2 夢の中の唄
彼女は吹き渡る風の中に佇んでいた。わずかに湿気を含んだ冷えた夜風だった。
さらさらさらさら……。
砂の流れる音であろうか。それとも、どこかの草むらの葉擦れの音であろうか。その微かな音の正体は分からない。遠く見渡すと、地平線の近く、崩れかけた石の壁が砂の上に蒼い影を落としている。空は高く深く、冴えざえとした蒼い月がひとつ。知っている星座は一つも無い。空の色も、砂の色も、空気までも、知っているものとは違う。それなのに、なぜか見覚えがあるように感じられる場所だった。
彼女の頬を一筋の涙が流れた。
ここはどこだろう。何故ここに居るのだろう。何がこんなに哀しいのだろう。
「おーい」
彼女は呼んでみた。その声は、吹き渡る風に吸い込まれ、こだまさえ返っては来なかった。
「おーい」
もう一度呼んでみても、虚しく星空に吸い込まれていくだけだった。
生き物は滅び去ってしまったかのように、漠として遙かな平原が広がるばかり。風だけがさらさらと砂の上に風紋を刻んでいく。
「……………」
誰かが彼女の名を呼んだような気がした。
辺りを見回すが、誰もいない。
彼女は、当てもなく歩き始めたが、再び名を呼ばれたような気がして足を止めた。
耳を澄ませても、その声は聞こえない。それでも、遠い遠い所から確かに自分を呼んでいるような感覚を拭い去ることはできなかった。
「待って。わたしを一人にしないで」
そして彼女は思い出す。誰かを探して自分はここまで来た。そして、もうずっとこうして誰かを探していたのだと。いつかその誰かに巡り逢える日を、もうずっと生まれる前から待っているのだと。
―生まれる前? そんな馬鹿なことってないわ。
そう思い返し、ふっと笑う。しかし、胸に降り積もった孤独も切なさも消えはしない。自然に涙が溢れ、止めどなく流れるばかりだった。
「わたしはここよ。ずっと待っているのよ。あなたはどこなの?」
彼女は名前を呼びたかった。呼んでも聞こえないのだとしても、永遠に逢えないのだとしても、もう居ない人の名前なのだとしても、あるいは、彼女の錯覚に過ぎないのだとしても、声を限りに呼びたかった。しかし、呼ぶべき名前が分からなかった。
「わたしはここよ。ずっと待っているのよ」
彼女は両腕で自分を抱き締めた。抱き締めた両腕はただ虚しく、やり場の無い想いと哀しみだけが満ち溢れ、よけいに彼女を切なくさせた。
遠い空を見上げると、霞のような彼女の心とは裏腹に、蒼い月が冴え冴えと輝いていた。
月光は、彼女の中の霞に小さな切れ間を生じさせ、そこに、唄の一節が閃いていた。
どこか懐かしいようなその唄の言葉と旋律を、彼女は声に出そうと息を吸った。
「シェリン!」
誰かが大声で呼ぶ声がした。はっとして目を開けると、彼女は、狭い部屋の小さな寝台に横たわっていた。
「時間だ。起きて用意をするんだ」
扉が開き、黒っぽい外套を着た背の高い男が入ってきて彼女を見下ろした。
迷子の子猫のように無防備なまま、彼女は寝床の中で動けないでいた。彼女の頭の中は空白で、何も思い出せなかった。思い出そうとすると、頭痛と目眩にも似た感覚に襲われた。その手探りの中で幾つかの記憶の断片が繋がり、漸く彼女は思い出す。自分がシェリンという名で、目の前の男の名はギイレス・カダムで、自分はアスタリアの小さな港町タレスに居るのだと。
そして、またあの夢を見たのだと彼女は思った。思い出そうとしても記憶はおぼろげで、哀しく寂しい切ない想いと、夢の中で何か唄おうとしていたことしか思い出せないのだった。
「さあ、何をぐずぐずしてるんだ」
ギイレス・カダムは、寝台の右手にある窓の鎧戸を勢いよく開けた。すでにストーレは止んでおり、薄青い月光が部屋一杯に差し込む。男は更にじれったそうに大股で
シェリンは、掌で涙を拭い、漸く寝台の上に身を起こした。
「宵のうちから一体何?」
「仕事に決まっている。働かざる者食うべからず。酒場で歌う以外に、お前に何が出来るよ」
「そうね、あたしに出来るのは歌うことだけ」
「お前は歌う。俺がその段取りをする。お前が歌わなかったら、俺達は二人して路頭に迷うことになる」
「分かっているわよ。気は乗らないけど、仕事はちゃんとするわ」
「着替えたら降りてこい。食事は向こうに着いてから食おう」
ギイレス・カダムは、そう言い残して部屋を出て行った。
シェリンは、ギイレスが散らかしていった衣装の一つに着替え、小さな鏡台の前で化粧をした。幼さの残る少女のような容貌から、酒場の薄明かりでも目立つであろう派手で大人びた印象へと変わる。
ギイレス・カダムと共に酒場に着き、いつものように裏の勝手口の扉を開けた。
なんだか様子がおかしい。
女店主が慌てたように出て来た。
「悪いけど、帰っておくれ。もう歌わなくていいよ」
「歌わなくていいって、どういう事だい」
ギイレス・カダムは唖然と口を開いた。
「聞いたんだよね。シェリン、あんた、花街生まれなんだってね。それはいいんだけど、母親を殺して花街を逃げたっていうじゃないか」
シェリンは目を見張り、口を開いたが、言葉は出てこなかった。
「奥さん、そりゃあ誤解だ。シェリンは確かに花街生まれだが、母親が死んだとき、シェリンは5歳にもなっていなかった。殺して逃げたなんて、一体誰が言ったんだ」
ギイレス・カダムは顔色を変え、怒りのあまり震える声で言った。
「誰かなんて知らないけど、すっかり噂になってる。シェリンがそんな娘じゃないって、あたしゃ信じてるけど、お客はそうはいかないんだよ」
「そうかい。あんたは情け深い奥さんだと思ってたが、違ってたんだな」
ギイレス・カダムが吐き捨てるように言った。
「あたしゃ情けを掛けてるからこそ正直に言ってるんだよ。タレスの港町じゃあ、もうあんた等はどこの店でも門前払いさね。別の町に行くんだね。噂が流れていない遠くの町にね」
倒れそうになるのを必死に耐えるシェリンを見て、ギイレス・カダムは、それ以上時間を費やすのをやめた。
「帰ろう、シェリン」
二人が店の勝手口から出ようとすると、女店主が思い出したように呼び止めた。近くに居た給仕に何か伝えると、給仕は、店の隅から何やら運んできた。
それは、火よりも赤く豪華な、深紅の月下蘭の花束だった。高級品である。
「あんたに渡してくれってさ」
女店主がシェリンに差し出す。
振り返って花束を見るなり、シェリンの顔色はさらに蒼白となって体は小刻みに震え始めた。
「一体誰が」とギイレス・カダムが訊く。
「さあ、知らないけど、こんな豪華な月下蘭の花束は見たことがないからね。よほどシェリンに心酔した金持ちなんだろうさ」
ギイレス・カダムは、傍らのシェリンにもう一度目を向けた。立っているのが限界と見えた。
「ああ、確かに受け取った。そして、俺達から店に贈るよ。じゃあな」
それだけ言い、ギイレス・カダムはシェリンの背中を押して勝手口を出た。
よろめくように店の外に出たシェリンだったが、一言も発することなく、突くようにギイレス・カダムから離れ、その場を走り去ろうとした。慌ててギイレス・カダムがシェリンの腕を取ったが、彼女はそれを振りほどいた。
「シェリン」
ギイレス・カダムが叫んでも、シェリンは振り返りもせず、街並みのどこかへと見えなくなった。
ギイレス・カダムは、走って追うことはしなかった。彼は片足が悪く、走ることが出来なかったのだ。
宿にもシェリンは帰っておらず、ギイレス・カダムは深いため息をついた。
シェリンは町を
再びストーレが降り出していた。町を彷徨ううちに、長い時間が過ぎてしまったようだ。港町の
シェリンの脳裏に、薄暗い部屋で血だらけで息絶えていた母の姿が甦っていた。母の白い肌と薄墨色の部屋着が血に染まり、そのかたわらで、声も出せずに震えていた幼いシェリン。あまりにも強烈な血の赤のせいか、母の着ていた部屋着が本当は何色だったのか、シェリンは思い出せない。その時も降りしきっていた暗く冷たいストーレの、耳をつんざく激しい雨音。
ふと、人の気配に気付いて振り向くと、ギイレス・カダムが立っていた。
「イオラスに行くぞ。首都アスターラより近いし、アスタリア随一の商業都市だからな」
「あたしなんか見限って、別の歌手と組んだら?」
シェリンは、ギイレス・カダムが何故そうしないのか不思議に思うのだ。
「そんな必要がどこにある」
ギイレス・カダムは当然のように言った。
「でも、イオラスにも噂は広まっているかもしれない」
シェリンは顔を伏せ、ため息のように言った。
「まさかとは思うが、このタレスの港町を離れたくないのか」
「嫌いよ、こんな息苦しい町」
シェリンは強く否定した。
「そうとも、お前に弱気は似合わない。お前は俺の見つけた光晶石だからな。お前は歌うことだけ考えればいい」
「そんなの無理よ。だって、あたし、もう疲れてしまったもの。もう歌いたくないのよ」
ギイレス・カダムは、暫しの無言の後、突き放すように言った。
「お前が歌いたいか、歌いたくないかなんて関係ない」
「でも、あたし……」
言いかけたシェリンの言葉を遮って、ギイレス・カダムは続けた。
「昔のお前は、街角で歌って稼いだ日銭も誰かに横取りされて、死と隣り合わせの暮らしだったが、俺がお前を見つけた。俺は何があってもお前を手放しはしないから安心しろ。目を瞑って想像してみな。満場の観客。割れんばかりの拍手と歓声。誰もがお前の名を叫ぶ」
ギイレス・カダムは、何かを企むようにニヤリと笑った。
「イオラスへはピアレン経由だ。ピアレンでは段取りに四、五夜はかかるだろう。俺が上手くやる。何も心配はいらない。ちっぽけな港町の酒場歌手からは卒業だ。貴族や有力者に庇護されるのでもなく、逆にお前が奴らを
ギイレス・カダムの野心は揺るがず、硝子のようなシェリンの心が折れるのを許さないのだった。
「分かった。イオラスに行くわ。」
シェリンは
天蓋から外れた港の外の水原は、
シェリンは、無意識のようにアスタリアの伝承歌を口ずさんだ。
月の真昼に金の花咲く
お前の忘れたその歌を
誰が教えてくれるだろう
月の真昼に銀の鈴鳴る
お前がその歌思い出すなら
彼女は、その歌からシェリンという自分の名前を付けたのだった。
水原の果て、そんな場所まで行けたなら、どんなにいいだろう。生きるために歌うのではなく、誰かに強制されるのでもなく、空を見て、月を見て、星を見て、鳥を見て、好きな時に好きな歌を歌うのだ。水原の果ての海を渡る風のように。
そして、心の奥底に眠る思い出せない唄を、シェリンもいつか思い出せるかもしれないと。
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