第2話 ゆず茶

 美穂の家の玄関は道路には面しておらず、およそ軽自動車の前側に位置する。扉二枚が敷居の溝に嵌められた引き戸タイプで、中に入ると二畳弱のタイルの土間がある。土間と床の段差は30センチ程で、同じく二畳弱の踊り場があり、階段と廊下に分かれる。


 藤の季節が終わっても、夜は冷える。

 美穂は、自分が蓮を呼び止めたのは、純粋に、蓮の身体を心配したからだ、と、自分に言い聞かせた。


(だって、高橋君は、私の所為で、こんな夜道を歩かなきゃならなかったんだから…。それに、高橋君はこれから、お家まで帰らなきゃならないんでしょ。ねぇ。風邪なんか引いちゃったら、悪いもん。そう…ただ、それだけ、うん。そう、それだけよ)


 美穂が柚希と蓮伝授のキスをして、美穂が、自分で厭う程いやらしい身体になっている事を、明日の夜まで、美穂の両親が飛行機の距離の親戚の家に行っている事を、蓮は知らない。

 今、美穂と蓮が一緒にいる事を、柚希は知らない。

 そして、美穂が蓮を好きな事を、美穂が今、もっと蓮と一緒にいたい、と思っている事を、誰も知らない。

 そんな秘密の群衆を、美穂自身も蓋をした。


 軽自動車と家庭菜園の間に二台の自転車を停めて、美穂は、蓮を玄関の中へ招きいれた。その際、両親は二階の奥の部屋で寝ているという体をとっていた為、声を抑えるお願いもしていた。


「お邪魔しま…す」

 小声で、心持ち猫背にして身を小さくした蓮は、玄関の扉をそろそろっと閉めた。そして、踊り場の重厚感のある玄関マットの上に腰を下ろす。


 まさに自分のホームにいる安心感からだろうか。美穂は、歩く事もままならなかった事が嘘のように、真っ直ぐ廊下を進み、右手側にある台所の中に入っていった。そして、ゴミ箱の上にティッシュの箱を乗せて、蓮の横に置き、

「さっき、くしゃみしてたでしょ。鼻、かんじゃって」

 と、言い、今度は、踊り場の横の部屋に入って、折り畳んだブランケットを持ってくるなど、かいがいしく動いた。


「これ、どうぞ」

 美穂が差し出すと、蓮はそれを受け取り、

「あ、ねぇ。田畑さん、ごめん、ちょっと、トイレ貸して」

 と、言った。


 美穂は、制服のままだ。

 着替える、などと言ったら、そのタイミングで蓮が帰ってしまうだろう、と思ったからだ。半ば強引に家に入ってもらったのは、あくまでついで、というか、着替えにも至らない僅かな時間を装わなければならない、と思ったからだ。


「あ、うん。えっと…こっち」

 と、美穂は、蓮をトイレに案内した。


 台所を左に曲がるとお風呂とトイレがある。

 美穂もまた、蓮にブランケットを渡した後、トイレに行こうと思っていた。トイレの向こう側には、もう一部屋あるにはあるが、蓮が玄関に戻った後、自分がそっちに行けば、蓮にトイレに行った事がバレる、と、思った。

 生理現象として、トイレに行く事は当然の事だが、好きな人にトイレに行く姿を見られたくは無いものだ。そして、行きたい理由も理由であった。用を足したいわけじゃない。下着を替えたかったのだ。


 美穂は、台所に戻って小さく嘆息した。

 食器棚から『ゆず茶』というラベルを貼った瓶と、耐熱グラスのティーカップを取りだす。千切りにされた柚子の皮が、ねっとりとした柚子の果汁や蜂蜜等に浸食され、身動き一つできぬまま窒息死している物を、スプーンで掬ってお湯で解く。

 台所と廊下を隔てているのは摺りガラスの引き戸だ。トイレから玄関口へと戻る蓮のぼやけた姿が通っていく。

 好きな人が、自分宅の廊下を歩いている。

 美穂の心が、とくん、と鳴って、弾む。

 それは、柚子茶の湯気のように、ほわん、と、胸を温かくした。

 浮かれてしまった。


「お待たせぇ」


 自分がこしらえた設定を忘れて、美穂は声は抑える事なく、ティーカップを乗せた小さなお盆を、玄関先に座る煉の元へ運びながら声をかけていた。玄関マットの上にお盆を置くと、


「田畑さん、しーっ、だよ。御両親にバレたら、どうするのさ」


 と、言って、蓮は、左手で自分の身体を支えながら、美穂に顔を近づけた。その距離の近さに、美穂はドキリとする。


「あ、ごめ、…ごめんなさい」


「うん、まぁ、僕は、いいんだけど、さ。田畑さんが怒られるよ? それから、同級生なんだから、そんなかしこまらなくていいよ」


 蓮は、ちょっと呆れたような、困ったような表情をして、お盆の上に乗ったティーカップをソーサーごと取り、膝においたブランケットの上に手を乗せて、カップを口に寄せる。お盆を下駄箱に立てかけながら、美穂は煉に見惚れた。湯気の向こうの蓮は、実は蜃気楼なのではないか、と、思っていた。彼女にとって今の状況は、それほどまでに信じられない、幸福な時間だった。


 柚子茶を一口飲んだ蓮は、

「うん。美味しい」

と言うと、ソーサーをごみ箱の前に置き、そちらの方へ身体を寄せた。玄関マットを半分開けて、

「田畑さんも座ったら? 板間で正座はしんどいんじゃない?」

 と、隣をぽんぽんと叩く。


「え、あ…じゃあ…」


 遠慮がちに、美穂は膝で歩いて前に出ると、玄関口に足を出して座った。

 蓮が柚子茶を飲む間、美穂は、ただ、スカートの裾の汚れを見つめていた。


 カチャ

 蓮がカップをソーサーに戻す音が響く。


「ねぇ。田畑さん…」


 突然、名前を呼ばれ、美穂はドキリとした。

 ちらりと目を動かすと、蓮は、美穂の方へ身体を向けて、彼女の横顔をじっと見ている。


「耳朶…赤いよね」


「唇も、ちょっと腫れてるんじゃない?」


「もしかして、柚希と、なんか、した?」


 一つ一つ、言葉を区切り、真綿で首をしめるように、蓮は美穂を追い詰めた。ギクッ、ギクッと、美穂は固まる。『はい、キスしました』などと言えるわけもないまま、恐る恐るという風に、美穂は、蓮の方に顔をゆっくりと向けた。

 気が付けば蓮は、美穂の背中の後方にの左手をついていた。


「ねぇ。田畑さん。柚希としたでしょ…キス」


 優し気な笑顔を浮かべる蓮が、何故か、怖い。


「田畑さんを責めてるんじゃないよ。ただ僕は、柚希が、浮気したかどうかを聞きたいだけなんだ。…ねぇ。教えて」


 美穂の首が震えた。頷くべきか、横に振るべきか、解らなかった。

 頷けば、柚希とキスした事が蓮にバレてしまう。柚希にキスを教えたのが蓮なのだから、美穂が柚希越しに蓮のキスを知っている事もバレてしまう。かといって、至近距離の蓮の笑顔を見ながら平気で嘘などつけられるわけもない。


「田畑さんってさ、ほんと、嘘が下手だよね。…可愛い」


 蓮の右手が美穂の左肩と首の境界へと伸び、身体を捩じられる。


(えっ?)


 左手も、背中に回され、美穂は蓮の胸に顔を埋め、身体はすっぽりと蓮の腕の中にあった。


(!!!!!)


「僕にこうされるのって、いや? 美穂」


 蓮の声が左耳に届く。

 名前を呼ばれ、美穂の女がぞわりと蠢く。


「……あ……あの……」


「すごいね。美穂をビリビリ感じる。すごく気持ちいい」


 最後の理性によって紡ぎ出した、か細い美穂の声は、蓮の満足気な声の下、ポキリと折れ、

「……キス…して…」

 と、丸裸の想いが溢れた。


 美穂の背中に回された蓮の腕の力が緩み、蓮の舌が美穂の左耳を犯しにかかった。柚希は、美穂の右耳朶を甘噛みし、引っ張り、舌で転がすに留まったが、蓮の舌は、美穂の耳をマッサージでもするように、弧を描くように舐め上げ、奥深くに侵入しては、這い出るを繰り返した。


「はっ…はっ…はっ…はうっ…はっ…はんっ」


 舌の蠕動に呼応して美穂は息を弾ます。美穂の見開いた目が涙で潤む。美穂の腕は蓮の背中にしがみつこうとしたが、優等生の爪では、上手く登れなかった。


「ふぁあ…」


 耳の奥に舌が入り込んだまま、熱い息がもわんと吹き込まれて、一気に蕩けた。


「美穂、可愛い」


 ふにゃふにゃになった美穂の身体を蓮の腕が支える。美穂にはもう蓮の言葉に照れる余裕も無かった。ただ、もっと欲しい、キスが欲しい、と切実に思った。唇を奪って欲しい、と、目で訴えた。それを蓮に無視され、恥じらいをかなぐり捨て、小さく開けた唇を突き出す。それでもまだ、キスをくれない蓮に焦れ、


「お、ね、が、い」

 と、切羽詰まったように唇を動かした美穂に、

「キス…して、いいの?」

 と、蓮は逆に問いかけた。


「いいの? 美穂。ほんとに? 今の美穂の唇には柚希がいるよ。美穂は僕に柚希のキスを届けたいの?」


 美穂は、そんなのはイヤだと思った。唇を固く結び、目に涙を貯めた。欲しい、でもあげたくない、そう思った。

 蓮は半泣きの美穂の鼻先にキスした。


「ねぇ。美穂は知ってる? 女の人にはさ、もう一つ、口があるんだ…」


 美穂にも、その口というのが自分の、あの柚子茶のジャムのようにべたべたになっているだろう場所の事だと、直ぐに解った。渾身の力を振り絞り、美穂は蓮の背中に回した腕に力を込め、極細のピアノ線の声で強請った。


「そこに、して。そこが、いい」



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