愛とならない夜を消したい
久浩香
第1話 ぶらんこ
喫茶『珈琲専科』を後にした田畑美穂は、勾配など無いに等しい帰路を、自転車を押しながら、ぽてぽてと歩いていた。より正確にいうならば、自転車を押しているというよりは、ハンドルにもたれかかっているという方が近い。ハンドルにもたれかかる度、その力で車輪が回転し、どうにか美穂を前へ向かわせている。そんな感じだ。
ひどく疲れていた。
肉体的にも精神的にも、彼女はもうすぐ18年になろうとする人生の中で、これほどの疲労を負った事はなかった。あまり運動が得意でない彼女にとって、毎年、冬になると行われる体育の授業のマラソンが、今、彼女が受けているダメージに近いものではあるが、そんなものとは比べ物にならないほど遥かに大きい。
(月曜日…どうしよう)
美穂は、週明けに柚希とどんな顔をして挨拶を交わせば良いのかを心配していた。
彼女は、親友の柚希と接吻した。
冗談交じりのじゃれあうようなキスではない。
濃厚で、内に眠る女という性をほじくりだし、その目覚めを促進する、そんな接吻だ。無呼吸と過呼吸を繰り返しながら疲労困憊になったところで、どちらからともなく顔を離して、そっぽを向く。互いに、こそばゆいような、気恥ずかしいような、なんともいえない微妙な空気が流れた。
柚希も、美穂が聞いた事のない声を出していた。
本当は、もう一歩たりとも動きたくなかったが、正気に戻ったうちに別れなければ、第二波に襲われそうだ、と、互いに予感した。それに呑み込まれたら、今度はキスだけではすまない、そう直観し合っていた。
美穂が自転車を押しているのは、何も自転車を漕ぐ力も残っていないせいばかりではない。サドルに座ってあそこが摺れると、折角トイレットペーパーで拭き取ったものが滲み出てしまいそうだったからだ、最悪、その刺激で、はしたない声をあげてしまう可能性だってあった。
美穂は今、それほど自分の肉体を制御できないでいた。
美穂は、柚希の彼氏の高橋蓮を好きだ。
(そうよ。柚希が高橋君の名前を出したりなんかするから…)
と、自分があんな風になってしまったのは、柚希が蓮の名前を出したせいだと責任転嫁する事を試みたが、それがよくなかった。
再び、柚希の唇を借りた蓮とのキスに脳が支配されてしまい、ガクリと膝から力が抜け、あやうく転びかけた。
これは駄目だ、と、美穂は、途中にある公園で休む事にした。
中学の校区を分ける基準地となる道路に面しているが、今はもう、遊ぶ子供もいないような、小さくて忘れられたような公園だ。
遊具には砂場、滑り台、シーソー、雲梯、それからブランコがあるのだが、外灯もベンチも無い。ベンチの代わりにタイヤの半分が地面から突き出たような跳び箱にもなる物がありはするが、子供に合わせている為なのか、トラック等の大型車のものではなく普通の自動車のタイヤの上、経年劣化のせいで、美穂が手で押しただけで、ふにゃりと歪んだ。
こんな物に座り込んだら、変に刺激される怖さもあり、美穂はブランコにそろりと腰掛けた。座板を吊り下げる鎖を掴んで項垂れる。
(あん、もう…どうしよ…)
座ってしまってから、座るべきでは無かったと後悔した。もう、一歩も動ける気がしない。膝もそうだが、下着から拭い残っていたものが冷えて密着している。
じわりと涙が下瞼に貯まってくる。
公園には二ヶ所の出入り口がある。
美穂の涙が、彼女の制服のスカートに幾つかの染みを作った頃、美穂が入ってきたのとは反対の出入り口から、一台の自転車が侵入してきてライトが美穂の足元を照らした。眩い光というわけではないが、自転車に乗っている人物からは、こんな夜更けに女子高生が一人でブランコに座っている事は解っただろう。その自転車は、真っ直ぐブランコに座る美穂の方へやって来た。
(ひっ!)
美穂が変質者だと思っても仕方が無い。流石にまずいと思ったが、膝がいう事を聞かず、ブランコを廻る柵から外に出る事すらできなかった。
(やだっ……誰か…)
へたりこんだ美穂は、もうどうにも動く事もできないと、ブランコ柵を握り、その握った手の甲の上に顔を伏せた。
「田畑さん? 田畑さん、だよね」
美穂の頭頂部の上から聞こえてきたのは、蓮の声だった。
(えっ?)
「ああ、やっぱり田畑さんだ」
蓮の顔が柵の向こう側にあった。彼は、膝を折りその上に手を添えて、へたりこんだ美穂に合わせて、姿勢を低くしていた。
「ごめん。怖がらせちゃったね。…大丈夫?」
変質者でなくて安心したのか、美穂の手は柵から滑り落ち、力無く膝の上に落ちた。そして、泣いた。
★
「ごめんなさい」
「いや、こっちこそ、ごめん」
美穂は、蓮に家まで送って貰う事になった。
蓮は、柚希から呼び出された時間に引っ掛かった、と言った。流石に呼び出された理由については口を噤んだが、柚希の父親が、自分と柚希を閉店後の喫茶店に二人きりにする事を許すわけがなく、そうなれば、誰かを巻き込んでいるのではないか、と、推測したのだ、と言った。
「案の定でビックリしたよ。夜中に女の子を一人で帰すなんて、ねぇ。田畑さんも、柚希のこんな事に付き合う必要ないからね」
蓮は、美穂の危なっかしさに、自転車は公園に置いておいて、背負って帰る事を提案したが、彼女はそれを、全力で拒否した。
今の状態で…いや、今の状態でなくても、そんな事をされたら、恥ずかしすぎて、とても心臓が持ちそうになかった。互いに自転車を押しながら、時々、蓮から「大丈夫」と声をかけられる事が、美穂をたまらなく嬉しく淋しくさせた。
美穂はふと、柚希は辛いんじゃないだろうか、と、思った。
柚希が、あんなキスを美穂にできるようになるまでに、きっと、何度も、何度も、高橋君とキスをしていた筈だ。しかし、二人はまだ未経験だという。あんな、子宮がジュクジュクと掻きまわされるようなキスをされて、そのまま何も無いまま過ごし続けるなんて、美穂にはとても耐えられそうもなかった。
(あ…やだ…)
横に蓮がいるのも手伝ってか、子宮からキスが逆流してきた。耳が熱くなり、唾液が蒸発する。美穂は、ほんの少し立ち止まった。
「大丈夫?」
「あ、うん。平気…です」
みっともない姿を見られた事が恥ずかしくて、早く家に帰りたい、と思っていたが、いざ、自分の家が目視できるようになると、辿り着きたくない、と思っていた。
「高橋君、
美穂は、自宅の開けっ放しになってある格子状の伸縮ゲートの前を通過しかけた蓮に声をかけた。
ゲートの奥に前後二台分のスペースのあるカーポートの下には、後ろ側の一台の軽自動車しか停まっておらず、家は真っ暗だった。
「あの…送ってもらって、どうも、ありが「ックシュ!」とう……え? 大丈夫?…ですか?」
ハンドルは持ったまま、美穂が頭を下げて御礼を言うのを遮り、蓮はくしゃみをして、鼻をすすった。
「ははっ。恰好わり。ま、いっか。…えっと、じゃあ、まあ、無事に送り届けたという事で…」
鼻をいじりながら、蓮が自転車に跨ろうとするのを、
「あ、待って。高橋君」
と、美穂は引き留めた。
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