恋雨

月品 冬子

恋雨

窓を叩く雨の音で目を覚ました。雨はそこらじゅうを叩き、風はがなり立て、まるで喧嘩をしているようだ。

雨は嫌いだけれど、朝起きて雨だったら少し嬉しくなる。平日だと特に。

あれはいつのことだっただろうか。雨だから少し早めに学校に行った日、私よりも先に誰もいない教室で箒を持っているクラスメートがいた。窓から灰色に明るい光が差し込んで、少し逆光だった彼が誰なのか、最初は分からなかった。

「おはよう」

低い声でそう呟いた彼におはようと返すまで三秒ほどかかった。今まで話したことのないクラスメートだった。

「掃除してるの?」

「うん。雨だから少し早く来たんだ。でも暇で、なんとなく今日教室なんか綺麗だなってみんなが思ったら良いなって思って」

言い訳をするように彼は口早にそう言った。耳が少し赤くなっていた。

あの時から私はずっと雨の日は早く行くようにしている。そして彼と掃除をする。誰かが気づくかもしれない。気づかないかもしれない。二人だけの秘密のように、その日々はずっと続いていた。約束したわけでもないのに、私たちは雨の日にだけ早く教室に向かっていた。それは物語のような青春だった。日中他のクラスメートがいる時に話したことはない。多分みんなは私たちが仲が良いなんて知らないだろう。いや、本当に仲が良いのか私も分からない。連絡先も知らないし、雨の日の朝一緒にささやかな秘密を抱えるだけの関係だ。だけどその時間が私にとってはたまらなく愛おしいことを彼は知っているのだろうか。知らなくてもいい、彼も同じ気持ちでいてほしい。それはわがままな願いだろうか。

今日も教室には彼がいた。私も彼も髪の毛と制服の裾とカッターシャツの袖が少し濡れている。靴下の替えを忘れたのか、彼は裸足で上履きを履いていた。

「おはよう」

そう声をかけて掃除用具入れを開いた。

「あれ。いつもより箒が綺麗」

「あ、気づいてくれたんだ。今日いつもより早く来たから掃除しといたんだよね」

「なるほどね。さすが」

彼は少し耳を赤くしてそっぽを向いた。その後ろ姿はあの日から変わっていない。

「あと少しだね」

私は彼の背中に向かってそう言った。

「何が?」

彼は振り向いた。彼がこちらに近づいて来て、私は彼とすれ違うように窓際へ近寄った。水分を多く含んだ空気と、分厚い雲をかろうじて通り抜けた暗い光が窓の外に幻想的な絵を描いていた。窓についた雨粒が一筋二筋と垂れる。

「卒業まで」

私は喉に力を込めた。そうしなければ泣いてしまいそうだった。その瞬間ジジジ、と音を立てて電気がついた。彼がスイッチを押したのだ。消えかけの蛍光灯が、フラッシュを焚くように点滅する。外よりも教室の方が明るくなったせいで窓ガラスはまるで鏡のように私の顔を映し出した。すると彼もゆっくり私の横に歩いてきた。

「卒業まで短いと感じるか長いと感じるかの差ってさ、多分今のこの場所にどれだけ大切なものがあるかってことだよね」

彼はそう言いながら窓も鏡越しに私の目を見た。打ちつける雨はいっそう強くなって大きな音を立てている。

「あなたは短いと思う?それとも」

私の言葉は、校内放送のアナウンスにかき消された。

「本日は、暴風警報、大雨警報が発令されたため休校とします。校内にいる生徒は安全を確保して速やかに下校してください」

「帰らなきゃ」

私はさっきの発言を無かったことにしてそう呟いた。結局箒を出しただけで掃除はしなかったな、と思いつつ掃除用具入れに向かう。

「帰らないの?雨ひどくなるよ」

彼にそう声をかけると、彼は窓の外を見たまま私を手招きした。私はゆっくりと彼に近づいた。

彼の隣に立つと、彼は私を見ずにあと少しだね、と言った。

「大切なもの、あるの?」

「そうだね」

私は窓越しに彼の顔を見た。すると彼と目があった。私たちは二人とも黙りこくってしまった。

どんどん雨はひどくなる。窓をつたう雨が大粒になっていく。その中の一粒が、窓に映った彼の瞳から零れ落ちた。思わず彼を直接見た。でも彼は泣いていなかった。窓にもう一度目を向けると、やっぱり彼の頬には何筋もの透明な道ができていた。そしてそれは、私の頬にもあった。窓に映る私たちは意味もなく泣いていた。

「泣いてるね、俺たち」

彼は静かにそう言った。彼の低い声が震えているように感じた。その瞬間、教室の扉が開いた。私たちは驚いて扉の方を見る。

「お前ら早く帰れよー」

入ってきた担任はそう言って教室の電気を消した。窓からは私たちの顔が消えて、校庭の風景が浮き上がった。私はその風景を名残惜しく見つめた。

「なに、お前らだったの?雨の日教室掃除してたのは」

担任は彼が持つ箒を見たのだろう。私と彼は顔を見合わせて笑った。

「そうです」

そう答えた彼の声は震えていなかった。

「そっか、ありがとな。そんでさっさと帰れよー」

担任はそう言って出て行った。私たちは電気の消えた教室で見つめあった。

「気づいてる人、いたね」

「案外俺たちの存在って他の人に認識されてるのかも」

「なにそれ。今まで認識されてないと思ってたの?」

「うーん。なんて言えばいいんだろ。俺って地味だからさ、あんまり目立たないし、休んでも多分四限目くらいでやっと気づいてもらえる存在っていうか」

「あ、それは私もそうだよ。いなくても誰も困らない」

「俺は気づくよ、朝一番に」

彼はそう言って箒を壁に立てかけた。そしてうんと背伸びをする。

「私も。あなたがいなかったら朝一番に気づく」

「そっか」

彼はそう言って箒をもう一度持って片付けた。

「電気、つけようか」

彼はそう言ってスイッチに手をかけた。私は首を振る。

「ううん」

泣きたくなかった。まだまだ時間はあると思いたかった。

「最近さ、ハナミズキの葉っぱが落ちてくるんだよね。登下校の道でさ、あるんだよ。歩道沿いにずっと植えてあるところ」

「そうなんだ」

「落ち方が綺麗なんだよな。舞い落ちるっていうのがぴったりで、くるくる回りながら落ちて行くんだよ。それがすっごい綺麗で、切なくて。終わる時って結構汚く終わることが多いじゃん。ほら、人間が死ぬ時とかも、自分でトイレ行けなくなって介護してもらうことになるようにさ」

彼は突然、珍しく饒舌になった。スイッチに添えられていた手は、いつの間にかその輪郭をなぞっていた。

「俺さ、終わる時は綺麗に終わりたいんだよね。ハナミズキみたいに、死ぬ時だけじゃなくって全部ね」

彼は小さく、例えば卒業とか、と続けた。

「だから俺は多分泣かない。卒業式の時。君は?泣くと思う?」

彼は私をまっすぐに見つめた。なんでそんなこと聞くのか分からなくて、それでも何故かちゃんと答えなければと思った。彼がいつもと違う姿を見せているこの瞬間、ちゃんと向き合わなければならないと思った。

「泣くよ。きっと、誰にも知られないように誰もいないところで静かに泣くよ」

「今日みたいに?」

「そう、今日みたいに」

窓の外に垂れる透明な雫は、学校の景色を逆さまに映し出していた。一粒一粒全てに学校は映り込んでいた。まるでこの世界が幾つも存在するかのように。

きっと、この場所に抱く想いは人それぞれで、人間の数だけこの場所には意味があるのだろう。そしてそれはいくら言葉を尽くしても他人に理解させることはできない。私の世界は私だけのもので、彼の世界は彼だけのものだ。

「ねえ知ってる?キリストが架けられた十字架ってハナミズキでできたんだって。あんなに綺麗な木なのに、そんな悲しいお話があるんだよ」

私はふと思い出してそう言った。

「どんな綺麗なものにも悲しみや苦しみはやっぱりあるよ。それから逃れることはできない。だから我慢する必要はないよ。泣きたければ泣けばいい。恥ずかしいとか関係ないし、私はあなたに泣いてほしい」

自分でもなにを言っているのか分からなかった。ただ、卒業の日泣くのが、この場所を大切に思っているからだとしたら、彼が泣かなければ私は寂しいと感じるに違いないと思った。

「卒業式も雨の日ならいいのに。そうすれば窓の中の俺が代わりに泣いてくれるのにね」

「卒業式は晴れがいいよ」

私はそう言った。

「最後の日ぐらい、雨に理由をつけないで自分の力で頑張りたいもん」

最後の日ぐらい雨じゃなくても彼に声をかけよう、そう決めたのはいつだったか。少なくとももう数ヶ月は前のことだ。

「そっか」

彼はそう言って窓のそばに来た。

「帰ろう。雨がひどくなる」

「そうだね」

次の日は、晴れていた。ぐちゃぐちゃのグラウンドは青い空を映し出してまるで地面に空があるようで、まるで私は空を飛ぶようだった。彼はチャイムが鳴る寸前に教室に入ってきた。数人の友達におはようと言って私を素通りして彼は席についた。私が頬杖をついて彼を見てることなんて気付いていないのだろう。


俺が彼女と初めて喋ったあの雨の日、あれは偶然なんかじゃなかった。雨の日は彼女が早く来ると知ったのは、たまたまだった。彼女が彼女の友人と楽しそうに、雨の日は登校中髪の毛が濡れるからみんなが来るまでに乾くように早く来ると話していたのだ。その一週間後雨が降った。俺は朝食も食べずに家を飛び出していた。早く着きすぎたのか彼女はいなかった。だから俺は箒を持った。何かしていないと落ち着かなかった。彼女が来て、掃除している理由を説明した時本当は緊張していた。顔が赤くなるのがわかった。本当の理由なんて言えないからそれっぽいことを口走った。

晴れの日に彼女と話す勇気があれば。

俺は雨が好きだ。自分の気持ちを隠してくれるようで安心するから。だけど同時にそんな雨が嫌いだ。だって俺にとって彼女は太陽のような人だから。そんな彼女に雨の日に話しかけることができても意味がない。だけどもう少しだけ、二人の距離はこのままでいい。そんなの間違ってる。だってあともう少ししかないんだから。

目覚まし時計のアラームが鳴るまであと五分。今日の降水確率はゼロパーセントだけれど、彼女と話す確率は百パーセントだ。

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恋雨 月品 冬子 @Asako_Sanada

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