもな。あんたの運命は、天空の神ヴィドゥヤー次第ってわけだ」

 多めに差し入れられた水と食料。それが最期だった。


 ラダムナ宮殿はどうなったのか。

 丞相じょうしょうとなったシルニン・イクルの下で働いていたはずの大監だいげんジグドル・ダザルは、取って代わって権力を掌握したのだろうか。

 宗主陛下とその御家族は、息災にしておられるだろうか。


 今のトルキルには、どうしようもなかった。

 自分が、大連としてもっとしっかりしていれば、最悪の事態は避けられたのではないか。テムルル・テイグと反目せず、協調していれば……。

 しかし、それも、今となっては詮無い事だった。


 ヌール・ヴェーグ城に、怒涛の足音や叫び声が響いた。破壊と略奪の嵐が吹き荒れたのだろうか。

 しかし、トルキルが監禁されている塔の部屋は、ヌール・ヴェーグ城の最奥部の回廊の、隠し扉を開けた先の、塔の階段を数百段も上った最上部。

 老人が監禁されているだけの、略奪する金品も期待できない牢獄は、世界から忘れ去られたように、近寄る足音は聞こえず、重い扉の外に誰かの声がすることもなかった。


 そして、静けさが訪れた。


 自分の一生はこれで終わるのだろうか。

 それも良い。

 今となっては後悔ばかりの旅路であったと思えるが、その時々には必死であったことは間違いない。

 アリダよ、お前に、もう一目だけでも会いたかったものだ。そして、最期に詫びを言いたかった。


 ストーレの闇の中、明かりも無く、粗末な寝台に横たわって目を閉じるトルキルの耳に、近付いて来る足音が聞こえた。長い階段を、急ぎ足で登ってくるような足音。


 やがて、重い扉が開く音がして、闇の中に誰かが立っていた。

「ご無事ですか、トルキル様」

 囁くような声。

「お前は……」

 驚きの声を上げようとして、トルキルは激しく咳き込んだ。暫くぶりに声を出した為だろう。

 男はトルキルを助け起こし、背中をさすった。

「今なら逃げられます。さあ、私の背に」


 体力の衰えたトルキルを軽々と背負おい、男は、明かりの消えた暗く長い塔の階段を迷いもなく降り、回廊を抜けた。

 人の声や足音に警戒しながら、所々に明かりのある迷路のような通路を、トルキルを背負ったまま、時には立ち止まり、道を変え、時には走り抜けた。門の周辺には番兵の姿もあったが、注意深く隙を見て、二人はヌールヴェーグ城を脱出した。


 ストーレの闇の中ではあったが、ヌール・ヴェーグ城の外は、全ての明かりが消えていた訳ではなかった。破壊されて燃えている建物もあった。トルキルを背負った男は、安全な道を選び、時に立ち止まり、時に駆け抜け、水原カレルへと向かっているようだった。


 やがて、長いストーレの闇も明け始めた頃、二人は水原カレルに着いた。

 男はトルキルを背中から降ろすと、隠していたらしい小舟を、ストーレが止んで間もない水原に下ろした。

 黒雲が晴れ、明るい月の光が照らし始め、トルキルは、初めてその男の顔を見た。


「ここまで来れば、ひとまずは安心です、トルキル様」

 

 その男の顔には、長い流浪の苦労を物語るように皺や傷跡が刻まれていた。ずいぶんと長く見なかった顔だが、それは紛れもないダムセル・ダオルだった。


「ダムセル、無事だったのだな」

 トルキルは涙を浮かべ、再会を喜んだ。


 しかし、ダムセル・ダオルの顔に笑みは無かった。

「トルキル様、まずは舟へ。乗り心地の良い舟ではございませぬが」


「……待ってくれ。一緒に捕まったはずの他の者達は……」

「ご安心を。ヌール・ヴェーグ城が襲撃を受けた際、混乱に乗じて脱出できたようです」


 ダムセルは、舟に乗るトルキルに手を貸し、それから黙って櫓を漕ぎ始めた。

 思いつめたようなダムセルの表情に、トルキルは、話しかけるのが躊躇われた。

「済まぬ、ダムセル。無事でいてくれて本当に良かったが、私のせいでお前には要らぬ苦労をかけてしまった」

 ダムセルは、ゆっくりと櫓を漕ぎながら、口を開いた。 

「謝らなければならないのは自分の方です」

 ダムセルの顔色は暗く沈んだままだった。

「何を言う。お前のお陰で、私はこうして逃げられたではないか」

「トルキル様、お聞きください。自分のせいで、トルキル様は捕らえられたのです。自分は、テムルル・エイグの罠に陥り、トルキル様を裏切りました」

 そして、ダムセル・ダオルは、櫓を漕ぎながら、語り始めた。


 トルキルの若かりし頃、まだ少年で、遊学の供をしたダムセル・ダオルは、トルキルとアリダとの間の使いも引き受けたが、アリダに憧れを抱いたこと。

 トルキルが国に戻った後、迎えに行くとの約束を果たさずにアリダを見捨てたと思い、トルキルに対して恨みさえ抱いてしまったこと。

 トルキルが心を閉ざし、アリダの事を口にしなかった為に、トルキルの真意を誤解してしまったこと。

 トルキルが約束の印にアリダに贈った金砂瑠璃の指輪を目にし、その後のアリダが辿った末路を知らされて、アリダに代わってトルキルに復讐しようと考えてしまったこと。

 テムルル・テイグ殺害現場の、血の付いた垂れ幕のそばへとトルキルを誘い込み、トルキルを窮地に陥れたこと。

 全て、自分ダムセル・ダオルの過ちであったと。


「顔を上げよ、ダムセル。責められるべきは、やはりお前ではない。全て、このトルキル・デ・タウル・ロスルが至らなかった故。お前は何も悪くない。やはり、謝らなければならないのは、この私だ」

 トルキルの言葉に、ダムセル・ダオルは首を振る。

「いいえ、いいえ。自分は、本来なら、トルキル様の前に顔を出す資格もありませんでした」

「だが、お前は、危険を顧みずに私の前に現れ、あの牢獄から、死の縁から、助け出してくれた」


 ダムセル・ダオルは、櫓を漕ぐのをやめ、水原カレルの流れに舟を任せると、トルキルに向き直った。

「自分も、或る者に助けられたのです」

「或る者?」

「諸国を流浪し、アリダ様も身を隠されていたソルディナへと向かった自分は、知識も準備も足りずに死に掛け、恩を仇で返した報いと、死を受け入れるつもりでいました。自分を助けてくれたのは、ウルクストリアに戻る途中だと言う若者でした。その者は、ヌール・ヴェーグ城の見取り図を書いて自分に渡しました。トルキル様を助け出してほしいと」

「なんと、その者は、私の事を知っていたのか」

「トルキル様が、もし、まだアリダ様のことを忘れていないなら、伝えてほしいと。アリダ様は、水原カレルに身を投げて流れ下った後、アスタリアで娘を産み、その娘はソルディナに無事で居ると」

「その者は、何故そのような事を……」

「尋ねましたが、詳しい事は答えませんでした」

「名は? 名は聞かなかったのか?」

「シゼルとだけ」

「その男は、ウルクストリアに戻る途中だと言ったのだな?」

「自分には、他にもウルクストリアで成すべき事が残っていると」

「シゼル……」 

 明るい月に照らされた水原カレルを下る小舟の上で、トルキルは、呟くようにその名を繰り返し、肩を震わせた。




 その頃、ウルクストリアの首都ラダムナの中心は、混乱の最中にあった。ウルクストリアのみならずエラーラ随一と謳われた天蓋都市の華やぎは、見る影もなく失われようとしていた。


 宗主の次妃リルデの後押しで丞相じょうしょうとなったシルニン・イクルであったが、金権政治により賄賂も横行し、庶民は厳しい税の取り立てに苦しめられた。

 大監だいげんジグドル・ダザルは、憲兵隊下級隊員や一部の民衆を率い、シルニン・イクルを不敬罪の罪で拘束して自宅に軟禁し、自ら丞相を名乗ると同時に、要職にあった貴族達をも次々に拘束した。

 庶民の多くが喝采した。ジグドル・ダザルが貴族でも豪族でもない平民の出であり、上級貴族等を次々と拘束して権力を剥奪する様は、庶民にとって痛快でさえあったからだった。


 ジグドル・ダザルは、宗主の臣下として忠誠をつくし、政治の安定に努めることを約束して、宗主より正式に丞相の命を受けた。貴族達はあらゆる要職から排斥され、それは憲兵隊内部の要職においても同様だった。代わりに要職に就いたのは、ジグドル・ダザルに指名された平民出身者達だった。

 ジグドル・ダザルが、いつ野望を抱くようになったのか、それは定かではない。

 テムルル元丞相の殺害犯とされたトルキル元大連を取り逃がした失態により、一兵卒に落とされた。あの時の恨みのせいかも知れないが、違うかも知れない。

 いずれにしろ、ウルクストリアで初めて、貴族階級ではない者達による政治が実現したのだった。


 城下は平静を取り戻したかに見えた。

 宗主には元から政治的権限は無いに等しく、貴族である大臣達が実権を握ってきた為、貴族階級以外からの批判は殆ど無かった。

 それでも、言論統制が敷かれ、公安隊が目を光らせるようになった。ジグドル・ダザルにも、その部下達にも政治経験が無く、非難や批判を極端に嫌ったのだ。

 民衆にとって、シルニン・イクルの金権政治から、ジグドル・ダザルの強権体制へと転換しただけに過ぎなかった。


 民衆は、陰で呟いた。

「結局、何が良くなったんだ?」

「何にも変わってねえよ。むしろ悪くなった」




 ラダムナ宮殿の中庭。

 手入れが届かずに荒れも目立つ庭園を、眩しいほどの月光が照らしている。

「リルデ様、どちらへ?」

 侍女の言葉に、宗主の次妃リルデは振り返った。

「皇子が居ないのよ。捜しているの」

「危のうございます。近頃は、野卑な者達が宮殿内でも闊歩かっぽしておりますから」

「なおさら心配だわ。早く見つけなくては」

「私共も手分けして御捜し致します」

「そうして頂戴」

 リルデと侍女達は、庭園のあちこちへと散らばっていく。



 テムルル・エイグは、ラダムナ宮殿の広い露台の縁に腰を下ろし、城下の町を見下ろしていた。

 華やかな貴族達の姿はどこにも無く、賑わいも無く、大手を振る憲兵と、無言で往来する住民、そこかしこで周囲を窺う公安隊。

「哀れなものだ。少しは楽しませてくれると期待したのに、結局何も変わらないか」

 テムルル・エイグは、つまらなそうに欠伸をした。


「いい気なものだな」

 背後から掛けられた声に、テムルル・エイグは、振り返りさえしなかった。

「情報屋タルギン・シゼルだな。会うのは初めてか」

「俺を知っているのか」

 タルギン・シゼルが近付こうとすると、テムルル・エイグは漸く振り返り、タルギン・シゼルを見やった。

「知っていると言えば知っているが、知らんと言えば知らん。どっちにしろ、それ以上は近付かないことだな。そうでないと、命の保証はしない」

「今さら、命など惜しくはない。やり残した仕事があってお前に会いに来ただけだ」

「このテムルル・エイグに会うことが、お前のやり残した仕事と?」


 タルギン・シゼルは、射るようにテムルル・エイグを見た。

「俺は知っている。お前は高みの見物のように見ろしているが、この現状は全て、お前が企てた策の結果だ。お前は一体何が目的で、あんなことをした」


 テムルル・エイグは、無言でタルギン・シゼルを見やり、おもむろに口を開いた。

「あんなこと、と言われても……な」

「多過ぎて、どれのことか見当がつかないと?」

 テムルル・エイグは、ニヤリと笑った。

「俺が一体何をしたと?」

「しらばくれるつもりか!」

 タルギン・シゼルは声を荒らげ、罪状を読み上げるように、テムルル・テイグの行いを列挙した。


 自ら実の父親テムルル・テイグを殺害し、指輪を使ってダムセル・ダオルを操って、トルキル元大連を陥れたこと。

 反逆の扇動罪を着せる為だけに、アスタリアの歌姫シェリンを利用したこと。

 その為に、歌手タウナス・ゲイグを罠に陥れたこと。

 クリュス島の火山を人工的に爆発させたこと。

 シルニン・イクルを新たな丞相に祭り上げたこと。

 ジグドル・ダザルをそそのかし、政権を転覆させたこと。

「貴族であるお前が、ジグドル・ダザル政権下で拘束もされず、宮殿で自由にしているのは、お前が奴と繋がっているからだ」


「俺がのんびりできるのは、何の要職にも就いていない放蕩息子だからだろうよ。それに、もし俺の企てだったとして、お前に一体何の関係がある」

 テムルル・エイグは、冷笑を浮かべて言った。

「関係は大いにある。トルキル元大連は俺の父親で、シェリンは妹だ。シェリンは、テムルル・エイグ、お前の妹でもあるはずだな」

「なるほどな」

 テムルル・エイグは、薄笑いを浮かべただけだった。


「エイグ様から離れろ!」

 背後からの声にタルギン・シゼルが振り返ると、大男が立っていた。


「バルドル、静かに控えていろと言ったはずだぞ」

「エイグ様、油断してはなりません。この情報屋は、どんな危険な道具を隠し持っているか分からない奴」

 婆娑羅ばさら族と呼ばれ、テムルル・エイグに付き従う貴族の子弟の一人だった。


「バルドルといったな。お前は、何故、疑いもなくテムルル・エイグに付き従う。お前自身の考えは無いのか」

 タルギン・シゼルの問いに、バルドルは、当然のように答えた。

「お前のような情報屋 風情ふぜいに答えてやる義理は無いが、答えてやろう。エイグ様は唯一無双のお方。だから従い、お守りする。それが自分で考えた答えだからだ」


 タルギン・シゼルは、テムルル・エイグを振り返った。

「テムルル・エイグ、お前は稀代の人誑ひとたらしと見える。一体どれだけの人間を操ってきたのか」

「俺は、腐り切った世の中には飽き飽きしていた。だが、俺は引き金を引いただけだ。そして、それを望んだ連中が居たのだ。俺が引き金を弾くことで、己の欲望を満たす連中が居たのだ。事は俺の手を放れ、関わる人間達の思惑のままに流転した。つまりは、お前の言うこの結果は、多くの人間達が望んだ結末なのだ」

 テムルル・エイグは、吐き捨てるように言った。

 タルギン・シゼルの背後に、バルドルが詰め寄る。

「エイグ様から離れろ。お前など、片手で捻り倒せるが、卑怯な道具を隠し持っているに違いないからな。この短剣で一刺しにしてやろう。左手で十分だ」

咎人とがびとを助け、糾弾きゅうだん者に刃を向けるのか」

「エイグ様は、咎人ではない。唯一罪と言えるテムルル・テイグ殿の殺害も、このバルドルがしたこと。エイグ様の罪ではない」

 信念に燃えるバルドルの目。

「バルドル、もしかして、お前は知らないのか?」

 タルギン・シゼルの問い掛けにも、バルドルの意気がそがれることは無かった。

「自分は、ただエイグ様を信じるのみ」

 左手には抜身の短剣。

「バルドル、お前の母親は、テムルル・テイグの間諜かんちょうだったファアティという女だ」

「それくらい知っている。父親知れずの自分を、テムルル家に恩義を受けた下級貴族が、養子として育ててくれたのだ」

 バルドルは、顔色を変えなかった。


「父親はテムルル・テイグだぞ!」

 タルギン・シゼルの言葉に、バルドルは初めて顔色を変えた。

たばかるな」

「少し考えれば気が付いたはずだ。父親知れずとされた理由に」

「違う。どこの馬の骨とも知れない男だったから、父親知れずだった」

「お前は、自分の母親を、そんな人間だと思うのか?」

 バルドルは、タルギン・シゼルに、激しい憎悪の目を向けた。

「お前は、何の恨みがあって、このバルドルに、そんな虚言を……」

「虚言ではない。ファアティは、テムルル・テイグを恩人と慕い、ただひたすらに尽くしたんだ。お前がテムルル・エイグを信じて従ったように」

「嘘だ……エイグ様に父親殺しをさせたくないと、そればかり思って……」


「バルドル、お前は知っているとばかり思っていた。だから、お前も、父親に恨みがあったのだと」

 少しも表情を変えないテムルル・エイグだった。

「エイグ様は、知って……」

「知っていたというよりも、気付いていたというだけだ」

「自分は、知らずにとは言え、父親を殺してしまったのか。この手で」

 バルドルは、左手に短剣を持ったまま己が右手を見つめ、その眼には次第に涙が溢れる。


「バルドル、お前には感謝している」

 テムルル・エイグのその言葉は、バルドルの中の何かを壊した。

 バルドルは、左手に持っていた抜身の短剣を利き手に持ち替えるや、目にも留まらぬ技で投げた。

 テムルル・エイグ目がけて、矢のように飛ぶ短剣。

 ふわりと何かが飛び込んだ。

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