第2話

 ②

 

 吾輩は猫である。名前はおそらくない。

 この世に野良猫として生まれて早一年、なんとか野良の世界を生き延び道行く人間に餌をもらい、時には家の中に入れてもらい温もりを感じ、生きてきた。しかしまだ名前を呼ばれたことがない。知り合いの猫達は名前をもらっていることが大半で、時々羨ましくなる。たった一言で己を肯定する言葉。どうせ野良、長くは生きられないのだから、せめて誰かに名前を呼ばれたい。

 雨上がりの団地の入口横、ぼーっとしていたせいか近付く人影に気づかなかった。

「あれ?見ない子だね、新人さん?」

 柔らかな男性の声が水たまりに反響するように耳に入り込んだ。慌てて顔を洗うと男性はくすくすと目を細めて更に近づいてきた。普段なら逃げているところだが、何故だかその気が起きない。陽だまりのような声のせいだろうか。くしくしと顔を洗うのをやめて男性をじっと見やると、それはそれは嬉しそうに目の前にしゃがんだ。

「可愛い子だね。ふわふわで真っ白で雪みたい」

 ゆき、とはなんだろうか。私は何に似ているのだろうか。首を傾げると男性はまたうふふと私の真似をするように首を傾げて大層楽しそうに笑った。

「今いるのは君だけみたいだね。ほら、ご飯だよ、食べる?」

 缶をパカッと開ける音が心地よい。一気にいい匂いがするものだから男性に飛びついてしまった。

「おっと。あはは、お腹すいてるのかな?」

 ここへ来てから男性はずっとにこにこしている。すんすんと缶を持つ手に擦り寄ると大きく温かい手が私の頭をふわりと撫でた。ほんのり香る花のような香りと共に地面に置かれる缶に、男性をじっと見つめると、

「はい、どうぞ」

 花なんて数える程しか知らないが、男性から香る花はさぞ美しいんだと思う。

 

 2day

 

 小雨の雫が落ちる。雨は嫌いだ。生まれて間もない私は、母親に雨の中に置いてかれたからだ。屋根替わりにしている歩道橋の根元で丸まっているとふと花の香りがした。雫に混じってしっとりと香るそれは、あの人のものだった。

「今日はここにいたんだね、猫ちゃん」

 大きな傘を傾けて腰を折る男性に、昨日の缶詰の味を思い出す。ああ、美味しかったなあ。

「でもごめんね。今は猫缶持ってないんだ」

 申し訳なさそうに眉を下げる男性に、お腹空いてないから別にいいよと鳴くと男性はぱちくりと目を瞬かせてから花が咲くように笑った。途端、何かが満たされる感覚。

「きみはやさしいね」

 また昨日のように優しく撫でられる。やめてよ。どうしよう、大好きになっちゃうよ。

 離れていく手をすんすん鼻をつけてからすりすりと擦り寄ると、男性は至極嬉しそうに声をあげて笑った。

「ありがとう。お礼にきみに名前をつけたいんだけど、いいかな?」

 名前。名前。呼ばれるだけで生き返れるもの。

 思わず、ちょうだい!と鳴くとまた男性は笑って、「まかせて、素敵な名前を考えておくよ!」と目尻を下げた。

 ぽかぽかとする。雨は大嫌いで寒いのも大嫌いで、今日は大嫌いだったはずなのに、大好きな日になってしまった。

 

 3day

 

 今日もまた、お兄さんがやってきてくれたが、何やらしょんぼりというかめっそりというか、とにかくテンションが低い。にゃーにゃーと人間専用の声を出して機嫌をとろうとすると、それすらバレたのかお兄さんは切なそうに薄く笑った。

「今度お見合いが決まっちゃってさ……相手方は動物が嫌いらしいから気が乗らないんだよね……」

 お見合い。初めてのワードにぽかんとしているとお兄さんは丁寧に「お見合い」を教えてくれた。話を聞く限り、私も行くのは嫌になる。それでも義理を通すために行こうとするお兄さんは偉大だ。缶詰のご飯並に偉大だ。

 はあ、と大きなため息をついて私の隣に座ると横で丸まる私をわしわしと珍しく音を立てるように大きく撫でた。頭がぐわんぐわんした。にゃあ、とひと鳴きするとお兄さんはようやく朗らかに笑った。

「ああ、ごめんね。まだ名前決まってなくて……きみには素敵なものを貰ってばかりなのに、全然返せなくてごめんね……」

 素敵なもの?お兄さんを見つめて鳴くと、ふふ、とはにかんだ。

「癒しだよ。僕の居場所さ」

 

 4day

 

「けほっ、ごほっ。……ああ、ごめんね、今朝から咳が止まらなくて」

 雨はまたしとしとと降っている。咳をしながら花の香りを纏ってやってきたお兄さんはどこか具合が悪そうだ。歩道橋の陰から歩いてくるお兄さんに駆け寄ると片手で抱き上げてくれた。暖かい。また、ぽかぽかした。

「明日、お見合いなんだけどね……」

 いつもより近い距離のお兄さんにちょっとどきどきしてしまう。ふと、現実逃避のようにお兄さんが顔色を変えた。

「ねえ、なんだか僕達って初めて会った気がしないよね」

 じっとお兄さんを見つめる。

「きみとはずっとずっと前から一緒にいた気がするんだ」

 ……だなんて、猫ちゃん相手におかしな奴だよな。

 そんな事ない、あなたの愛をもっと知りたい。叫ぶようにお兄さんに頭突きをして鳴く。

「……きみも、そう思ってくれる?」

 冗談半分じゃない。少し垂れた瞳が揺らぐ。でもそれは希望だ。私達が一緒にいられるという小さな魔法。そんな魔法をお兄さんはかけてくれた。お兄さんがおじさんになって、私がおばあちゃんになっても、その後も一緒にいようと、プロポーズのようだ。

「あは、まるでプロポーズみたいだ」

 顔色が悪いながらに楽しそうに笑うお兄さんの顔に擦り寄る。

「あっ、ねえ、やっと名前が思いついたんだ」

「メルシー」って名前はどうかな?きみはメルシー。僕の感謝の気持ちだよ。

 

 5day

 

 吾輩は猫である。名前はメルシー。この名前ひとつで私は何度も立ち上がれる。勇気をくれた、偉大な名前だ。

 空は晴れ渡り、まさしくお見合い日和だ。しかし私は今日、悪い事を企んでいる。知られたらお兄さんにも苦い顔をされてしまうかもしれない。だが、あんな悲しそうなお兄さんの顔は見たくない。それにきっと、お見合いが成立されてしまったらもう会えなくなるかもしれない。だから、私は、お見合いを破綻させることに決めた。

 お兄さんがいつも通る道の物陰に隠れて、お兄さんが通るのを待つ。あっ、お兄さんだ。いつものさらさらした布じゃなくて、ピシッとした服を着ている。かっこいい。

 私は、そろそろとお兄さんの後をついて行った。

 車に乗って遠くへ行ったらどうしようかと思ったが、目的地はここらで一番目立つ建物の横にある厳かかつ静かな建物へお兄さんは入っていった。集会で聞いたことがある。あれは「料亭」というらしい。話によると中庭があるようで、そこへ向かうことにした。

 中庭は小さな池と時折高い音を鳴らす謎の物体がよく目立つ。木々は青々としていて、猫としても居心地が良さそうだ。ごろごろしたい。いや、だめだ。しっかりしないと。顔を洗って気を引き締めると、廊下の向こうからお兄さんと、女性の声がした。ピリリと緊張が走る。

「私、サボテンが好きなんですよ〜でも虫が苦手なので虫除けは必須なんです〜」

 あの女性が動物嫌いな人か。猫としては警戒しなければならない。

「そ、そうなんですね……」

 一方お兄さんはやはり顔色が悪くて時折咳をしている。なのに女性の方は気にせず自分の話ばかりしているのに少しカチンと来た。よし、もう出てしまおう。

「きゃっ!野良猫!?」

 ガサッとわざと音を立てて中庭を駆けてお兄さんの方へ向かうと、案の定女性は悲鳴をあげた。少し申し訳なくなる。でも、お兄さんのためなんだ。我慢して欲しい。

「えっ……メルシー?」

 お兄さんは目をまん丸にしてから、また咳をした。大丈夫?と言っても咳は止まらない。

「あのっ!この猫追い出してもらえますか!?私猫が一番嫌いなの!!」

 半ばヒステリックに叫ぶ女性をよそにお兄さんは咳がだんだん強くなっていき、今までで一番大きな咳と共にゴプッと水の音がした。お兄さんが膝をつく。口元をおさえた手のひらの隙間から赤い液体が垂れてきた。

「え、大丈夫ですか……?っあの!誰か来てください!誰か!」

 女性も膝をついて叫ぶ。どうしよう。どうしよう。お兄さん苦しそうだ。猫の自分には何も出来ない。しかしそんな私を見つめるお兄さんの瞳はいつも通り優しかった。

「……あんた、いつまでいるのよ。邪魔なのよ!」

 大きなヒステリックな声と同時に腹部に衝撃が走った。あ、蹴り飛ばされたんだ。と気付いた時には水中にいた。雨は嫌いだ。水も嫌いだ。でもお兄さんが雨も花の香りに変えてくれた。ぶくぶくと己が沈んでいくなかお兄さんは大丈夫だろうかとそればかり考えてしまう。息が苦しい。体が重い。お兄さん。お兄さん。名前を呼んで。

「……メルシー?」

 

 赤いランプが存在を主張する車にストレッチャーで乗せられると、やっと気がついたように息苦しさがやってきた。肺が刺されるように痛い。呼吸が上手く出来ない。周りで何か言っているようだが、何も聞こえない。一瞬気を失う直前に見えた、池に落ちるメルシーの姿が心配で仕方ない。だが、ひどい眠気だ。メルシー、待ってて。すぐ戻るから。だから、名前を呼んだら来てほしいな。

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永遠とは永久 青木はじめ @hajime_aoki

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