故郷の白い枝

@nekobatake

故郷の白い枝

「えへへ……うん。はい、そのですね。えっと、そのー……実は、わたしも……あなたが……好き……です。ああっ、言っちゃった」


 そう言うと彼女は、抱きかかえた両膝に顔を埋めて、ぐりぐりと頭を横に振る。彼女の小さな体の小さな動きに、僕の心は大きく揺らぐ。

 揺らぎは微かに罪悪感を呼び起こす。このタイミングで、君のことが好きだと、僕が想いを伝えたことへの。

 あと5分しかない。それは事実だ。しかし、時間がないことを踏まえたとしても、あまりにも薄っぺらい嘘だった。

 だが、それがどうした。僕は気を引き締め直して、揺らいだ心をもとに戻す。ほんの一瞬で僕は誇りを取り戻す。そして、取り繕う。


「そんなに恥ずがしがらなくてもいいだろ」

「いや、だって……えへへ、恥ずかしい、です……でも」

「でも?」

「でも……それ以上にうれしくって。うれしくって、うれしすぎて……顔が上げらんないです、はい」

「何だかこっちまで照れてくるな」


 僕の言葉に、はにかみながら彼女は、えへへすいません、と顔を上げる。恥ずかしいと言った通り、雪のように白い肌が紅潮している。放つ言葉と心が全く乖離していない、正直者の表情だ。僕とは真逆の。


「あ……あのですね、えっと、その」

「どうした?」

「いえ、せっかく、その、ほら……お互い、好き、どうしなんですし、何か色々、お話しましょう? わたし、あなたのこと、もっと、もっともっと、知りたいです」

「ああ、そうだな、いい考えだ。何でも訊いてくれ」

「うーん、何でも。じゃあ、あの、その……あなたの故郷のこと、教えてくれませんか?」

「故郷?」


 彼女の言葉に、そういえば今までそんなことは話したことがなかったと、気付いた。それに気付いたからといって、何がどうというわけでもないが。


「別にいいけど、そんなこと聞いて楽しいか?」

「はい! ……あ、いえ、まだ聞いてないから分からないですけど、きっと、楽しいはずです。あ、いえっ、きっと、じゃないです。ぜったい、です」

「分かった。どこから話せばいいかな」

「なんでもいいんです。わたしが知りたいことは、なんでも、です」

「そうだな……まず、とにかく寒いんだよ、とても寒い」


 僕の故郷を語るには、まず故郷という言葉の定義から始める必要があるはずだった。しかし、僕は自然と、生まれ育った村のことを口にしていた。

 戦場の一部になって、消し炭となった村。

 故郷と定義していいのかも分からない、この世界にはもう存在しない場所。

 故郷が帰るべき場所だというのなら、僕の故郷は、軍本部に違いないはずで、軍本部が根を下ろしている都か、あるいは基地か、所属中の特務部隊そのものか。

 いくらでも迷うはずだった。でも、僕は自然と村のことを語りだしていた。幼かった僕とともに、燃え盛る炎の中へと消えてしまった村のことを。


「そう言っても、雪が多く降るというわけでもないんだ。いや、年によっては雪かきとかはしなければいけないぐらいには、積もるよ。でも、豪雪地帯だとか、吹雪がすごいだとか、そこまでの規模じゃない」

「へえ。湿度とかの関係ですかねえ」

「そうかもしれない。そして、往々にして、そういう場所のほうが、雪が多く降る地域よりも寒いんだ。実際の温度もそうだけど、体感温度となるともっとひどい」

「ひゃあ。わたし、寒いのニガテ」


 そう言って彼女は抱えた両膝をぎゅっと強く抱きしめ直して、続ける。


「でも、寒いよ~って思い出しかないんですか? 違いますよね? もっと、なにか、思い出、そう、いいことがあったはずです」

「…………どうだろう」


 その瞬間、誇りさえも忘れて、僕は考えた。思い出。いいこと。……そんなことが本当にあっただろうか?

 あるいは、何もなかったのだろうか?

 


「……おかしな話かもしれないけど、何が思い出に該当するのか、判断がつかない」


 僕の言葉に彼女は一瞬だけ言葉を失うと、すぐに笑い出した。いつもの控えめな笑い方ではなくて、もっとはっきりとした笑い方だった。でも、彼女はすぐにいつもの調子に戻って、


「ふふっ、そんなに難しく考えなくていいんですよ。毎日の日常で覚えてること。それを語ってくれればいいんです」

「日常で覚えてることを、そのまま思い出と定義していいのか?」

「うーん、正確には違うかもですけど。でも、だからこそ、です。思い出として、これといったものを挙げられない。じゃあ、これといったものではない何か、そこに思い出があるんじゃあないかな、って。えへへ、バカみたいですよね?」

「いいや、そんなことないさ。じゃあ、日常を思い出そうか」


 そう言って、僕は村での日々を思い出そうとする、人々の顔が――きっと家族の顔も混ざっているのだろう――心のなかで浮かぼうとしては、また沈んでいった。後から思い出さないよう、僕が慎重に蓋をしていた記憶だ。

 だから、僕が思い出したのは、こんなつまらないことだった。


「……雪はあまり降らない。でもたまには降る。いや、違う、しょっちゅう降っていたな。軽く積もるほど。雪かきが大変だと思うぐらいの積り方は、数年に一度、だったかな。さっきも言った話だ」

「ええ」

「だから、よく見かけたんだ。こう、枝を灰色の空に伸ばしている樹々がたくさんあった。それに雪が積もる。すると、なんだろう、ほとんど色のついていないはずの葉や枝が、白い花を咲かせたみたいで綺麗だった」

「ふふっ、すてきですね」

「幼い頃、それを見るのが好きだった。好きだった、って言うくせに、それほど近づいたことはないんだ。というのも、一度、枝が重みに耐えきれなくなってへし折れて、大量の雪とともに降り掛かってきたことがあってね」

「あははっ、それ、見たかったです」

「いやあ、突然真っ暗になるし、体は痛いし、冷たいし、寒いし。ああ、そう、雪の下敷きになると、真っ白の世界が広がるんじゃないんだ。ただ、暗い。暗くて寒くて冷たい」

「ふふっ、はたから見てるほど、楽しいことではないんですねえ」

「幼かったからね。この世の終わりかと思った。大げさじゃなく」


 話し出すと、意外と思い出せるものだなと、僕は思った。


「樹の枝についてはもう一つあってね。いや、大枠では同じ話なんだけど、葉の上に積もった雪の量や気温、前日の雨や雪の降り方、そういうのがうまく重なると、葉の上に雪の結晶が走るんだよ」

「はしる? えっ、はしるんですか?」

「葉の上に葉脈が走るのと同じように。いや、あれは実際、葉脈に沿って浮かび上がっているのかな」

「ああ、なるほど、なんとなく分かります」 

「それが現実離れした美しさでね、一度でいいから手に取りたいって、当時は思ったな」

「どうして、取らなかったんですか?」

「……さっき言った通り、枝が落ちてくるかも、と思うと近づきたくなかった。それに――」


 ――それに、僕が近づくと壊れてしまうと思ったんだ。


 自分で言おうとしたことに、自分自身で驚く。僕はこんな事を考えていたのか? いや、違う、一時の気の迷いだ。碌に思い出せない記憶を掘り返そうとした反動だ。


「……いいや、よそう。それより、僕の話ばかりしててもつまらないだろ。そっちは思い出とか、何か話したいことは?」

「ええー、わたし? うーん、わたしの思い出は、訊くまでもないと思うけどなあ……あなたと過ごせた日々、ぜんぶ、です」

「そうか、それは光栄だ」

「あっ、信じてませんね。でも、ほんとうに、感謝してるんですよ。あなたがここにきて、何年もずっと付き人でいてくれたから、わたし、ひどい目に合わされずにすみました」

「君は貴重な存在なんだ。僕がいなくても、そんな目になんて合わされない」

「……えへへ、あなたが裏で色々と配慮してくれていたの、わたしが、知らないとでも?」

「そんな話はもういいだろう」

「え? ほんとうに、もう、いいんですか? だって――」


 彼女は、それまでずっと浮かべていた笑みを消した。


「――だって、あなたは、私が心変わりしないよう、5分間監視してなくちゃいけないんですから。もっと時間を稼がないと」


 彼女の言葉に、僕は何も言い返せない。

   

「皆さん、避難しましたよね? 残っているのは、あなただけ。もう、ここは、なくなるんですよね?」

「……難しいことは考えなくていい」

「ええ、ええ。そうですよね。いつもだったら、不安になっても、あなたの手を握っていれば落ち着くんです。でも、今は、それもできない」

 

 彼女はそう言うと、手を伸ばして透明な壁に触れる。僕と彼女を隔絶させている見えない壁に。


「……すまない」

「謝らないでください。それより、もっと、してほしいことがあります」

「何だ?」

「それはですね……えへへ、おしゃべり、です」


 彼女は再び笑みを浮かべた。


「あなたの故郷に思い出がなくても、わたしとの思い出はありませんか? なんでも、なんでもいんです、どうか、どうか、聞かせてください」

「……ここに赴任したとき」

「ええ、ええ」

「初めて君を見て、細くて、小さくて、白くて……ああ、そう、そうだ。どうして忘れていたんだろう。君を初めて見たとき、故郷のあの樹を思い出したんだ」

「樹、ですか? ふふっ、それ、褒め言葉になります?」

「気分を害したのなら、すまない」

「いいえ、ぜんぜん。許してあげます」 


 そう言って、彼女は悪戯っぽく笑った。僕は続ける。


「とても寒い地域に生える樹には、樹皮そのものが白い種類のものがある。でも、僕の故郷は違った。みんな普通に黒々とした樹だったんだよ」

「それに雪が乗っているの、好きなんでしたよね」

「そう。でも、僕が言っている樹はそうじゃなかった。雪も積もらない。室内で飾られていたから」

「室内? あなたのおうちですか?」

「そうだったかもしれない。その樹は、もう長く生きられないのが明らかなぐらい弱ってたから、育ち切る前に伐採して、白く塗装して、葉が落ちないよう加工した。その偽物の樹をインテリアとして飾っていた」

「へえ、白い樹が好きだったんです?」

「どうだろう。ああ、そうそう、枝の部分だけを鉢植えに植えたから……ひと目見ただけだとミニチュアサイズの樹だけど、あれは正確には枝だな。樹じゃない」

「ふうん、それ、あなたは気に入ってました?」

「ああ、すごく」

「どうして?」

「さあ?」


 幼かった頃の僕は、よくそれを見つめていた。それは思い出せる。でも、どうしてそれを気に入っていたのか、誰がそれを加工したのか、もう思い出せない。村が炎に飲まれていく中、あの故郷の白い枝も、燃え盛る炎の燃料になったのだろうか。


「……なんでもいい、とは言われたが、ひどい話だな。もっと別のなにかが、君に聞かせてやるべき話が、あるはずなのに」

「えへへ、そんなこと、ないです。わたし、いまのお話、好きですよ」


 そう言うと彼女は、深く息を吸い込んだ。そしてそれを大きく吐ききり、また吸って、そして語りだす。


「ねえ、わたしも、思い出、やっぱり話したいです。さっきは、あなたとの日々ぜんぶ、なんて言いましたけど、やっぱり、その、これだけは……ほんとうに、大切な、思い出だから」

「……聞かせてくれ」

「ふたりで、洗濯もの、干したときのことです」

「ああ。あれ……」


 色々な不幸なタイミングが重なって、洗濯係が不在の中、僕が大量のベッドのシーツやら着替えやらを洗濯する必要があった。それを、本来はそんなことをする立場ではないはずの彼女が、手伝ったのだ。


「ふふっ、あなた、服たたむの、下手くそでしたよねえ」

「慣れてないからな」

「でも、その前の、干すときの手際はとてもよかったです」

「あれは力仕事だしな。それに、ほら、君は肌が弱いから、太陽の光で疲れただろう」

「ええ、くらくらしちゃいました。でも、平気なフリ、うまかったでしょ?」

「いいや、バレバレだった」

「ええっ、うそ、ですよね? あっ、そのかお、本当っぽいです……」


 洗濯ものの爽やかな香りが風に吹かれる中、眩しい陽の明かりにちょっと疲れた顔の彼女が、はためくシーツに囲まれていたあの光景を、僕は思い出していた。

 夏の鮮やかな緑と晴れ渡る大空、立ち上る大きく白い雲を背景に、白いシーツがはためいていて、季節外れの雪のように白い彼女。まるで一枚の絵画のような光景に、

 きっと、彼女も同じように、眩しさに目を細めながら汗を流す僕の姿を、思い出していたのだろう。しみじみと彼女は、言った。

 

「……あーあ。またいつか、あなたと、洗濯もの、干したかったなあ」


 僕は何も言えなかった。

 ほんの少しの空白、しかし、いまの僕らにはあまりにも永く冷たい沈黙が過ぎてから、彼女は言った。


「えへへ、あの……最後に、もう一度だけ、言わせてください」


 いつの間にか、彼女の瞳からは涙が溢れ、頬を伝って落ちている。


「わたし、あなたのことが、ほんとうに、ほんとうに……大好きでした。今まで、ありがとう――」


 その瞬間、魔法陣の中は眩い光りに包まれて、それが収まると、もう彼女の姿は消え去っていた。

 5分が経ったのだ。術式が完成するまでの5分が。

 魔法陣に接続された装置のパネルは、正常に動作が完了したことを、つまり人造魔導生命体ホムンクルスの彼女を分解して魔力へと変換後、魔導砲を敵陣に射出したことを告げていた。

 ……戦局は極めて悪かった。この地方は既に敵国の手に落ちて、ここが見つかるのも時間の問題だった。その前に、どうしても一矢報いる必要があった。

 今になって分かったことがある。故郷を焼き出されてから軍で見つけた僕の誇りは、誇りでも何でもないただの怨恨だった。いや、そんなことはどうでもいい。もっと大切なことに、僕は気付いてしまった。


 彼女がいなくなって初めて分かった。


 僕の想いは、彼女が消える瞬間に初めて、

 5分前、僕が彼女に吐いた薄っぺらな嘘によって、見せかけだけ通じ合わせたはずの想いが、本当は僕が望んでいた全てだったということを。

 体の震えが収まらなかった。

 

 携帯端末に通信魔法の連絡が入る。攻撃は成功、魔導研究所の自爆に巻き込まれないよう急いで研究成果を持ち帰れ、という内容だ。僕は、端末を床に叩きつけて壊した。人造魔導生命体ホムンクルス研究のデータを格納した端末も続けて壊す。


 壁に背を預けて座り込む。

 の爆発に巻き込まれて塵と化すまで、このまま待とう。

 目を閉じて、眩しい陽の光の下、少し疲れた表情の、でも満面の笑みを浮かべていた雪のように白い彼女のことを思い出す。でも、僕にはそれを思い出す資格がなかった。思い出すことをやめて、目を開く。


 彼女の真似をして、膝を抱え込んで顔を埋めてみると、視界が真っ暗になった。重圧で僕はもう体を動かすことも出来ない。体のどこかが痛い。寒い。冷たい。

 ああ、雪の下敷きになったみたいだ。

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