1 月読祭(つくよみさい)の夜

 それまでの黒雨が嘘のように止むと、飛雲の下から現れたのは、美しい黄昏の空であった。

 懸河の如く逸る水原カレルが遙かに広がり、その流れも、今や徐々に静まりつつある。風色は急速に蒼然と暮れゆき、幾つかの小さな銀鉤ぎんこうと星辰が輝き始め、カレルは、淀んだ波間に浮上した夜光虫を漂わせて、仄蒼く光っていた。

 そのカレルの上を、明かりを灯した大小の舟々が、滑るように渡ってくる。贅沢に船を仕立て、あるいは乗り合いの渡し舟で、人々は集まってくるのだった。豪雨に洗われ浄められた聖なるラヴィア島での、月読みの祭礼を送るためにである。


 ロウギ・セトは、同舟の見物客の喧噪からやや離れて、渡し舟の手すりに凭れ、ゆるやかな風に吹かれながら、晦晦かいかいとした水面を眺めていた。青白くさえ見える他の客達に比べれば、ロウギの肌の色は幾らか日焼けしたようにも見える。頭髪は灯りに照らされた部分が金色に透けて見え、灰青色の瞳は感情が無いかのように静かだった。

「そこの若い旦那。どこから来なさったね。見たところ、ウルク周辺じゃなさそうだが、西インシュバル辺りからかね?」

 自身も地方から出てきたと見える一人の客が、ロウギに声を掛けた。

「いや。もっとずっと遠くからだ」

 ロウギは、風で乱される髪を片手で掻き上げ、生まれた時から喋っているかのような流暢(りゅうちょう)なウルクストリア標準語で答えた。

「まあ、ラダムナの月読祭は大した見物だでね。一生に一度は見ておく価値があるさね。わしは、もう三度目だがね」

 ロウギに声を掛けた客は、自慢そうに言った。

 この惑星エラーラでは、昼はストーレと呼ばれる豪雨が地上を覆う。そのため、人々はストーレの昼に眠り、夜の月の下で活動する生活をしているが、およそ二千七百夜に一度、十二の月の大半が隠れ、小さな繊月のみの暗い夜が訪れる。この長く暗い夜、人々は仕事を休み、篝火を焚き、歌舞音曲を捧げて、再び明るい夜を呼び戻そうと祭りを行う。それが月読祭である。

 月読みとは、「月を数える」の意で、「月呼び」の変化した言葉とも言われる。エラーラの宗主国ウルクストリアでは、首都ラダムナの母なる島、聖なるラヴィア島で、古来からのこの儀式が行われてきた。ウルクストリアのみならず周囲の国々からも、人々は集まってくるのだった。

 頭上で花火が上がった。耳をつんざく爆音とともに、夜空には五色の大輪の花が次々と咲いた。あちこちで歓声が上がり、同時に、噂話も聞こえてくる。

「月読祭にゃあ、花火は使わないはずじゃなかったかね?」

「テムルル大臣様のお考えらしいよ。第一皇子様ご誕生のお祝いさ。何しろ第一皇子様の外祖父になられて、今や飛ぶ鳥を落とす勢いだもの」

「蛇大臣様も出世なすったもんだ」

「今度とうとうじょうしょう丞相になられるってさ」

「先を越されて、トルキル大連様は内心穏やかじゃないだろうねえ」

「さてねえ。トルキル様にそんな野心がお有りかねえ」

「あ、そら、あそこ、竜の紋章の水上船だ。宗主陛下と御家族がお見えだよ。大型船専用の港の方に入っていくよ」

 渡し舟の客の一人が、指差しながら言った。

 ラヴィア島では、取り仕切りの役人の指図の下で、すでに手際よく準備が進められていた。港の周囲には早くも露店が張られ、場所を取り損なった露店商人は、少しでもいい場所に平底舟を泊めてその上で店開きをしようとしている。農民や漁民も、収穫したばかりの作物や干物などを自分の舟に並べ、祭りが始まるまでに一儲けとばかりに、見物客を相手に値段のやりとりをしたりしていた。

 やがて、ロウギの乗った渡し舟は船着場に着いた。船頭は、カレル水原に突き刺した舵取り竿をぐっと引き、舟を桟橋の一つに横付けにした。客達は競うように舟を降り、ロウギは慌てる様子も見せず最後に降りた。

 渡し舟やはしけ艀で次々にやって来る人々は、桟橋を渡り、祭事場へ続く人混みへと合流していく。ロウギ・セトもまた、人混みの中の僅かな空間に身を置き、人波の動きに逆らうでなく、ゆっくりと歩を進めた。

 人々の肌の色は殆ど皆一様に白いが、髪や瞳の色、服装は様々であり、様々な地域から人々が集っているのが分かる。祭事場へ至る大路の脇のそこここでは、旅芸人達が木戸銭集めに歌や踊りや奇術を披露し、人々は、そぞろ歩きながら露店を覗いては珍しい物を買い求め、ある者は甘露酒の杯を傾け、またある者は水煙草を吸い、祭りの甘茶を飲み、馳走を食べ、あるいは歓談し、人々の頭上を花火が彩る。

 他人と肩や腕を触れ合わずに歩くのは困難なほどの賑わいだったが、ロウギ・セトは、露天には目もくれず、人混みをすり抜けていく。


 入江の方から法螺貝の音が響いてきた。歓声が沸き起こる。祭りの目玉である鵬首船ほうしゅせんが到着したのだ。


 イサ、イサ、イサ、イサ、イサ、イサ、イサ、イサ……

 高まる人々の囃子の声。


 一人ずつの射手を乗せた十二艘の鵬首船に縄が掛けられ、台車に乗せられて、大勢の引手達が掛け声に会わせてそれを引き始めていた。祭事場までの長い距離を、鵬首船はゆっくりと動き始める。祭りはまだ始まったばかりであったが、すでに人々の気持ちは十分に盛り上がっている。

 やがて祭事場に到着すると、鵬首船に乗った十二人の射手は月に見立てた十二のかがりかご篝籠に向けて聖なる火矢を構えた。人々は途端に静まり、弓を引き絞って狙いを定める射手を固唾を呑んで見守った。

「イラッサー!」

 力強い掛け声と共に射手が火矢を放つと、火矢はみごと命中し、篝籠に炎が燃え上がった。とたんに会場からは感嘆のどよめきが沸き起こる。

 十二人の射手は次々に火矢を命中させ、その度に割れんばかりの拍手と歓声が沸き上がる。その鉄の篝籠の中には、護符や破魔矢が詰まっている。その護符や破魔矢は、前回の月読祭から今までの間に魔除けとして使われていたものである。古くなった護符や破魔矢の力は、聖なる炎の中で再生し、天に昇って月を輝かせる新たな力となるのである。


 イサ、イサ、イサ、イサ、イサ、イサ、イサ、イサ……

 人々の囃子の声はさらに高まる。


 天を焦がして燃える篝火、夜空に炸裂する花火。中央に設えられたやぐら櫓の上に、祈りの歌を奉納する歌い手が姿を現す。祈りの歌が終われば、いよいよ月読祭の本番、櫓の周りを幾重にも取り巻いて、招来踊りが始まるのだ。


 月風琴の古風な音色が響き始めた。それに唄が加わる。


  星の輪よ、巡れ

  時の輪よ、巡れ

  輪廻の輪巡りて夢は繰り返す


  エルディナとソルディナのつきしろ月白の普天普天ふてん

  東の果て西の遙かしじま沈黙の声はうた

  遙かな過去と遙かな未来と

  幾千度も寄せ返す波間に砕ける夢よ


 それは単純な旋律で、唄と言うより語りのようだった。ロウギ・セトは、人込みを透かし、離れた櫓の上の唄い手を見た。

赤銅色の肌は闇に紛れ、流れるように櫓の面に広がる長い髪は銀色に光に透け、細身の身体を覆う寛衣、鈍い光を放つ玉飾り、男とも女とも知れず、若いのか老いているのかも判断のつかぬ声と容貌。揺らめく篝火に照らされたその歌い手は、片膝を立てて座し、もう片膝に細長い棹の月風琴を載せ、瞼(まぶた)を閉じ、祭りの喧噪とは無縁の静けさを呈して唄を吟じていた。


  エルディナとソルディナの月映えの率土そつど

  南の果て北の遙かしじま沈黙の声は呼ぶ

  十二の月と十二の方位と

  幾千度(たび)も巡り繰る月の真昼の夢よ


 声の響き、月風琴の音の広がり、その介在する空気の波紋。それは、冷たいほどの静けさを保ちながら、ロウギの思考を妨げ、行動を束縛するほどの威圧感があった。

 太鼓は止み、笛も止み、囃子の声も止んでいた。しかし、静寂しじまの中に在りながら、怒涛どとうの如く高まる人々の興奮は冷めやらず、篝火は燃え盛り、花火は音も無く炸裂していた。一つの空間に流れる二つの異質な空気。


 それは突然であった。

〈エラーラよりく去れ。そしてラダスに帰るがいい、ロウギ・セトよ〉

 冷たい思念の声が、夜空を切り裂く稲妻のようにロウギの神経を貫いた。

 ロウギの意識は、閃光の中で一瞬途切れ、気が付くと、人込みを突き通し、ロウギは櫓の上に立った唄歌いと間近に相対していた。唄歌いは月風琴の棹を片手に持って直立し、静かにまなこ眼を開いた。燃える炎のような朱金の瞳がロウギ・セトをじっと見据え、攻撃するかのような鋭い思念波は、ロウギの全身を締め付けるかのようだった。

〈……何者だ。私を知っているのか〉

 ロウギは漸く思念を送り返した。

〈私が何者か、それはお前には知る必要のないこと〉

 無言の声は、窃笑するように答えた。

 ―タワスの情報員か。しかし、私以外に連盟より派遣された者は居ないはずだ。ではこの星には精神感応者が居るのか?

 ロウギが胸の内で自問すると、相手は口の端(は)で笑ったようだった。

〈私はそんなものではない。お前に私の計画の邪魔をされたくないだけだ。と 疾くこの星を去るがいい〉

 唄歌いは、ロウギの心を見透かしているようだった。

〈ロウギ・セト、いづれお前がこの星を訪れることは分かっていた。この月読祭の夜にこの場所で遭うことも。だがその先が分からない。未知数が多すぎて定まらぬ。殺しても良いものか……〉

 そして、唄歌いは再び月風琴を爪弾きながら唄を続けた。


  マディーラの奥津城おくつきは目覚め

  イーラファーンの巫女は歌う

  光と影

  過去と未来

  現象と幻影

  時満ちて一つに重なり

  夢は夢に還れ……


 唄歌いの姿は、再び人込みの向こうの櫓の上にあった。その唄声も次第に遠くなっていったが、その響きは、揺らぎながら、音叉が共振するようにロウギの頭の中で幾重にも広がっていき、不協和音となって鳴り響いた。

 ……ユラギ……テンメツ……キケン……

 ―まさか、ポイントなのか。見つけたのか?

 唄歌いは、超然とした瞳でロウギを見据えていた。

〈時は充分熟している。一つの鍵穴に一つの鍵。過ちは許されない。今一度言おう。ロウギ・セトよ、エラーラより疾く去るがいい〉


 全天を覆い尽くすかと思われる程の巨大な花火が炸裂した。その閃光の下で、辺りの風景は暫し影絵のように浮き出され、時間が停止した。

 光と影だけが支配する、妙に間延びした、音の無い、夢とうつつの交錯。

謎の唄歌いとロウギの二人だけが存在し、渦のように回転し、その遠心力で意識は彼方へと吹き飛ばされると思えた。


「あんた、どうかしんさったかね?」

 見知らぬ見物客に声を掛けられ、ロウギははっと我に返った。既にざわめきも時間も戻ってきていた。

「気分でも悪いかね?」

 地方から出てきたらしい、人の良さそうな老人であった。

 中央の櫓の上を見ると、青白い肌の剃髪の男が両のかいなを天へと差し伸べ、祝詞のりとを終えようとするところであった。

「天空に神留まり座すヴィドゥヤーよ、麗しきさかまなこ見開きて、その月の御光みひかりもて永久とわに安国と平けく知ろしめし賜え」

 笙の笛の音が厳かに響いている。


「今さっき、あの櫓の上に、銀の髪の唄歌いが居なかったか?」

ロウギは隣に居た老人に尋ねた。

「銀の髪? そんな唄歌いは見なかったよ」

 老人は不思議そうにロウギの顔を見上げた。

「そうか。いや、何でもない」

 祭儀場はますます盛り上がりを見せ、ウルクストリアの伝統的な衣装を身に付けた十二人の男達が、「イラッサー」の掛け声とともに大地を蹴って舞い始めた。その勇壮な舞を取り巻いて、見物人をも巻き込んだ招来踊りが始まろうとしているのだ。


 ロウギは、勇壮な舞を一瞥し、祭儀場に背を向けると、人混みをすり抜けながら船着場へと足を向けた。急ぐ必要があった。屋敷内から密かに抜け出したことを気付かれては困るのだ。

 と、ロウギの眼前に、不意に大きな人影が現れた。突き当たると思われた瞬間、ロウギはひらりとかわす。舌打ちの声がして、筋肉質の太い大きな腕がロウギの肩を掴んだ。

「何処見て歩いてるんだ。今、俺にぶつかっただろうが」

 それは、派手な身なりの容貌魁偉な男で、薄笑いを浮かべ、ロウギを見降ろしているのだった。

「かわしたと思ったが、ぶつかったのなら詫びよう」

 ロウギは、一礼して行き過ぎようとした。

婆娑羅ばさら族だ。暇を持て余した貴族の馬鹿息子達だよ」

「滅多なことを言うもんじゃない。関わり合わないのが身の為さね」

 往来する人々の間から、そんな囁きが聞こえていた。

 ふと、ロウギは、自分に注がれる別の視線に気付いた。

 大路の脇の露店で、貴族と思われる若い男が甘露酒の杯を傾けながらロウギを見ている。体格はやや小柄ながら、濃い褐色の髪と宝石のような緑色の瞳で不敵な笑みを浮かべたその姿には、人目を引く派手さがあった。

 

「どこ見てやがる。余所者だな。俺達流の礼儀を教えてやるぜ」

 尊大に構えた大柄な男は、そう言い終わらないうちに拳を突き出した。ロウギは微動だにせず、大男の拳はロウギの顔面紙一重のところで止まる。

「気に入らねえな」

 大男はニヤリと笑い、間髪を置かず、もう一方の手が振り上げられた。今度は本気のようだ。ロウギは僅かに身を逸らし、男の繰り出した手刀は宙を掻く。手刀に込められた力は行き場を無くし、男は危うく前のめりに倒れそうになった。

「てめえ、舐めてんじゃねえ」

男が声を荒らげ、辺りに悲鳴が響いた。

「俺達に無礼を働いて、まさか無事で済むとは思っていまいな」

舌なめずりし、獲物を狩る猛獣のように目を爛爛と輝かせて、大男達がロウギを取り囲んでいた。

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